徒然草(占い・岡山・東京・霊視)

    あなたを元気にしたい、それが私の願いです。

    白洲次郎~前編。

    おはようございます。 昨日も無事に東京より帰ってきましたが、毎年恒例~酉の市(花園神社)へ行きました。 昨年は事務所へ入れるも一苦労のサイズでしたが今年はサイズを考慮して、お越し頂ける素敵なお客様へ福が授かるよう、これから一年を見守ってくれると思います。

    素敵なお客様に喜んで頂けるのは無上の幸せで、人は何の為に生きるのかと言うのを誰しも、ふとした瞬間に思いを馳せるかもしれませんが、「誰かの役に立つ」~「生きているから、生きているだけ」など、人により答えは千差万別だと思います。

    そうは言っても人である以上は、「あぁ言う、生き方をしてみたいなぁ~」と思うこともあるはずで、女性ならマザーテレサとかヘレン・ケラーなど色々な偉人が上がるかもしれないし、○○先輩のようになりたい~□□さんみたいになれたらなど、身近な人が目標かもしれません。

    私は心の在り方については斎藤茂太先生の本が県北時代は支えになりましたが、それ以外にも故松下幸之助氏の本を読破して考え方に影響を受けたのも、今となっては若気の至りで恥ずかしい時間だったと思います。

    さて、東京出張で日本橋へ宿泊した時に食事をする為、繁華街を歩いていたら路地へ怪しげなお店があったので立ち寄りました。 細い路地にある洋食屋さんでカレーを食べたのですが、これが今までの人生で一番美味しいカレーで、そのお肉が信じられない美味しさで感動モノでした。

    このお店は某ステーキ店の切り落としを有効利用する為にできたお店で、切り落としのお肉を捨てるのは勿体ないからと、カレーに入れて出していた洋食屋さんだったのです。

    ならば、本家本元のステーキ屋さんへも行ってみようと、さっそく予約を入れて行きましたが、幅が1Mほどの路地裏に看板も何も出していなくて、木のドアがあるだけなので普通は通り過ぎるか、ちょっと入るのに勇気がいるので気軽には無理な感じです。

    カウンターに座ると目の前に気難しそうな御主人がいますが、話を始めると饒舌な方で白洲次郎さんとの思い出話は密かに自慢のようで、「俺は白洲次郎とツレだ!」との自慢が言葉の端々に出ます。 (苦笑)

    「白洲次郎って、誰…?」となる人が多いと思いますが、「白洲次郎(しらす・じろう)」とは元官僚で実業家、貿易庁長官や東北電力会長などを歴任た人です。 終戦直後に吉田茂の側近として連合国軍最高司令官総司令部と渡り合い、「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた人で、簡単な経歴を解説したいと思います。

    連合国軍占領下の日本で吉田茂の側近として活躍、終戦連絡中央事務局や経済安定本部の次長を経て、商務省の外局として新設された貿易庁長官になり、吉田政権崩壊後は実業家として東北電力会長など多くの企業の役員を歴任しました。

    1902年(明治35年)2月17日に兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)に生まれ、1914年(大正3年)旧制第一神戸中学校(のち兵庫県立神戸高等学校)に入学、1919年(大正8年)神戸一中を卒業してケンブリッジ大学クレア・カレッジへ留学、1925年(大正14年)にケンブリッジ大学を卒業して帰国しました。

    1929年(昭和4年)に英字新聞の「ジャパン・アドバタイザー」で記者、そして伯爵の樺山愛輔の長男である丑二の紹介で妹の正子と出会い結婚、その後はセール・フレイザー商会に勤務、1937年(昭和12年)に日本食糧工業(後の日本水産)取締役となりました。

    この間に海外へ赴くことが多く駐イギリス特命全権大使であった吉田茂の面識を得て、イギリス大使館を定宿とするまでになり、牛場友彦や尾崎秀実と共に近衛文麿のブレーンとして行動しました。

    1945年(昭和20年)に東久邇宮内閣の外務大臣に就任した吉田の懇請で、終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任、白洲次郎はイギリス仕込みの英語で主張すべきところは頑強に主張、この時に有名な「従順ならざる唯一の日本人」の一言が出ました。

    また、昭和天皇からダグラス・マッカーサーへのクリスマスプレゼントを届けた時、「その辺にでも置いてくれ」とプレゼントがぞんざいに扱われたことに激怒、「仮にも天皇陛下からの贈り物を、その辺に置けとは何事か!」とマッカーサーを怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせました。

    1948年(昭和23年)12月1日に商工省へ設立された貿易庁初代長官に就任、汚職根絶などに辣腕を振るい商工省を改組し通商産業省(のち経済産業省)を設立、その辣腕ぶりから「白洲三百人力」と言われました。

    同年に日本製鐵広畑製鉄所(現在の新日本製鐵広畑製鐵所)が日本側に返還、次郎は外貨獲得の為にイギリス企業へ売却を主唱するも永野重雄の反対で頓挫、永野は「広畑製鐵所を取れなかったら腹を切る」と啖呵を切り、次郎と永野は銀座のクラブで取っ組み合いの大ゲンカとなりました。

    1951年(昭和26年)9月にサンフランシスコ講和会議へ全権団顧問として随行、外務省の説明によると首席全権であった吉田茂は英語で演説を行うつもりでした。

    この受諾演説の原稿を外務省の役人がGHQの了解を得た上で、GHQに対する美辞麗句を並べた上に英語で書いたことに白洲が激怒、「講和会議と言うものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。 その晴れの日の原稿を相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、急遽日本語に書き直しました。

    注:楽天やユニクロは社内公用語が英語ですが、この話を読んで日本の尊厳(Dignity of Japan)に付いて、どのように感じるのか聞いてみたいところですが、母国語を疎かにするのは愚かな行為なのかもしれません。

    原稿は和紙に毛筆で書いたものを繋ぎ合わせた長さ30m~直径10cmにも及ぶ巻物となり、1951年9月8日にオペラハウスで読み上げられました。 その様子を海外メディアは「吉田のトイレットペーパー」と報じ、某国寄りの朝日新聞は天声人語で「不思議な巻紙の勧進帳」と非難しましたが、日本人なら日本語で発言するのは当たり前のことです。

    1952年(昭和27年)11月19日から1954年(昭和29年)12月9日まで、外務省顧問を務めたのですが吉田退陣後は政界入りを望む声に関係なく、政治と縁を切り実業界に戻ったのです。

    長くなるので、明日へ続きます。

    m(__)m

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