
おはようございます。 素敵なお客様には信じられない幸運が降り注ぐ、それを祈っているのが本当に楽しいことで、誰かが喜ぶ顔や嬉しいことが起こる未来を想像するのは楽しいから、もっと多くの人々の役に立つ為にも更に精進していきたいと思います。
さて、多くの人を魅了すると言う点ではオペラもその一つで、オペラとは舞台上で衣装を着けた出演者が演技を行う点で演劇と似ていますが、役柄の感情表現が歌手による歌唱で進められることを特徴とします。
日本でのオペラの歴史については、1894年11月24日に東京音楽学校奏楽堂で、ハンガリー大使館職員によりファウスト第1幕が上演されたのが、日本で行われているオペラの原点と言われています。
そして1903年に東京音楽学校&東京帝国大学の教師らの指導の下に、グルックのオルフェウスが上演され、1911年に創設された帝国劇場に歌劇部が併設されて、オペラの小規模な上演が行われるようになりました。
この時代には日本人による創作オペラの作曲と上演が行われていましたが、日本人によるオペラには東儀鉄笛(1869年~1925年)の常闇(1906年・台本=坪内逍遥)や、小松耕輔(1884年~1966年)の羽衣(1906年・台本=小林愛雄)があります。
帝劇オペラは帝国劇場との名前でしたが国営ではなく株式会社だったので、財政難から上演の継続が困難となり1916年に帝劇洋劇部は解散となりました。 この時期に来日して洋劇部の指揮者を務めていたジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシーは、自腹を切ってオペレッタ劇場ローヤル館を運営するも1年足らずで閉鎖となりました。
その後は浅草で浅草オペラとして知られる公演が行われ、色々なオペラ劇団による公演が行われて大衆化に貢献、この浅草オペラも1923年の関東大震災による劇場の焼失で衰退して1925年には消滅しました。
喜劇の榎本健一は浅草オペラで活躍して、その後の音楽性にあふれた軽妙かつ活動的な芸風は、浅草オペラの経験によるものと噂されているようです。
1932年にヨーロッパで活躍していたテノール歌手の藤原義江が帰国して、藤原歌劇団の前身の東京オペラ・カムパニーを設立して本格的公演を行いました。 1939年には藤原歌劇団となり、1942年にはローエングリンを上演しています。
第二次世界大戦後の1952年に東京音楽学校の出身者たちで二期会を設立、藤原歌劇団と共に戦後の日本オペラの中心的存在として、本格的なオペラ上演を展開していくことになりました。
1956年に第1回イタリア歌劇団公演がNHKの招きで東京宝塚劇場で公演、これは主要歌手や演出家などのスタッフのみがイタリア人で、管弦楽団や合唱や舞台美術は日本人がイタリア人に教えを受けるタイプでした。
海外渡航が難しくて円の力が弱い時代に本場のオペラを見ることで、日本のオペラの実力アップに繋がりました。 その後も他のオペラ団体が生まれたのですが、先程の二期会や藤原歌劇団を含めて専用の劇場を持っている団体はありません。
1997年には日本初のオペラ専用の新国立劇場が誕生して、専属のオーケストラや歌手や音楽監督は存在せず専属の合唱団があるのみでした。
地方を含めた多くの都市には地元のアマチュアの合唱団と、プロのソリストやオーケストラが共演する市民オペラが存在して、地方では地元の民話などを題材にした新作オペラが上演されることもあります。
それでも主要都市が歌劇場を持って専属のプロの歌手やオーケストラ、合唱団や音楽監督が存在するヨーロッパとは大きな隔たりがあります。 ただし、日本にはヨーロッパほど自国団体のオペラ上演に対する需要がないので、オペラの盛況は発祥の地であるヨーロッパ特有とも考えられます。
日本語によるオペラの発声法については確立されていないとも言え、日本語は母音が多いので誰が何を言っているのか同音異義語が多くてわかりにくいです。
2002年に小澤征爾氏がウィーン国立歌劇場の音楽監督になりましたが、歌詞にウィーン訛りやイタリア語訛りの出てくるリヒャルト・シュトラウスのバラの騎士で、そうした訛りが聞き取れませんでした。
この年になってこんなに勉強できるのは嬉しいと話していましたが、本来は音楽監督から学び取る、そして舞台を引っ張っていく存在であらねばならず、現在の日本人の限界があるとも言われています。
なお、昔は移動に時間がかかりすぎて自由に行き来できなかったので、歌劇場と歌手が契約したら、その歌劇場で歌うのが原則と言う時代もありました。 (今は舞台装置など色々なことが便利になっているので、そんなことはありません。)
マーラーがウィーン国立歌劇場に登場した当時、序曲を含むオペラ上演中の客席入場を禁じました。 それまでの歌劇場は上流階級の社交場でしたから、ドレスでロビーを彩り社交場の意味合いもありましたが、その為に開演時間を過ぎて客席に着くケースが多かったのですが、それをやめさせるようにして行ったのです。
そしてカラヤン以後は字幕付き原語上演が主流になりまして、更にジェット旅客機などの交通機関が発達すると、世界のトップ歌手は劇場専属になるより有力な音楽エージェントと契約して、世界中の歌劇場にメインキャストで出演する為にジェット機で飛び回るのが主流になり、歌劇場専属は中堅歌手が主流になっています。
一度はオペラを見に行きたいと思いつつも、オペラは上演時間が長いのでなかなか行きずらいのですが、ワーグナーの作品だと演出によって6時間ですから、15時から始まっても休憩を入れると終わりは22時なんてことになります。
最後に、以前からの夢が一つ叶ったので嬉しくて御報告ですが、志村けんさんの留守電の応答メッセージは小泉今日子さんですが、私も同じようなことをしてみたいと思いつつ機会は無かったのに、ある方にお会いできたのでダメもとで頼んでみるとOKでした。
今の私の留守電の応答メッセージはある方の声で流れますので、誰の声かは公表できませんけれど、興味のある方は昼間に電話したら留守電に切り替わるので聞けます。
声の通り~滑舌~響きなどさすがプロと素人の私が言うのも失礼ですが、音源は綺麗な声ですが留守電になると再現できているか少々不安ですが、夢が叶ったので幸運のお裾分けです。
あなたはオペラ、見たことがありますか?
o(^-^)o ワクワクッ
お知らせ:東京出張の為、ブログの更新はお休みします。 再開は帰ってからの予定、素敵なお客様に御支援と御愛顧頂ける、そんな奇跡に感謝の気持ちで一杯です。 いつも御予約頂き、本当にありがとうございます。 m(__)m
予約専用電話:090-4690-4618
予約受付日時:火・水・木の夜8~10時
東日本の方は東京事務所へ、
西日本の方は倉敷事務所へ、
予約をお入れ下さいませ。
鑑定は年中無休で、365日鑑定しています。
霊視カウンセリング 山崎かずみ
倉敷事務所:岡山県倉敷市川西町1-9
東京事務所:東京都港区赤坂9-1-7
さて、多くの人を魅了すると言う点ではオペラもその一つで、オペラとは舞台上で衣装を着けた出演者が演技を行う点で演劇と似ていますが、役柄の感情表現が歌手による歌唱で進められることを特徴とします。
日本でのオペラの歴史については、1894年11月24日に東京音楽学校奏楽堂で、ハンガリー大使館職員によりファウスト第1幕が上演されたのが、日本で行われているオペラの原点と言われています。
そして1903年に東京音楽学校&東京帝国大学の教師らの指導の下に、グルックのオルフェウスが上演され、1911年に創設された帝国劇場に歌劇部が併設されて、オペラの小規模な上演が行われるようになりました。
この時代には日本人による創作オペラの作曲と上演が行われていましたが、日本人によるオペラには東儀鉄笛(1869年~1925年)の常闇(1906年・台本=坪内逍遥)や、小松耕輔(1884年~1966年)の羽衣(1906年・台本=小林愛雄)があります。
帝劇オペラは帝国劇場との名前でしたが国営ではなく株式会社だったので、財政難から上演の継続が困難となり1916年に帝劇洋劇部は解散となりました。 この時期に来日して洋劇部の指揮者を務めていたジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシーは、自腹を切ってオペレッタ劇場ローヤル館を運営するも1年足らずで閉鎖となりました。
その後は浅草で浅草オペラとして知られる公演が行われ、色々なオペラ劇団による公演が行われて大衆化に貢献、この浅草オペラも1923年の関東大震災による劇場の焼失で衰退して1925年には消滅しました。
喜劇の榎本健一は浅草オペラで活躍して、その後の音楽性にあふれた軽妙かつ活動的な芸風は、浅草オペラの経験によるものと噂されているようです。
1932年にヨーロッパで活躍していたテノール歌手の藤原義江が帰国して、藤原歌劇団の前身の東京オペラ・カムパニーを設立して本格的公演を行いました。 1939年には藤原歌劇団となり、1942年にはローエングリンを上演しています。
第二次世界大戦後の1952年に東京音楽学校の出身者たちで二期会を設立、藤原歌劇団と共に戦後の日本オペラの中心的存在として、本格的なオペラ上演を展開していくことになりました。
1956年に第1回イタリア歌劇団公演がNHKの招きで東京宝塚劇場で公演、これは主要歌手や演出家などのスタッフのみがイタリア人で、管弦楽団や合唱や舞台美術は日本人がイタリア人に教えを受けるタイプでした。
海外渡航が難しくて円の力が弱い時代に本場のオペラを見ることで、日本のオペラの実力アップに繋がりました。 その後も他のオペラ団体が生まれたのですが、先程の二期会や藤原歌劇団を含めて専用の劇場を持っている団体はありません。
1997年には日本初のオペラ専用の新国立劇場が誕生して、専属のオーケストラや歌手や音楽監督は存在せず専属の合唱団があるのみでした。
地方を含めた多くの都市には地元のアマチュアの合唱団と、プロのソリストやオーケストラが共演する市民オペラが存在して、地方では地元の民話などを題材にした新作オペラが上演されることもあります。
それでも主要都市が歌劇場を持って専属のプロの歌手やオーケストラ、合唱団や音楽監督が存在するヨーロッパとは大きな隔たりがあります。 ただし、日本にはヨーロッパほど自国団体のオペラ上演に対する需要がないので、オペラの盛況は発祥の地であるヨーロッパ特有とも考えられます。
日本語によるオペラの発声法については確立されていないとも言え、日本語は母音が多いので誰が何を言っているのか同音異義語が多くてわかりにくいです。
2002年に小澤征爾氏がウィーン国立歌劇場の音楽監督になりましたが、歌詞にウィーン訛りやイタリア語訛りの出てくるリヒャルト・シュトラウスのバラの騎士で、そうした訛りが聞き取れませんでした。
この年になってこんなに勉強できるのは嬉しいと話していましたが、本来は音楽監督から学び取る、そして舞台を引っ張っていく存在であらねばならず、現在の日本人の限界があるとも言われています。
なお、昔は移動に時間がかかりすぎて自由に行き来できなかったので、歌劇場と歌手が契約したら、その歌劇場で歌うのが原則と言う時代もありました。 (今は舞台装置など色々なことが便利になっているので、そんなことはありません。)
マーラーがウィーン国立歌劇場に登場した当時、序曲を含むオペラ上演中の客席入場を禁じました。 それまでの歌劇場は上流階級の社交場でしたから、ドレスでロビーを彩り社交場の意味合いもありましたが、その為に開演時間を過ぎて客席に着くケースが多かったのですが、それをやめさせるようにして行ったのです。
そしてカラヤン以後は字幕付き原語上演が主流になりまして、更にジェット旅客機などの交通機関が発達すると、世界のトップ歌手は劇場専属になるより有力な音楽エージェントと契約して、世界中の歌劇場にメインキャストで出演する為にジェット機で飛び回るのが主流になり、歌劇場専属は中堅歌手が主流になっています。
一度はオペラを見に行きたいと思いつつも、オペラは上演時間が長いのでなかなか行きずらいのですが、ワーグナーの作品だと演出によって6時間ですから、15時から始まっても休憩を入れると終わりは22時なんてことになります。
最後に、以前からの夢が一つ叶ったので嬉しくて御報告ですが、志村けんさんの留守電の応答メッセージは小泉今日子さんですが、私も同じようなことをしてみたいと思いつつ機会は無かったのに、ある方にお会いできたのでダメもとで頼んでみるとOKでした。
今の私の留守電の応答メッセージはある方の声で流れますので、誰の声かは公表できませんけれど、興味のある方は昼間に電話したら留守電に切り替わるので聞けます。
声の通り~滑舌~響きなどさすがプロと素人の私が言うのも失礼ですが、音源は綺麗な声ですが留守電になると再現できているか少々不安ですが、夢が叶ったので幸運のお裾分けです。
あなたはオペラ、見たことがありますか?
o(^-^)o ワクワクッ
お知らせ:東京出張の為、ブログの更新はお休みします。 再開は帰ってからの予定、素敵なお客様に御支援と御愛顧頂ける、そんな奇跡に感謝の気持ちで一杯です。 いつも御予約頂き、本当にありがとうございます。 m(__)m
予約専用電話:090-4690-4618
予約受付日時:火・水・木の夜8~10時
東日本の方は東京事務所へ、
西日本の方は倉敷事務所へ、
予約をお入れ下さいませ。
鑑定は年中無休で、365日鑑定しています。
霊視カウンセリング 山崎かずみ
倉敷事務所:岡山県倉敷市川西町1-9
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