徒然草(占い・岡山・東京・霊視)

    あなたを元気にしたい、それが私の願いです。

    サー・ラザフォード・オールコック。

    おはようございます。 素敵なお客様がいるからこそ今が存在する、作り上げる未来の価値を上げるのは、素敵なお客様だと言う紛れも無い真実があり、これからも素晴らしい未来を素敵なお客様が作り上げると思えば、ますますワクワクドキドキが広がると思います。

    個人の力は小さいと思われがちですが、それが意外と大きなうねりになることもあるのが人生の不思議なところで、これからご紹介するのは「サー・ラザフォード・オールコック」で、イギリスの「医師・外交官・清国駐在領事・初代駐日総領事・同公使」です。

    オールコックは1809年にロンドン西郊のイーリングで医師の息子として生まれ、母親が早く亡くなったのでイングランド北部の親戚の家に預けられ、15歳の時に父の元に戻り医学の勉強を始めました。

    ウェストミンスター病院&眼科病院で1年間の教育を受けた後、1828年までパリに留学してフランス語やイタリア語も勉強しましたが、その勉学の傍らに彫刻家のアトリエに通い彫刻の手ほどきを受けました。

    ロンドンに戻った後は先の病院で研修医として2年間過ごし、1830年に王立外科学校から開業医としての免許を得て、その後はイギリス軍の軍医となり戦乱のイベリア半島に赴任しました。

    ロンドンに戻った後は内務省解剖検査官などをして、外務省の要請によりイベリアでの外交問題処理で再びスペインやポルトガルに赴任、そしてイベリアでの過労が祟りリウマチに犯され両手の親指が全く利かなくなりました。

    これにより外科医として将来を断念、外務省に入って外交官となりました。 折りしもアヘン戦争後の南京条約が清との間に締結、清の5港が開港した為に1844年オールコックは福州領事に任命されました。

    しばらくアモイで過ごした後に条約港福州での領事業務に携わり、不平等条約で規定された租界管理や領事裁判権などの複雑な業務で成果を挙げ、1846年に上海領事~1855年に広州領事、15年の長きに渡り中国へ在勤しました。

    オールコックは市場開拓の為に清との再戦論を唱え、上海領事だった頃には首相パーマストン子爵に清に武力行使をするよう進言する書簡を送り、アロー戦争を引き起こしたので割と武闘派な人です。
    そして1858年エルギン伯ジェームズ・ブルースが訪日して日英修好通商条約が締結、1859年7月1日より長崎~神奈川~箱館の3港が開港することが約束され、オールコックは極東在勤のベテランとしての手腕を買われ、1859年3月1日付けで初代駐日総領事に任命されました。

    また、1860年9月11日に富士山への登山(富士宮側)を行いましたが、これは記録の残る中では外国人として初めての登山者で、その時の記念碑が熱海市内の湯汲坂に現存しています。

    そして1861年1月14日に米国駐日公使タウンゼント・ハリスの通訳を務めていた、ヘンリー・ヒュースケンが攘夷派に襲われて翌日死去、オールコックは外国人の安全を保証できない幕府への抗議として外交団が横浜へ引き移ることを提案しました。

    その後もイギリス公使館を攘夷派浪士14名が襲撃、オールコックは無事でしたが一等書記官ローレンス・オリファントと長崎駐在領事ジョージ・モリソンが負傷、これを機にイギリス水兵の公使館駐屯が認められ、イギリス艦隊の軍艦が横浜に常駐するようになりました。

    1860年頃より幕府は新潟~兵庫~江戸~大坂の開港開市延期を求めていましたが、しばらくしてオールコックは開港開市延期の必要性を理解して、幕府が派遣予定の遣欧使節を強力にサポート、この遣欧使節がロンドン万国博覧会に招待客として参加できるよう手配、更に自身の休暇帰国を利用して直接英国政府に開港開市延期を訴えました。

    オールコックは老中首座・久世広周と秘密会談を持ち、より詳しく日本の情勢を理解、そして5年間の開港開市延期を認めるロンドン覚書が調印、オールコックはバス勲章を授与されてサーの称号を得ました。

    約2年の休暇の後で1864年春に日本へ帰任、日本の様相は一変して帰国中に生麦事件とそれに対する報復としての薩英戦争が発生、長州藩による外国船砲撃で関門海峡は航行不能となるなど、日本国内の攘夷的傾向が強くなりました。

    幕府も攘夷派懐柔の為にヨーロッパに横浜鎖港談判使節団を派遣、オールコックは打破しようとして四国艦隊下関砲撃事件では主導的役割を果たすが、これを認めなかった外相ジョン・ラッセルにより帰国が命じられました。

    その後にオールコックの外交政策が至当であったことが認められ、日本への帰任を要請されますが拒否、1865年には当時のアジア駐在外交官の中では最も地位が高い清国駐在公使に任じられ1869年まで北京に在任、同年に外交官を引退して王立地理学会や政府委員会委員などを歴任して1897年にロンドンで死去しました。

    オールコックは日本人に暗殺されようとしたのに、日本と日本人を庇い日本の為に尽くしてくれたのは何故か、それは外国人として初めて富士登山をした記念碑を熱海に立てた時、お供の愛犬トビーが間欠泉から噴出した熱湯を浴びて大ヤケドを負い亡くなりました。

    大変な愛犬家であったオールコックの悲しみは一入でしたが、熱海の人たちはトビーの大好物だった大豆を供え、お坊さんを呼んでお経をあげて人を悼むのと変わらない葬儀をして、手を合わせて一緒に泣いてくれた姿にオールコックは驚きました。

    これにより「日本人は野蛮人のはず…?」と言う誤解が解け、水戸浪士が真夜中に襲撃した時は危機一髪、風呂桶の中に身を隠して難を逃れたと言うような、数々の危険な体験が嘘のように消えたのです。

    「東洋人は脅せばいい」と英国人は清で物騒な教訓を得て、全ての交渉の場において居丈高に高圧的態度で臨んでいましたが、それ以後は「接し方を改めよう」とオールコックのおかげで静かな会談が持てるようになりました。

    その後も長州の攘夷や薩英戦争や水兵斬殺事件とトラブル続きですが、「革命期の混乱に巻き込まれているのだからしょうがない」と、オールコックは命を狙われているにも関わらず本国へ日本贔屓の報告をしてくれました。

    「敵視すべきでない。 むしろ親しむべき民族である」と言い続け、ついには本国の上層部と意見が対立して解雇されてしまいますが、帰国後も日本の本当の姿を知らせる文筆活動をしてくれました。

    オールコックは世界に向けて日本を好意的に紹介してくれた素晴らしい人物で、やがて英国は親日に傾き日英同盟を結ぶまでになったのはオールコックのおかげです。

    私は富士山が世界遺産に登録された時にオールコックのことを思い出して、イギリスと連携して世界で初めて富士山に登った外国人はイギリスのオールコックとアピール、そうすればイギリス国民の関心も引き寄せて自動的に世界へのアピールが有利、これができないのは官僚も政治家も下手と言うか抜けている点だと思います。

    日本を嫌いな中韓なんか相手にせず、こういう人物に焦点を当てて日本の子供たちに学ばせるのが日本人としての役目で、正しい歴史認識をきちんと子供たちへ伝えていくことも大人として大切なことです。

    あなたはサー・ラザフォード・オールコックを、ご存知でしたか?

    (´ー`*)ウンウン

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