
おはようございます。 昨日も無事に東京より帰ってきましたが、これもひとえに素敵なお客様のおかげで本当にありがとうございます。 毎日を恙無く過ごせるのはありがたいことで至らぬ私ではございますが、素敵なお客様の幸せのお手伝いを続けていけるよう精進して参りたいと思います。 m(__)m
さて、今日は私が羽田空港へ行く時の時間待ちなどにも使い、年間で言うとかなりの頻度で行く場所の御紹介で、ここは有料であるが故に変な人が来ないから逆にパワースポットとして維持されている場所で、名前は「東京都立旧芝離宮恩賜庭園」です。 (名前が長いので、以後は芝離宮と略します。)
基本的に「恩賜」とは君主から臣下などに、これまでの忠節や功労を感謝する為に与える物品や行為を指しますが、日本の場合は「恩賜」と単に言う時は天皇陛下より賜ったモノを指します。
しかし、いくら恩賜でも上野恩賜公園は無料だからホームレスや外国人の溜まり場で、上野弁財天も悪い雰囲気や気の流れで酷いモノです。 芝離宮は入場料が1回150円で年間パスポートは600円、私は年間パスポートだから何回利用しても1年間で600円、いやらしい言い方をすれば元は充分に取れます。
ところが上野恩賜公園にたむろしている人たちからすれば、1回150円(年間パス600円)すら払いたくないので有料の芝離宮へは来ないから、静かで優雅で心落ち着ける場所が維持され、ここでランチを取るOLさんなどもどことなく品が違います。
無料(タダ)で入れるが故に汚し放題でも平気な人が集まるから、上野恩賜公園は人間により汚されている土地とも言え、せっかくの良い雰囲気の場所を壊して行くのは悲しいと思います。
では、説明に入りますがデジカメの小部屋を見ながらの方が、今日の内容はよく分かるかもしれません。 この「東京都立旧芝離宮恩賜庭園」は東京都港区海岸にある都立庭園で、大久保忠朝上屋敷の庭園楽寿園が始まりです。
この「大久保 忠朝(おおくぼ ただとも)」は江戸時代の大名(老中)で相模小田原藩主、江戸時代初期に本多正信(正純)父子との抗争に敗れて失脚した大久保忠隣の孫で、従兄の大久保忠職の養子となりました。
家督を相続する前より小姓や小姓組番頭を勤めて、寛文10年に肥前唐津藩9万3000石を相続して延宝5年に老中となりました。
貞享3年には祖父忠隣の領地であった小田原への復帰を果たし漸次加増を受け、最終的に11万3000石となり、特に謳歌評説などでは忠朝を戸田忠昌や阿部正武ら同僚と並べて、「善人の良将」と評されるほどで、徳川吉宗が世に出るきっかけを作った人物でもあります。
なお、現在の旧芝離宮恩賜庭園は延宝6年に忠朝が、4代将軍徳川家綱から拝領した庭園が原型となっています。 (大まかには、将軍家⇒天皇家⇒都立、こんな流れです。)
そして宮内庁管理の離宮を経て大正13年に東京市へ下賜され、旧芝離宮恩賜庭園として公開されました。 離宮とは皇居や王宮とは別に設けられた宮殿のことで、一般的には王族・皇族等が居住する為に建設された宮殿とは別の敷地に建設されます。
例えば、皇太子などが成人・結婚して天皇・皇帝と別に住居を構える場合などで、他にも避暑・避寒・静養の為に建てられる場合もあります。 日本では一定規模の建造物と敷地を有したものを離宮、小規模のものを御用邸と言います。 明治以前には上皇や法皇の退位後の離宮として、「後院」と呼ばれる離宮が築かれていて専属の役人がいました。
そして先ほど書きましたように、ここは上屋敷内に作庭した大名庭園楽寿園を起源とする回遊式庭園で、池田山公園も小さいけれど回遊式です。
この大名庭園とは江戸幕府政権下の江戸時代において、各藩の大名が江戸や地元で築造した庭園で各藩がそれぞれ競い合った結果、造園技術は発達して江戸時代に日本庭園築造技術が頂点を成したと言われます。
江戸時代初期に王朝風と呼ばれる平安時代以降の伝統的で豪華絢爛な池庭や枯山水、あるいは禅院で発達した枯淡な枯山水や露地から出発し書院造に影響を与える茶庭など、多くの様式が並存する時代で、これらの様式が集大成された回遊式庭園が誕生しました。
ただし、大名庭園は各地諸藩の大名の邸宅や別荘に設けられた庭園の総称で、様式名ではなく様式として見るなら大名庭園は上記のいずれかに分類されます。
各藩は大名庭園を遊興や日本武術の馬術用馬場や弓術用の的場、回遊形式を取り入れた庭園の構造から散歩・散策などを楽しむ空間として利用して、造園技術も各藩間で技術交流が行なわれて園芸学や博物学などもそれに伴って発達、池の周りを回遊して観賞するように造られ、庭園内の景観として自分の好む名勝地をモチーフとしたものが配されました。
それらはいずれも庶民の遊観所で、こういう景観を引き締める為&利用上から、休憩所としての茶屋や御堂を建て、これらの建物と庭景観とで局所局所を纏め、順路に沿って回遊するようにできています。
次々と展開されていく変化の多い景観は、広々した池面に出る前に必ず鬱蒼と茂った木立を通り、山々を通り抜ける時も変化にとんだ建物や橋で飽かせることがありません。
当時の江戸は面積の約50%がこのような大名庭園と大名屋敷で占められ、これらの庭園は明治期に一旦は存亡の危機でしたが当時の上流層の大邸宅に蘇り、東京の名称史跡に指定される日本庭園・新宿御苑・戸山公園・墨田公園内日本庭園・鍋島松涛公園などは、これら江戸期の大名庭園跡地が利用されています。
最後に補足と説明ですが、7月26日のブログで御案内した一つ目のことは、私が8月25日(日)にある場所に入る権利に当選したこと、それが50倍以上の競争率だったので当選したこと自体が幸運です。 (注:寄付の神様は外れたので、これはちょっと驚きました。)
そして普段は絶対に入ることができない場所に加えて世界のVIPが来る場所なので、素敵なお客様へ幸運のおすそ分けができたら嬉しいし、その恩恵が少なくとも8月26~31日くらいはあると思いますが、興味の無い人や知らない人からすれば幸運とは感じない場所です。
ただし、その場所の説明を鑑定へ来た方や予約を入れた方に説明した感じでは、「凄い」と「なぁ~んだ」の二つに評価が割れているので、興味の無い方には幸運とは思えない場所なので、保障はできないけれど~余り期待しないで下さいと言う感じの表現になります。
あなたは芝離宮恩賜公園へ、行ってみたいですか?
(´゚ω゚):;*.:;ブッツタマゲ
予約専用電話:090-4690-4618
予約受付日時:火・水・木の夜8~10時
鑑定は年中無休で、365日鑑定しています。
さて、今日は私が羽田空港へ行く時の時間待ちなどにも使い、年間で言うとかなりの頻度で行く場所の御紹介で、ここは有料であるが故に変な人が来ないから逆にパワースポットとして維持されている場所で、名前は「東京都立旧芝離宮恩賜庭園」です。 (名前が長いので、以後は芝離宮と略します。)
基本的に「恩賜」とは君主から臣下などに、これまでの忠節や功労を感謝する為に与える物品や行為を指しますが、日本の場合は「恩賜」と単に言う時は天皇陛下より賜ったモノを指します。
しかし、いくら恩賜でも上野恩賜公園は無料だからホームレスや外国人の溜まり場で、上野弁財天も悪い雰囲気や気の流れで酷いモノです。 芝離宮は入場料が1回150円で年間パスポートは600円、私は年間パスポートだから何回利用しても1年間で600円、いやらしい言い方をすれば元は充分に取れます。
ところが上野恩賜公園にたむろしている人たちからすれば、1回150円(年間パス600円)すら払いたくないので有料の芝離宮へは来ないから、静かで優雅で心落ち着ける場所が維持され、ここでランチを取るOLさんなどもどことなく品が違います。
無料(タダ)で入れるが故に汚し放題でも平気な人が集まるから、上野恩賜公園は人間により汚されている土地とも言え、せっかくの良い雰囲気の場所を壊して行くのは悲しいと思います。
では、説明に入りますがデジカメの小部屋を見ながらの方が、今日の内容はよく分かるかもしれません。 この「東京都立旧芝離宮恩賜庭園」は東京都港区海岸にある都立庭園で、大久保忠朝上屋敷の庭園楽寿園が始まりです。
この「大久保 忠朝(おおくぼ ただとも)」は江戸時代の大名(老中)で相模小田原藩主、江戸時代初期に本多正信(正純)父子との抗争に敗れて失脚した大久保忠隣の孫で、従兄の大久保忠職の養子となりました。
家督を相続する前より小姓や小姓組番頭を勤めて、寛文10年に肥前唐津藩9万3000石を相続して延宝5年に老中となりました。
貞享3年には祖父忠隣の領地であった小田原への復帰を果たし漸次加増を受け、最終的に11万3000石となり、特に謳歌評説などでは忠朝を戸田忠昌や阿部正武ら同僚と並べて、「善人の良将」と評されるほどで、徳川吉宗が世に出るきっかけを作った人物でもあります。
なお、現在の旧芝離宮恩賜庭園は延宝6年に忠朝が、4代将軍徳川家綱から拝領した庭園が原型となっています。 (大まかには、将軍家⇒天皇家⇒都立、こんな流れです。)
そして宮内庁管理の離宮を経て大正13年に東京市へ下賜され、旧芝離宮恩賜庭園として公開されました。 離宮とは皇居や王宮とは別に設けられた宮殿のことで、一般的には王族・皇族等が居住する為に建設された宮殿とは別の敷地に建設されます。
例えば、皇太子などが成人・結婚して天皇・皇帝と別に住居を構える場合などで、他にも避暑・避寒・静養の為に建てられる場合もあります。 日本では一定規模の建造物と敷地を有したものを離宮、小規模のものを御用邸と言います。 明治以前には上皇や法皇の退位後の離宮として、「後院」と呼ばれる離宮が築かれていて専属の役人がいました。
そして先ほど書きましたように、ここは上屋敷内に作庭した大名庭園楽寿園を起源とする回遊式庭園で、池田山公園も小さいけれど回遊式です。
この大名庭園とは江戸幕府政権下の江戸時代において、各藩の大名が江戸や地元で築造した庭園で各藩がそれぞれ競い合った結果、造園技術は発達して江戸時代に日本庭園築造技術が頂点を成したと言われます。
江戸時代初期に王朝風と呼ばれる平安時代以降の伝統的で豪華絢爛な池庭や枯山水、あるいは禅院で発達した枯淡な枯山水や露地から出発し書院造に影響を与える茶庭など、多くの様式が並存する時代で、これらの様式が集大成された回遊式庭園が誕生しました。
ただし、大名庭園は各地諸藩の大名の邸宅や別荘に設けられた庭園の総称で、様式名ではなく様式として見るなら大名庭園は上記のいずれかに分類されます。
各藩は大名庭園を遊興や日本武術の馬術用馬場や弓術用の的場、回遊形式を取り入れた庭園の構造から散歩・散策などを楽しむ空間として利用して、造園技術も各藩間で技術交流が行なわれて園芸学や博物学などもそれに伴って発達、池の周りを回遊して観賞するように造られ、庭園内の景観として自分の好む名勝地をモチーフとしたものが配されました。
それらはいずれも庶民の遊観所で、こういう景観を引き締める為&利用上から、休憩所としての茶屋や御堂を建て、これらの建物と庭景観とで局所局所を纏め、順路に沿って回遊するようにできています。
次々と展開されていく変化の多い景観は、広々した池面に出る前に必ず鬱蒼と茂った木立を通り、山々を通り抜ける時も変化にとんだ建物や橋で飽かせることがありません。
当時の江戸は面積の約50%がこのような大名庭園と大名屋敷で占められ、これらの庭園は明治期に一旦は存亡の危機でしたが当時の上流層の大邸宅に蘇り、東京の名称史跡に指定される日本庭園・新宿御苑・戸山公園・墨田公園内日本庭園・鍋島松涛公園などは、これら江戸期の大名庭園跡地が利用されています。
最後に補足と説明ですが、7月26日のブログで御案内した一つ目のことは、私が8月25日(日)にある場所に入る権利に当選したこと、それが50倍以上の競争率だったので当選したこと自体が幸運です。 (注:寄付の神様は外れたので、これはちょっと驚きました。)
そして普段は絶対に入ることができない場所に加えて世界のVIPが来る場所なので、素敵なお客様へ幸運のおすそ分けができたら嬉しいし、その恩恵が少なくとも8月26~31日くらいはあると思いますが、興味の無い人や知らない人からすれば幸運とは感じない場所です。
ただし、その場所の説明を鑑定へ来た方や予約を入れた方に説明した感じでは、「凄い」と「なぁ~んだ」の二つに評価が割れているので、興味の無い方には幸運とは思えない場所なので、保障はできないけれど~余り期待しないで下さいと言う感じの表現になります。
あなたは芝離宮恩賜公園へ、行ってみたいですか?
(´゚ω゚):;*.:;ブッツタマゲ
予約専用電話:090-4690-4618
予約受付日時:火・水・木の夜8~10時
鑑定は年中無休で、365日鑑定しています。
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