
おはようございます。 冬になれば真っ白な雪が降り積もるかのごとく、素敵なお客様には今日も幸せが降り注いでいると信じています。 私はお客様が笑顔でいることが自分にとって最高の幸せで、素敵なあなたの笑顔には人を勇気付ける力があるのです。
今のあなたに降り注ぐ幸せは、何かをしたことの見返りと言うわけではないけれど、何かをしてきた過去があるから降り注ぐというのも事実です。 悪いことをしているのに何も起こらないなんて、運命はそんなことを許すほど寛容ではありません。
「自分だけが!」と言う思いでいると痛い目に遭うのは分かりきったことですが、傍目から見ていると「どうして天罰が当たらないの?」と良いようにしか思えないだけです。
人の悩みと言うのは人の心の中にあるのだから、悩みのレベルを感じるのは個人差が大きいのです。 ある人にすれば簡単なことでも、当事者にすれば艱難辛苦のごとき辛いことだったりもします。
ただし、色々な方を拝見してきたことや私の過去の経験上のことも含めると、天罰と言うのは「元気がない時」にこそ当たるものです。 勢いのある時や元気な時に天罰は当たらないのですが、それにはちゃんと理由があります。
もしも、元気な時や勢いがある時に天罰を当てると「跳ね返す余力がある」ので、天罰を与えても復活するから反省しないのです。 元気がなくて落ち込んでいる時や病気で勢いが無くなっている時など、跳ね返す余力もなく「私が悪かった…。」と思い返すことが出来るのが天罰の本当の意味なのです。
だからこそ、自分だけが助かればいいとか~自分だけが儲かればいいというのは、未来における自分の幸運を先食いしているだけなのに気付かないと、その未来がきた時に「どうして、悪いことばかり起こるのか?」と嘆くことしか出来なくなっています。
日本には昔から「おすそわけ」という素晴らしい文化があるのに、それを全くしないのは勿体無い話です。
御裾分け(おすそわけ)とは「裾分(すそわ)け」の丁寧語であり、お福分けとも言うのですが馴染みが無い人はないしある人はあると言う不思議な言葉です。 これは他人から貰った品物や利益の一部などを、さらに友人や知人などに分け与えることを言います。
この「すそ」とは着物の裾を指していて、地面に近い末端の部分というところから転じて「つまらないもの」という意味もあるようです。
それ故に本来は目上の人物に使用するのは適切ではありませんが、現代社会ではそこまで厳しく言うことはありません。 その一方で「お福分け」の方は福を分ける意味なので、目上の人物に使用しても失礼に当たらないとされています。
また、同じような言葉に捉えられがちですが、「山分け」と言うのはお裾分けとは全く違い、同格や仲間と一部ではなく、全ての部分を均等に振り分ける意味が山分けになります。
そしてもうひとつの意味としては、高貴な人が羽二重の裾を一~二度身につけてから側近に分けてあげることをお裾分けと言います。 これが年代と共に移り変わって、衣服の裾の部分が「わずか」という意味に変わり庶民生活に定着したとの説もあります。
私は自分だけが食べるとか、自分だけが良い思いをするというのは気分が良くありません。 目の前にパンがあったとしたら二つに分けて、相手と一緒にニコニコしながら食べる方が美味しく感じます。
しかし、世の中には出すのは一円でも嫌と言う人もいるから、それはそれで否定はしないし悪いとも思いません。 人にはそれぞれの考え方があるので、目の前にパンがあれば全部自分が食べるというのも人生です。
ただ、私は自分だけがと言うよりもみんなで楽しくという考えだから、和気藹々と楽しい日々を過ごせる方を美徳と考えるだけです。
私は今までの人生を反省することが多いのは、他人のことを思いやる余裕が無くて目の前の欲ばかり追いかけていたことです。 今から思い返してみても、どうしてあんな人生だったのかと反省の毎日です。
自分だけ食べれば良いと言う考えの昔よりもみんなで食べようと言う今の方が数段楽しいのは、私が歳を取ったのか余裕ができたのかは神様だけが知っているのかもしれません。
分かりやすく食べ物に例えましたが、これはお金など儲けにしても同じです。 不況で苦しんでいるのは自分だけが儲ければ良いと言う考えだからであり、相手のことを考えていれば不況なんて関係ないはずです。
あなたはお裾分けについて、どう思いますか?
うふ♪(* ̄ー ̄)v
今のあなたに降り注ぐ幸せは、何かをしたことの見返りと言うわけではないけれど、何かをしてきた過去があるから降り注ぐというのも事実です。 悪いことをしているのに何も起こらないなんて、運命はそんなことを許すほど寛容ではありません。
「自分だけが!」と言う思いでいると痛い目に遭うのは分かりきったことですが、傍目から見ていると「どうして天罰が当たらないの?」と良いようにしか思えないだけです。
人の悩みと言うのは人の心の中にあるのだから、悩みのレベルを感じるのは個人差が大きいのです。 ある人にすれば簡単なことでも、当事者にすれば艱難辛苦のごとき辛いことだったりもします。
ただし、色々な方を拝見してきたことや私の過去の経験上のことも含めると、天罰と言うのは「元気がない時」にこそ当たるものです。 勢いのある時や元気な時に天罰は当たらないのですが、それにはちゃんと理由があります。
もしも、元気な時や勢いがある時に天罰を当てると「跳ね返す余力がある」ので、天罰を与えても復活するから反省しないのです。 元気がなくて落ち込んでいる時や病気で勢いが無くなっている時など、跳ね返す余力もなく「私が悪かった…。」と思い返すことが出来るのが天罰の本当の意味なのです。
だからこそ、自分だけが助かればいいとか~自分だけが儲かればいいというのは、未来における自分の幸運を先食いしているだけなのに気付かないと、その未来がきた時に「どうして、悪いことばかり起こるのか?」と嘆くことしか出来なくなっています。
日本には昔から「おすそわけ」という素晴らしい文化があるのに、それを全くしないのは勿体無い話です。
御裾分け(おすそわけ)とは「裾分(すそわ)け」の丁寧語であり、お福分けとも言うのですが馴染みが無い人はないしある人はあると言う不思議な言葉です。 これは他人から貰った品物や利益の一部などを、さらに友人や知人などに分け与えることを言います。
この「すそ」とは着物の裾を指していて、地面に近い末端の部分というところから転じて「つまらないもの」という意味もあるようです。
それ故に本来は目上の人物に使用するのは適切ではありませんが、現代社会ではそこまで厳しく言うことはありません。 その一方で「お福分け」の方は福を分ける意味なので、目上の人物に使用しても失礼に当たらないとされています。
また、同じような言葉に捉えられがちですが、「山分け」と言うのはお裾分けとは全く違い、同格や仲間と一部ではなく、全ての部分を均等に振り分ける意味が山分けになります。
そしてもうひとつの意味としては、高貴な人が羽二重の裾を一~二度身につけてから側近に分けてあげることをお裾分けと言います。 これが年代と共に移り変わって、衣服の裾の部分が「わずか」という意味に変わり庶民生活に定着したとの説もあります。
私は自分だけが食べるとか、自分だけが良い思いをするというのは気分が良くありません。 目の前にパンがあったとしたら二つに分けて、相手と一緒にニコニコしながら食べる方が美味しく感じます。
しかし、世の中には出すのは一円でも嫌と言う人もいるから、それはそれで否定はしないし悪いとも思いません。 人にはそれぞれの考え方があるので、目の前にパンがあれば全部自分が食べるというのも人生です。
ただ、私は自分だけがと言うよりもみんなで楽しくという考えだから、和気藹々と楽しい日々を過ごせる方を美徳と考えるだけです。
私は今までの人生を反省することが多いのは、他人のことを思いやる余裕が無くて目の前の欲ばかり追いかけていたことです。 今から思い返してみても、どうしてあんな人生だったのかと反省の毎日です。
自分だけ食べれば良いと言う考えの昔よりもみんなで食べようと言う今の方が数段楽しいのは、私が歳を取ったのか余裕ができたのかは神様だけが知っているのかもしれません。
分かりやすく食べ物に例えましたが、これはお金など儲けにしても同じです。 不況で苦しんでいるのは自分だけが儲ければ良いと言う考えだからであり、相手のことを考えていれば不況なんて関係ないはずです。
あなたはお裾分けについて、どう思いますか?
うふ♪(* ̄ー ̄)v

