徒然草(岡山・東京・山崎かずみ)

    あなたを元気にしたい、それが私の願いです。

    元カノ~前編。

    おはようございます。 恋をしていると元気になれるのですが、その恋が上手くいかないと途端に悩みのタネになってしまうのが、恋の摩訶不思議な部分です。 楽しいはずなのにヤキモキしてしまうのは、あなたが彼のことを本気で好きだからだと思うのです。

    さて、「縒りを戻す」と言う言葉がありますが、恋人同士が縒りを戻す時にキッカケなどはさまざまです。

    しかし、その縒りを戻すことで今の彼が元カノに戻ってしまい、自分と距離を置かれてしまったことから別れに発展したのなんかは、心の痛手になってしまう縒りの戻し方です。

    こういう時に考えてしまうのが、「男性は元カノのことを忘れられないのか?」という疑問なのですが、これはずるいかもしれませんが「忘れない」と言うのが正解です。

    男とは自分に都合よく出来ているのですが、昔の彼女から電話があったりすると仕事も手に付かなくなることだってあります。

    「ちょっと話があるの…。」なんて言われた時には、仕事しててもウキウキして余計な想像を始めるのです。 場合によっては「俺って、モテルなぁ~!」とか「俺も罪な男だぜ!」と言う妄想に浸りながら過ごしてしまいます。

    こういう男性心理は置いといて、もしも彼が元カノと連絡を取って会ったりするような時の対処方法ですが、彼に対する信頼感と未来への希望を前面に押し出すのが正解です。

    仮に元カノが原因で、彼から距離をおきたいとか別れたいなんて言われた時の例文としてあげてみたいと思います。

    例:「元カノからの連絡で、そういう気持ちになったのはちょっとショック。 (少し相手に引け目を感じさせる。) けどね、距離を置きたいあなたの気持ちもわかった。 (ここで相手に一応の理解を示す。) でもね、私はあなたのことが大好きだからずっと付き合っていきたいと信じているよ。 (未来を一緒にと暗示をさせる。)」と言う感じです。

    ただし、これは笑顔で可愛く言うのが正解で、暗い顔や皮肉るような言い方ではマイナスです。

    男性は別れたとしても「愛情のない恋愛」が出来るので、あわよくばと期待をしていることが多いのは事実です。 ただし、だからと言って元カノから連絡が入る度に全員がそうだと言うわけではなく、やはり個人差はあるので全部が縒りを戻すわけでもないのです。

    普通の感覚を持つ男性であると言う条件付ですが、自分の意思で別れていたら元カノよりも今の彼女を大切にします。 残念ながら元カノから連絡があって動揺するのは、まだ整理が付いていない証拠です。 (←これは、危険水域になります。)

    こう言う事態になってしまうと裏切られたと感じたり、その寂しさも切なさも悲しさも全てが自分に降りかかってくるような想いはよくわかります。 残念な上に、自分のどこがダメなんだろうと自分を責めてしまうかもしれません。

    でも、人は生きている限りは自分が色々な出来事を経験することで、自分の気持ちを整理したり自分のことをわかって納得をしたりして進む必要もあります。

    恋愛だって同じで、彼が元カノと連絡したことにより動揺をして、あなたとの関係を考え始めたなら、相手の立場に置き換えて考えれば少しは落ち着けると思うのです。

    彼が今どういう想いでいるのかと言えば彼の心の中で葛藤が始まり、まだ整理がついていないままに恋愛を始めてしまった、そんな自分に気が付いてしまったと言う心の整理をしている時期だと思ってあげてください。

    男性は「本気の恋」に関しては一度に考えられないので、過去に遡って気持ちを整理してみないとどうしていいのか判断に迷う時期なんです。

    人間が動物と違うのは感情により心が揺れ動いて、子孫繁栄の為にだけ相手を求めるわけではないから、人は相手の介入によってではなく自分が整理をしなければならないことができてくるのです。

    彼との恋を本気で考えているのであれば、彼に対してそれを考える時間を与えるのだって立派な愛情だと思います。

    このような場合にはごねればごねるほどマイナスに働くのですが、彼が連絡を取ってきた元カノと目の前でごねているあなたを比べ始めると、これはかなりまずい状態になり「あなたより元カノがいいような幻想」を持ち始めます。

    幻想を持ち始めたらどうすればいいのか、その対処方法については後編で…。

    m(__)m 後編へ続く~です!



    お知らせ:出張の為、ブログの更新は9月2日(水)より再開します。 なお、出張中でも予約の受付はしておりますので、遠慮なくお気軽にお申し付けくださいね。 いつもブログをお読みいただき、本当にありがとうございます。 m(__)m

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    生きていくこと。

    日本の未来は高齢者社会になると言われていますが、高齢者社会になるのが悪いことではありません。 高齢者と言っても年を感じさせずにバリバリ働いている人もいますから、問題は高齢者になることではなく高齢と共に起きる身体の不調や病気の方が問題なのです。

    これは若いうちは分からなくて当たり前だし、年齢が進んでも健康でいる人は気付かなくて当たり前だと思います。 しかし、もう一歩踏み込んで自分以外のことを見てみると、世の中には当たり前のことが出来るのがうれしいという状態の人がいることに気付けるはずです。

    自殺すると騒いでいる人は日常生活に不自由がないから騒げるだけであり、今の日本は豊かで食事や水の心配もなく生きていけるからゆえに、本当に生きていくことの大切さが分からなくなっているのです。 極限状態であれば死ぬよりも今の状況をどうするかと言う方へ意識が向くので、周りの興味を引く為に騒ぐ余裕はないのです。

    目が見える~しゃべることが出来る~手足が自由に動く、本来できるのが当たり前のことをできなくなって、初めて人はありがたみを感じることになるのです。 病気になるからこそ健康が分かるように、不自由な状況だからこそ自由な状況が有り難く感じるのです。

    このように生きていくことの大切さと言うのを、人は普段気付かないものです。 当たり前のように身体が動いて~当たり前のように日常が始まるのは、それはものすごい奇跡の連続から起こる運命からの素敵なプレゼントです。

    朝起きて目が覚めるということ、朝起きて自分の力で立ち上がることが出来るということ、これらは当たり前ではなく奇跡の連続で素敵なプレゼントなのです。

    人は日常生活に不自由を感じなければ、それを当たり前と認識して優しさを失っていきます。 その優しさを補う為に感動と言う名のエネルギー補充をしていくのですが、それが出来ない生活状態になれば残念ながら心が荒んでいきます。

    残念なことに優しい風景を見ることが少なければ、ドンドンと優しさが失われてエネルギー補充がさっぱり出来なくなるのです。

    電車に乗っていてお年寄りが目の前で立っているのに寝たふりをする男性、目の前で妊婦さんが苦しそうにしているのに席を野球の道具で占領して平気な高校野球の生徒たち、こう言う人たちは心に優しさが無くなって補充することさえ出来なくなっている人たちなのです。

    私の事務所へは岡山県内だけではなく日本中からお越しになるので、当然ですが県内だけとか地元だけという感覚で霊視カウンセリングをしているわけではありません。

    お恥ずかしい話ですが気付けるまでには相当時間が掛かったと思うのですが、それは私自身も甘かったというか、世間知らずで井の中の蛙でいたからだと反省しています。

    私が最初に拝見させていただいていたのは倉敷や岡山の人が中心だったのですが、それが広島や兵庫~更には香川や大阪や福岡などになり、そして東京や岩手や青森と広がるに連れて世間の広さを感じることとなりました。

    それは難病で治らない運命なのに前向きに生きている、難病と付き合いながら自分の人生を作り上げている、そういう方たちの努力や生き様を見ていると自分はなんて甘い考えなのかと凹んでしまうこともシバシバです。

    五体満足で自由自在に動くことが出来るのは、神様がくれたプレゼントの中でも最高だと思います。 それに気付けたのはお客様の御相談をお伺いする中で、まだまだ勉強不足だということを実感させていただくからです。

    巡り合えたというのは世界が美しく見えることですが、それは新たな自分の引き出しを増やすことに他ならないからです。 今まで気付かなかったことを気付いて、それについて考えることは自分でも気付かないくらいの美しい行為なのです。

    歩くという人体的に普通のことでも、足が悪ければ~膝などの関節が悪ければ~筋肉組織に異常があれば~脳からの信号が届かなければと、歩くということだけでも信じられないくらい奇跡の連続が起こす行為なのです。

    あなたの目の前にはチャンスが広がっているのですが、それは朝起きるということ~自由に動くことが出来るということ、そういう当たり前の日常がチャンスだという運命からのプレゼントに気付けた時は、成功や夢が叶うのはすぐそこです。

    あなたが生まれてきたのは生きる意味を模索して理解する、それから人生を終えるのが理想だと運命は暗示してくれると思うのです。

    あなたは生きていくことの大切さ、それをきちんと理解できていますか?

    ♪v(*'-^*)^ありがとう☆

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    いじめ。

    「食べ物を粗末にしてはいけません。」と習わなかったのか、食べられるお弁当を次々と廃棄処分にする某コンビニ企業があります。 廃棄処分に心を痛めたオーナー加盟店が値引き販売をすると、一方的な契約解除(いじめ)が通告されて生活に困るオーナーが続出しました。

    いじめと言うのは子供でも大人でも無くならないのですが、最近は某コンビニ企業に代表される精神的に追い込む陰湿ないじめが蔓延しています。

    いじめの定義は人により見解が異なるので、片方からすれば遊びだと言うかもしれません。 いじめとは相手の肉体や心理的苦しみを快楽的に楽しむ行為のことを言い、多くの場合は閉鎖的な集団内部で起こり外部には隠されて継続的に行われます。

    単純な喧嘩や暴力とは違い、実行すること~誰かにやらせること~傍観することによる承認など、全てがいじめと言えます。

    ただし、いじめとはしている本人も周りもいじめだと自覚している場合と自覚していない場合があり、時には正当化されている場合があって罪悪感がなく、むしろ正しいこととか相手の為になっていると言う錯覚していることすらあります。

    近年目立つのは、物を隠す~ネットで悪口を書くなどと言った「心に対するいじめ」が多くなり、シカトなどは陰湿且つ水面下で行われることから教師や周囲が気づかないうちに深刻な事態だったと言うことが度々あります。

    いじめの防止において最も重要な存在は周囲で、周囲がいじめの行方を左右すると言っても過言ではありません。 いじめられる側になることを恐れて傍観者となることを選択する人も多いのですが、本当はいじめを止めさせない責任もあるのです。 事態を知りつつ放置した人は、いじめを行った人と同様にみなされても仕方がありません。

    いじめは基本的に犯罪行為で、周囲はいじめをやめるよう指導する法的責任があります。 周囲はいじめがあると知った場合に強い意志で、止めさせるようにする義務があるのですが見て見ぬフリも多いです。

    会社にだっていじめは当然存在しますが、「職場いじめ」は集団社会~特に大人の社会の中で認知された行為で、児童生徒間同様に最悪の場合は自殺にまで至ることもあります。 職場のいじめは生活の糧を得る為の仕事を困難にして、幸福になる手段を奪うことに等しい悪質なものです。

    人は皆平等に幸せになる権利があるのですが、その崇高な理念を覆す深刻な問題とも言えます。 被害者はいじめによる信用失墜やその結果の長期的失業などで、人生を根本から失うこともあるのです。

    私が生まれ育った県北ではいじめなんか日常茶飯事で、私が勤めていた地元の工場には3つの棟があり、それぞれ二本のラインがありました。 西(A)と東(B)に分けて1号棟のBとか2号棟のAなどに区分されて、私は2号棟のAに勤務していました。

    今回の話は私がリアルタイムで見たわけではありませんが、1号棟のAで夜勤の度にいじめが行われて最後には家族が工場を告訴に至った事件です。 その当時、A君と言う20代男性が派遣でいたのですが、下請けからの派遣なので夜勤の時は凄くいじめられたそうです。

    いじめが怖いのは段々とエスカレートしていくところで、A君の場合も最初は安全靴にカッターの刃を仕込んだり~コンクリの上に正座を1時間とか~両手両足を押さえつけて顔に濡れティッシュを乗せて窒息させたりなどでした。

    さすがに濡れティシュの時には「死んだらどうするんなら、いい加減にしとけ。」と注意した人もいたらしいのですが、「事故死に見せかけりゃえぇ。」と言って止めなかったそうです。

    そして最後のいじめとなったのは、A君に工事用ヘルメットを被らせて身体中にウエスを巻いてロープで縛り、そしてホイストに吊るしてからサンドバッグにしてバットで殴る~パンチやキックを入れるなどのいじめでした。 いくらウエスを巻いていても痛いし、毎日~毎日殴られる精神的ショックは相当なモノだったと思われます。

    A君の全身にアザや傷ができてふさぎ込む様子がおかしいと思った父親が、A君を問い質して事件が発覚しました。 会社が行った事情聴取では、「親密になる為の遊びで、愛情表現のつもりだった。」と1号棟のAの人たちは証言しました。

    この事件はA君へ慰謝料(実行犯8人が10万円ずつ、それに工場側が20万円で合計100万円)を支払い示談になったのですが、もっといじめられるからとA君は会社を辞めてしまいました。 しかし、この事件に関与した男性社員は誰ひとり辞めずに工場で働いていて、A君のことはすっかり忘れているようです。

    あなたはいじめについて、どのように考えますか?

    ヽ(-0-ヽ)Ξ(/-0-)/ そりゃ犯罪だぁ~!

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    真剣。

    真剣にやると言葉で言うのは簡単だけれど、この真剣と言う内容は人それぞれです。 辞書で引いたら「画一的に本気で物事に取り組むさま」と言うのが出てきます。 誰でも真剣に物事に取り組むのが良いことは分かってはいるけれど、どうして真剣になれないのかを考えないと本質は見えてこないのです。

    自分が思うように人は動かないけれど、自分も他人が思うように動いているわけではありません。

    この部分を間違えると大変なのですが、自分が思うことと他人が思うことは別なのです。 あくまで自分がそう思うのはいいけれど、他人にもそう思えと言うのは強制やお仕着せになってしまうのです。

    あくまで例え話ですが、某Nビル7Fにある事務所では社長が出勤してきたら社員は美辞麗句で社長を迎えると言うのが出勤時の儀式でした。 その儀式では「社長は美人で気品があって、私の憧れです。」と褒めまくらなければならないのですが、毎日言っているとさすがに慣れてきて適当に言ってしまうようになります。

    仮にYさんとしておきますが、ある時Yさんがいつものように「社長は美しくてキレイで…。」と言い始めると社長より、「Yちゃん、あなたは心をこめて言っているの!」と怒鳴られていました。 Yさんからすると毎日言っているから慣れてきて、流れるようにスムーズに言えていたことが逆鱗に触れたようなのです。

    これが「真剣」についてのヒントなのですが、いくらスムーズに話せても上の空で言っていると相手に「適当」な部分が伝わってしまうのです。

    社長が事務所にいない時にYさんが私に「どうしたらいいでしょうか?」と相談に来たのですが、私は「目の前にいるのは女優さんやハリウッドスターで、友達になるチャンスだと思い込んで言ってみてください。」とアドバイスしてみました。

    翌日のこと、いつものように昼前に社長が出勤してきたらYさんが「社長! いつもお若くて素敵で~。」と言い始めたのですが、真に迫る言葉に社長は大満足でした。 その日はかなり喜んで「Yちゃん、今夜ご飯食べに行く?」と言うほどでしたから、仮想の相手を頭に思い浮かべて褒めると言うのは成功のようでした。

    人生は真剣に生きている方が楽しいのですが、中途半端にダラダラしていると時間が無駄と言うだけでなく、楽しさの本質が分からなくなってしまうのです。

    ゲームをする時でも漫画を読む時でも~恋をする時でも結婚の決断の時でも、真剣にやるから面白いのです。 真剣にしていると「熱くなるな」とか「何、燃えてんの」など、茶化してごまかす人が必ず現れます。

    しかし、そんな人を相手にしているほど人生はヒマじゃないし、その人の言葉に耳を傾けていいほどあなたの人生は安っぽいものではありません。

    お店に例えるとわかりやすいのですが、喫茶店でおなじみの「モーニング」は競争原理が働き過ぎたことになっているひとつです。 特に名古屋なんかはモーニング戦争と言っていいのですが、コーヒーを頼んだだけで「トースト、サラダ、デザート、目玉焼き、味噌汁、ご飯」と出てきますから、「そりゃ、定食やないか?」と言うくらいです。

    当然赤字なのですが、これは商売が下手だからと言うか~真剣さが理解できていないからです。

    私は社長やオーナーのご相談があったなら、「社員(従業員)の方は、楽しく働いていますか?」と必ず聞きます。 四の五の言ったところで社長がひとりでできることなんて多寡が知れているから、社員(従業員)の方がどれだけ真剣になってくれるかで、会社やお店の業績は決まるのです。

    社長やオーナーは「顧客満足」と言う言葉を呪文のように唱えていますが、それを言うなら「社員満足」をどうにかしないといけないのです。

    「顧客満足」に隠されているのは他所のお店や会社がすることを、「あそこがするなら、うちもしよう。」と言うだけで、横並びの同じことしかしていないのです。 つまり、単純にサービスの延長を繰り返しているだけだから、質と量において差別化が難しくなってきているのが名古屋モーニング戦争の中身なのです。

    それならば視点を切り替え「社員満足」に重きを置いて、せっかく働いてくださっている社員の方々の給料を上げるとか待遇を良くするなどして、自然と笑顔がこぼれるお店にして雰囲気と言うか居心地の良さで勝負するお店があってもいいと思うのです。

    「真剣にお客様と向き合って、自分たちに出来る精一杯のことを提供する。」 その為には他所のお店と競争するのではなく、自分たちの怠けようとする心や手抜きしたい気持ちと真剣に競争するべきなのです。

    あなたはどれくらい、真剣になったことがありますか?

    ヾ(@^▽^@)ノやるぞ~!

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    やりたいこと。

    やりたいことを追いかけていたら楽しいと思いますが、それは自分の人生に充実感があるからです。 人には色々な人生があるからどれが正しいなんて言うのは誰にも分からないのですが、心の中にいる天使が騒ぎ始めると今のままではいられなくなります。

    涙の海の中で沈んだままでいるのか、輝くような瞳で前を見つめて進んでいくのか、それは自分が選んだ結果が未来に繁栄されているだけです。

    しかし、無理だと思ったらその時点で無理なのですが、心にある思いは止められないのであればやるしかないのです。

    やらないで心に燻ったままでいる人生よりも、出来るかどうかわからないけれどチャレンジした結果が心にある人生、どちらを選ぶかは後悔している分だけ答えがあります。 失敗したくなければ何もしないことですが、何もしなければ何も起こらないから失敗はありえません。

    ただし、失敗はありませんが成功もありません。

    人は心が強い時や弱い時があるので、ツイ他人の人生を見ていると自分の成功のスピードを遅く感じます。 同じ時間において自分だけ時間の流れが違うなんてことはなく、努力している量が違うから成功の速度が違うだけと言うのを見落としているのです。

    人は楽(らく)をしたいのは当たり前の感情ですが、楽しいと楽(らく)は違うのです。 楽(らく)をしていて楽しいことなんか起こるはずもなく、楽しいことを実現する為には楽(らく)をしていては無理なのです。

    アリとキリギリスのお話にもあるように、最初に怠けていたら栄光を掴むことは無理です。 最初にどれだけ困難にぶち当たって、それを乗り越える為に色々したかが自分の人生を作ってくれるのです。

    夢を追いかけている人を見た時に、自分に重ね合わせて同じように思えてくるかもしれないのであれば、それは何かしなければ自分の人生はこのままだと言う危険信号なのです。

    努力は嘘をつかないと言うのは本当で、夢が叶う人とは叶うまでやるからと言う部分もあるのです。 天命と言うのは自分の力だけではどうしようもなく、天が命令したことだから生まれながらに決まっていることです。 しかし、運命というのは自分が運を命令することだから、自分で自分の未来を決めないと始まらないのです。

    白紙の台本では何も演じることは出来ませんし、白紙の設計図では何を作っていいのか分かりません。

    夢はあきらめなければ叶うのですが、自分には出来ないとか無理だという固定観念がありすぎるのです。 それは自分の中にはなくても周りから聞こえてくる無理だという大合唱があなたの心を足止めしてしまうのです。

    私のお客様の中には普通は無理だと言うことを実現させてしまう人がかなり多いのですが、あるお客様はシングルマザーですが人助けの道を進みたいと考えるようになりました。 そして彼女は決断するのですが、32歳で看護師となるべく看護学校に入学したのです。

    当然ですが看護学校以外では生活の為にアルバイトもしなければならないし、子供の面倒も見なくてはなりません。 おまけに同級生は16~22歳が大半なのでギャップもあるのですが、それでも彼女は夢に向かって一生懸命に資格を取るべく頑張っているのです。

    しかし、自分の使命を見つけた彼女の人生を誰が笑えるのか、何もせずに夢を笑う人の方が心が貧困な証拠です。 くちさがない人は彼女のことを馬鹿にしていますが、一生懸命に生きている彼女のことを笑う資格は誰にもありません。

    また、あるお客様は普通の家庭に生まれて資金的に余裕もないので、高校卒業後に事務職について18歳から28歳まで働いて、ある夢の為に10年間と言うもの一生懸命に節約してお金を貯めました。

    そして28歳になった彼女は昔からの夢だった医学部に入って、医師となるべく猛勉強を始めたのです。 医学部は6年間ですから34歳まで一生懸命に勉強して、そして研修医として2年間働いて、36歳の時に晴れて医師となることが出来たのです。

    彼女は2009年現在~東京の病院にて勤務していますが、彼女の診察で笑顔を取り戻せる人が大勢いる毎日を過ごしているのです。

    思い出していただきたいのですが、素敵なあなたにも夢はあります。

    仮に今は無くても昔はあったはずだし、無いと言うだけで忘れているだけかもしれません。 どうせ無理だからと言う気持ちで、封印している夢を思い出すのは今しかありません。 準備してからとかチャンスがきてからと言うのではなく、今やらなければいつまでも夢は待ってくれないのです。

    たったひとつの夢の為に、どれだけの犠牲を払ってでも叶えると言う強い意思、それは誰にでも備わっている可能性なのです。

    あなたは自分の未来に叶えたい夢を、どこかに置き忘れていませんか?

    (*´ω`) テレッ!

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    商店街。

    最近の経済状況では仕方が無いのかもしれませんが、商売において行く末の御相談が多くあります。 お店をやっていけるだろうかとか~このままでは未来がどうなるのかなど、このようなご相談が増えています。 (占い師さんも例外ではなく、先生方のご相談も増えています。)

    お店と言えば商店街などはお店の塊ですが、私が商店街にお店を出すことは多分ないと思います。 例えば商店街でお店を借りようとしても、「よそもんを入れるくらいなら、店を閉めてた方がえぇ。」と言う考えだからシャッターだらけになるのです。 (これは商店街時代に商店街会長より言われた言葉ですが、私は商店街でやる難しさに懲りています。)

    商店街は道路の両側に店舗が張り付く形態が多く、他にも複合化して色々な商店街を形成して、飲食店やファッション関係の小店舗など路面店とは別の業種や店舗が形成している例も多いです。

    また、アーケードや街灯やカラー舗道などによりイメージアップしているのですが、アーケード~街灯~舗道の形や色が途中で変わるのは、商店街同士の境界線を意味しています。 つまり、商店街はひとつではなく商店街組合がひとつのアーケードを作っているのです。 (この縄張り争いも、ナカナカ激しいです。)

    店舗の構成は立地により大きく異なり、近隣型では日用品や食料~衣料~雑貨に加えて飲食店が混じるなど多岐にわたる場合が多いです。 広域型は近隣型が大きくなっていったと考えればわかりやすく、古い商店街では呉服店など昔のお店が多いなど歴史も分かります。

    なお、商店街の名称に決まりはなく、近年では「○○モール」と呼んでいるところもあります。 これは1970年代にランドスケープアーキテクトのローレンス・ハルプリンが計画したショッピングモールの成功例が紹介されて、英語の散歩道や直線状の商店街~ショッピングセンターを意味する英語の「mall」が定着したせいでもあります。

    商店街は商店が連なった地区によって成り立ち、商店街の組織は町内会と同じ任意団体です。 ただし、地域振興や商店街内の相互扶助を目的として「商店街振興組合法」の規定を満たせば、商店街振興組合として組合を形成できます。 そうなると有力な商店街では専従職員を雇用して、商店街活動の企画運営などを積極的にできるようになります。

    それが商店街でのポイントカードやクーポン券~中元&歳末セールなど販売促進の企画運営や駐車場サービスなどです。

    日本における商店街の起源は「楽市&楽座」にまで遡り、江戸時代に街道沿いに発達した宿場町や寺院などが集まる門前町、近代で言う港や鉄道駅周辺などがあります。 それらに共通するのは商業地として栄えていたところや、人馬の往来が多いところなど集客を期待できる地域に店が集まって自然に発生して栄えていったことです。

    なお、商店街の全盛期は何と言っても戦後の復興の時で、商店街が一番光輝いていた時代でした。 この当時は商店街に一家揃って出かけるという数少ない楽しみのひとつで、商店街のある場所は基本的に「一等地」の扱いでした。

    しかし、その繁栄も長くは続かず一部の元気な商店街を除いて長期低迷が続き、商店街を取り巻く環境はますます厳しくなって店舗の廃業や撤退が相次いでいます。 その結果として地方や過疎地の商店街の中にはシャッターを下ろした店舗が立ち並び、シャッター商店街と揶揄されるようなゴーストタウンに近い状態となっています。

    いくつのかの原因として車社会の到来~生活行動圏の拡がり~ワンストップショッピング~広大な無料駐車場など、既存の商店街では太刀打ちできないことを大手のデパートやスーパーが仕掛けてくるのに、何の手も打たなかったことが最大の原因かもしれません。

    ロードサイド~ショッピングモール~ホームセンター~コンビニ、最近で言うと駅ナカの登場などに既存の商店街が太刀打ち出来るかと言えば、お偉いさん気分でいる限りは無理です。 (対抗策はありますが、人間関係の難しさがコレを阻んでいます。)

    古き良き昭和の時代と言う感じで懐かしむ人もいますが、既存の商店街は廃れていく一方です。 それを招いたのは自分達の責任なので、県庁や市役所など行政に「何とかしろ!」なんて文句を言うのは筋違いです。 自分の儲けを確保する為に大切な税金を使って活性化させるなんて、それこそ運命に良否を判断してもらうべきです。

    例えば、商店街のアーケードや路面のタイルは距離にもよりますが、工事費用が約1億1千万円から1億3千万円くらい掛かります。 そして15~20年に一度は作りかえるのですが、これを税金で賄うのであれば「商店街だけ助けるのか?」となります。

    万が一にも「自分達が費用を出している」と言うのなら、お店の数で割ったとしても20~40店舗で1億円以上の費用を軽く出せることになります。 私がいた商店街の各店主の話を聞いていても「ウチは毎月1500万以上売り上げがある」とか、「ウチの店には3億円ほど貯金がある」など凄い話ばかりなので助ける必要は無いと思います。

    同じ税金を使うのなら自己利益優先の商店街よりも、障害者の方を助けたり~困っている人の為に使って欲しいと思います。

    あなたは商店街の真実を、どのように見ていましたか?

    ( ̄~ ̄;)ウ~ン・・・?

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    嘘を吐かない。

    嘘を吐かずに生きていると辛い時があるかもしれないけれど、時間が進むほどに目に見えない見返りがあるのも事実です。 嘘を吐いてはいけないと子供の時には先生や親などに言われてきたのですが、大きくなってみると大人は嘘吐きだと感じることも多いのです。

    残念ながら自分は嘘を吐かずに生きていこうとしても、学校や会社など色々な人間関係の場面や状況などにより、責任回避をして自分を守る為には嘘を吐かねばならない時があるのも事実です。

    そういう時には迎合してしまう人と、自分の心に嘘を吐いていることを悩み始める人に分かれるのですが、嘘を吐いていることを悩む人は真面目だから悩むと思うのです。 心臓に毛が生えているような人は「あっ、そう。 それが何か?」と言う感じで、悪いとかダメだと言う認識すらないから、悩むと言うこと自体がありません。

    社会へ出ると色々なことがあるからキレイごとだけではいけないと分かってはいるけれど、なんか納得いかないまま過ごしているのは良心的だからだと思います。 私はそういう人は嫌いじゃないし自分に正直に生きる為のお手伝いを、ドンドンして行きたいと思うのです。

    小さい時には道徳的なことをきちんとした方が気持ち良いはずなのに、ちょっと横道にそれて大人がしていることを真似してしまうと、もうそこから正しい道では歩けなくなります。 ホンの少しのことなのに、ホンの少しがたくさん溜まると慣れてしまい、おかしいこともおかしいと思わなくなるのが人の心の弱いところです。

    ゴミをポイ捨てしてはいけないと分かっているのに、タバコのポイ捨ては平気でするのも「タバコくらい、イイだろう?」と言う気持ちがあるからです。 そこにあるホンの少しだからと言う気持ち、言い換えれば「そう、うるさく言うなよ。」と悲しい言い訳になっているのです。

    確かにタバコの吸殻一本だけなら少しかも知れませんが、一度ポイ捨てする人は何度でもするのだから、一生のうちには何回~何十回~何百回とポイ捨てすることになります。 それに加えて何十人~何百人~何千人と言う膨大な数の人が捨てるのだから、計算するとトンデモナイ数のポイ捨てが行われているのです。

    そうやって嘘を吐いて生きていると、次第に嘘を嘘と思わなくなって大きなことを真実として語り始めます。 それを世間では「はったり」と言うのですが、自分がはったり人生だと気付いていないのは男性に多いのが悲しい現実です。

    人には感情があるからミエを張りたい気持ちは分かるのですが、余りにも大きなことを言ってしまうと自分の評価を下げることになります。 世の中には「はったり」だけで生きている男性もいるのですが、それは意識せずに無意識のうちに嘘を吐いて自己満足してしまうこともあるからです。

    「はったり」とは元々が的屋の隠語で、殴ることや喧嘩をしかけて脅すことを言いました。 隠語としては明治時代には既に使われていたのですが、世間一般にも使われるようになったのは戦後のことです。

    それが一般に広まる中で、実状や実力以上に誇張して言ったり~見せかけると言う意味で、「はったり」と言う言葉が使われるようにもなりました。 一例として、貧乏なのに金持ちを装うとか~社長と面識もないのにコネがあるようなことを言うとか~有名人と知り合いだなどと、ありもしないことをさもあるかのように吹聴することを言います。

    更に度が進めば相手を威圧する為に大げさな言動をしたり、強気な態度をとったりすることで自分を偉く見せかけるようになります。

    私は地元でいじめられていた話を度々書きますが、私が生まれ育ったところは「はったり」の風潮が根強いので嫌になったこともシバシバです。 コレは単なる参考意見と言うか、笑い話としてお読みいただければ幸いです。

    私が生まれ育ったのは田舎なので車は必需品だから車が趣味と言う人も多いのですが、就職していた工場は男性が9割なのでモータースポーツ(F1や鈴鹿8耐など)が流行ったことがあります。

    ある年の10月のF1日本グランプリの話ですが、その時に皇帝ミハエル・シューマッハと野生児ジャック・ヴィルヌーヴと言う二人のドライバーは仲が悪く、お互いが車をぶつけ合うようなことばかりしていました。 (後にミハエル・シューマッハはポイントを剥奪されるほど、ジャック・ヴィルヌーヴとぶつかりました。)

    その時にH班長が「ワシはTVを見ていた時に、ミハエル・シューマッハに電話して『落ち着け、オマエならできるんだから。』と、言ってやろうと思った。 ワシはシューマッハの泊まっとるホテルを知っとるから、ホントにワシャ~電話して説教してやろうと思った。」と自慢が始まりました。

    私は呆れて生返事をしていたら、「オマエはワシの言うことを信用せんのか!」と烈火のごとく怒り出して、H班長に無茶苦茶怒られました…。

    昔の私は誠に空気の読めない人間と言うか~ひねくれていたと言うべきなのか、相手を怒らすことは本当に多かったです。 素直に自慢話に付き合えばよかったのに、マトモに相手にした私は本当にKYです。

    あなたは嘘を吐かない生き方、それをどう判断されますか?

    ((( ^^)爻(^^ ))) ヨロシク~♪

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    過去。

    自信が無いと言うのは誰しもあることですが、では自信と言うのはどうやれば付くのかと言えば、過去の自分が自信の元とならない限りは現在の自分に自信は生まれないのです。

    知らず知らずのうちに過去にしてきたことが今の自分に多大なる影響を及ぼすのですが、今と言う時間の中では全く気付かないことも多いのです。

    恥ずかしい行いを重ねて来た人がイザと言う時に胸をはれないのと同じで、正しいことや正直なことをしてきた人は最後には強いのです。 不思議なことに人は他人には嘘が吐けるのですが、自分に嘘を付いていると心が虚しくなってくるのです。

    仮に中学生の時や高校生の時に弱い者いじめをしていたら30歳~40歳となった時に注意は出来ないし、いじめていた人が目の前に表れて過去の自分の行いを言われた時には恥ずかしい思いをします。

    その恥ずかしいと言うのは二通りあって、他人に自分の行いを知られてしまう恥ずかしさと、過去の自分はそんなことをしていたのかと記憶を呼び起こされる恥ずかしさです。

    大人は子供に注意したり教えを言うべき立場にあるのですが、注意できるだけのことをしていないから注意できず、50歳や60歳になってから自分の過去の間違いに気付くようでは遅すぎるのです。

    例えば、中学や高校の先生方は生徒たちに「タバコを吸うな!」というけれど、自分たちはタバコを吸っているのに注意するのは本末転倒です。 飲酒をするなというのも同じことで、自分たちは飲み歩いてクダを巻いているのに、生徒たちに飲むなと言うのは説得力がありません。

    これは親が子供に注意する時も同じですが、自分が野菜を食べないのに子供には野菜を食べろとか、自分が借金だらけのくせにお金を大切にしろなんて言うのは、子供の方も真面目に聞き入れるはずがありません。

    ただし、人である以上は完璧でいなさいと言う意味ではなく、尊敬されるような生き方をしてくださいと言うことです。 完璧にはできなくても完璧であろうとあろうとする生活態度が、毎日の積み重ねにおいて自信となって自分の心に蓄積されていくのです。

    人は塵の状態では気付かないのに、山のようになったら慌てるというのが日常のことです。

    過去において小さな積み重ねをしていた人は、年を重ねるごとに強さが出てくるのですが、その強さと言うか自信の源は「過去の自分」が支えてくれるはずです。 負けそうになった時、自分の心に対して過去の自分が励ましてくれるはずです。

    スポーツ選手風に言うと練習量に当たるのですが、試合になるまでにどれだけ練習してきたか、その練習してきたことが試合に望む為の自信となるのです。

    正しいことや正直なことをしていると更にプラスアルファがありますが、それは自然と周りが味方してくれるという運の良さです。 ホンの少しの気付かないような幸運が積み重なることで、大きな山となってあなたの目の前に現れるのです。

    お金を稼ぐのだって汚いことやズルイことをしてお金を稼いでいたら、それは一時的にはいいけれど長くは続かず寂しい人生を送るようになります。

    最初は分からないかもしれないけれど、人を泣かせてお金を稼いだり~自分さえ良ければ良いような態度で商売していると、元気な時ではなく弱って立ち直れない時にこそしっぺ返しがくるのです。

    お金を稼ぐのに何したっていいだろうと言うのが日本企業のあり方だから、少々の不況ですぐに慌てるようなことになるのです。 何があろうとも揺らがないように強固な地盤を作って置けばいいのですが、鉄筋となるべき人材やお金をケチっているから地震に耐えられずに倒れてしまうのです。

    今の自分を励ましてくれるのは過去の自分だけなのですが、「あの苦しい時期を乗り越えることが出来たんだから、これから何があっても大丈夫だ。」と思えるのはある意味幸せです。 過去の苦しい思い出というのは、その時は苦しくて辛くて仕方がなかったのかもしれません。

    しかし、それを乗り越えた自分があるからこそ、未来に向かって自分に大丈夫と言い聞かせることができるのです。 嘘を吐いている人生ではこうはいかないのですが、自分が吐いた嘘は自分で気付いているから、自分の心を騙すことが出来ないから心が痛くなるのです。

    私は過去に恥ずかしい人生だったと思うからこそ、社会貢献や人助けは当たり前どころか「やらなければならない」と言う、絶対的な気持ちが無くなることはありません。

    未来を明るく生きる為にも反省するだけではなく、過去の自分を誇れるようにしておきたいと思うのです。 今と言う時間を恥じないように精一杯生きていれば、未来で過去を振り返った時に少しは誇れる自分になれると思うのです。

    あなたは過去の行いで、今の自分を励ますことが出来ますか?

    ミ☆ ヽ(゚ロ゚(-_-;)ゝ アッ!

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    死に物狂い。

    「死に物狂いでする」とよく言いますが、死に物狂いとは死ぬことも恐れないで頑張ることを言います。 これは1785年に浄瑠璃の「加羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」の脚本の中に初めて登場する言葉で、自分が一生懸命にしている様を表すのに使われます。

    人にはものすごい潜在能力が眠っているのですが、いくら持っていても自分が使わなければ持っていないのと同じことになります。

    人は死に物狂いで何かをした時には信じられないことができる程の能力を発揮するのですが、普段は気付かないものが見えてきたりして次々と行動できるようになります。 こうなると「殻を破る」とか「壁を乗り越えた」言う言葉があるように、潜在能力の開花や意識改革などにより次々とアイディアが浮かんできたりします。

    ある意味で学校の勉強と言うのはとても簡単なのですが、1+1=2と言うように必ず答えが見つかることを勉強するのだから、答えが分かっていることを頭に知識として入れていくのが義務教育の部分です。

    そして義務教育の部分を使い応用していくのが高校や専門学校の部分であり、それを突き詰めて勉強ではなく開拓していくのが大学の意味です。 ただし、現在では若干意味が違ってきているので、大学は遊びに行くところとか人間関係を構築しに行くところなんて風潮だから、必ずしも大学を出たから偉いわけじゃありません。

    それが証拠に良い大学を出たから優秀と言うわけでもなく、学歴が無いからダメだと言うわけでもないから、社会に出たら自分次第でいくらでも勝負できるのです。

    今は昔と違って民間の人が先生になれる状況が、少しですが学校に取り入れられつつあります。 私は社会のマナーや見識が広い人が先生になるのは良いことだと思っているのですが、既得権益を守りたい方々からすると鬱陶しいことこの上ないと思います。

    学校の先生の最大の弱点と言うのは、自分より年下か~その分野において知らない人に教えることです。 1+1=2と言うのを知らない人に「答えは2です。」と言うと、「凄いなぁ~。」となりますが、知っている人には「そんな簡単なことは当たり前」となってしまうのです。

    常日頃から自分より20歳も30歳も年下の人と接触することが生活の大部分を占めていると、ツイ相手が自分の言うことを聞かないと頭にきたり~自分の言うことが絶対正しいと勘違いしてしまうのです。

    一番比較しやすいのが、高校の先生と大学の教授です。

    物理を例に取ると、教えていることは基本的部分に余り大差は無いのですが、高校の先生と大学の教授では思考能力に天と地ほどの差が存在します。 それは何故かと言えば、時間の使い方と言うか人生に生き方そのものが違っているからです。

    高校の先生と言うのは自分より年下の生徒に教えていくだけで毎年毎年何の変化も無く、たまに教科書の内容変更や新定理の発見に伴う知識の補充だけです。 ところが大学教授と言うのは研究&発表が生活の大部分を占めていて、次に自分の知識の補充や吸収があり~そして最後に生徒に教えると言うのが大学教授の基本です。

    つまり、高校の先生とは永遠のマンネリズムの中で生きていて、大学の教授はいつも新しい発見と過去の再確認をしているのだから、この差は埋めようが無いほどに開いてしまいます。

    もしもあなたが高校の先生のような生き方を選べば、安住の地が手に入り穏やかに過ごせます。 しかし、大学の教授のような生き方を選べば波乱万丈ですが、自分の功績や足跡を後世に残すことになります。 これはどちらが正解と言うこともありませんし、人には色々な生き方や思いがあるので選び方は考え方の違いでしかありません。

    成果と言うのは、目に見えるものだけを相手にしていると行き詰ってしまいます。 しかし、その成果が出なければ人の心はやる気を失うのですが、成果とはいくつかの要素が絡み合って出てくるものです。

    だからこそ、どうしていいのかわからない時には死に物狂いでやらなければ、今までと同じものしか見えてこないのです。 同じものしか見えないのであれば未来は過去の履歴を辿るだけであり、過去に起こったことと同じことをトレースする自分に嫌気がしてくるのは仕方がないのです。

    死に物狂いでやれば余裕を感じている暇はなく、余裕がないと言う時には考えるヒマがないだけ打ち込める場合もあるのです。

    あなたは死に物狂いで、夢に取り組んだことがありますか?

    ンー(*´ -`)(´- `*)ンー

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    文化の違い。

    おはようございます。 キリ番のストラップについてですが、今回はアドリア海に面した北イタリアにある水の都ヴェネチアで生まれた「ヴェネチアン・グラス」にて製作しました。 (繊細なので、壊れ物&取扱注意です。)

    アドリア海を聞いたことがあるかもしれませんが、ここはジブリアニメ「紅の豚」の舞台となった地域で、「紅の豚」を思い出しながらストラップと照らし合わせて想像していただければ楽しめると思います。

    この細かい細工と模様はイタリアの職人さん手作りなので、楽しんでいただければ幸いです。 その代わりに日本製品とは違い、寸法や留め金具が結構いい加減なのでごめんなさい。  (材料費&経費としては、ストラップ100個分が著書の印税くらい…?)

    今日はこのような文化の違いについて書いてみたいと思うのですが、秘密のケンミンSHOWと言う番組があるおかげで、日本の地域特性が明らかになって文化の違いを楽しめることが増えました。 ここに書いているように岡山県内でも県北と県南ではかなり文化が違いますし、県北でも兵庫県側と広島県側ではだいぶ違います。

    同じものでも地域が違えばお菓子のはずが夕食のおかずになったり、人のいるところに文化があるのだと思います。 文化とは人間が長年にわたって形成してきた慣習や振舞いの体系を指し示すもので、いわゆるハイカルチャーと呼ばれる文学や美術などを指す場合もあります。

    例えば「日本文化史」などの書物に関して言うならば、源氏物語や和歌~仏教美術など上位の階層が担った文化の記述が大半を占めている場合が多いと思います。 そして文化の範囲としては、衣食住などの日常生活に関わる慣習や習俗に加えて、芸能~道徳~宗教~政治~経済と言うような社会構造まで文化の幅は非常に広く捉えられています。

    文化とは社会の成熟度が増していくにつれて細かく分類されて、なおかつ洗練されていくものです。

    日本的に例えるなら、茶道や華道のしきたり&決まりごとの細かさを見ると模範例となります。 こうした様式の洗練は文化の成熟の目安で、茶道や華道が単独で文化を構成すると言うよりも、茶道が発達する社会的背景や慣習などの複合的なもの全部が文化であると定義付けることもできます。

    文化の概念はある程度以上のサイズの人間集団に対してのみ用いられるもので、個人に適用されることはありません。 また、地域や集団や時代によって文化様式は大きく異なり、元々は人間集団によって作られるのですが個々の人間も環境などにより、文化に適応&学習させられていく場合もあります。

    日本文化~東京下町文化~室町文化など、地理的&歴史的なまとまりによるもの、オタク文化のように集団を構成する人を基準にするもの、出版や食のように活動の種類によって定義するものなど、個々の文化は様々な形で定義されます。 ここまで大げさではなくとも一般社会でも、企業の社風や学校の校風~さらには家系の家風などがあり、これらも文化の一端を担うものです。

    なお、文化の特徴でもあるのですが人間は他の動物に較べて、環境に適応し生存していく為の身体的特徴が少ない生命体です。

    動物の場合は牙や爪があったり~厚い毛皮や皮下脂肪など、生存の為の顕著な有機体的特徴や機能を持っています。 これに対して人間は生存手段を、生物としての身体的特徴以外に持っています。 狩りの際には狩猟の為の文化として道具を用いたり、気候が寒冷ならばそれに適した文化として体温維持可能な服装~住居~生活習慣を生み出してきました。

    このように文化は身体的特徴を発達した大脳の機能に基づく、記憶~知識~思考などによって作り上げたものでカバーして、よりすぐれた道具を使うことで困難を乗り越えてきた歴史があります。

    ただし、文化と言っても何事も程々と言うか、お互いが幸せになる方向を見出す必要もあると思うのです。

    例えば、東北地方では地域別にお正月の雑煮の具が全然違います。 その雑煮に入れる具の違いが文化の差と言っても良いのですが、その雑煮の具が元で喧嘩になったりするのは行き過ぎだと思うのです。 ある御夫婦なんかはせっかく結婚したのに、雑煮に入れる具が違うことに腹を立てて離婚した例もあるので愛よりも雑煮の具…?

    他にも九州のある地域のある家では、親戚一同が寄った時にはお寿司を振舞う習慣があります。 その家の御子息が結婚したことで親戚一同が家に寄ってお寿司を食べることになったのですが、実はお嫁さんは魚アレルギーだったのです。

    それなのに「食べない」と言うことで親戚が怒り出してしまい、仕方なくお嫁さんが口をつけたところ痙攣が起きて救急車を呼びました。 助かったから良いけれど、モノには限度と言う言葉があるように文化と言っても、やって良いことと悪いことがあります。

    また、私が生まれ育った県北地域の食文化も、普通の人は耐えられないかもしれません。

    例えば、魚を骨ごと食べるのが当たり前なので、給食の時に魚の骨を残す私を見て同級生や先生から「お上品やなぁ!」とよく嫌味を言われていました。 魚だけじゃなく鶏肉の骨も食べることが多かったのですが、簡単に言うと骨ごと丸ごとと言うことです。

    また、地域のお祭りの時には酒のつまみにカブトムシやタガメの天麩羅、それに蜂の炊き込みご飯がでてきて~更にはバッタの佃煮まであります。 (滋養強壮とか健康にはいいらしいのですが、普通の人は抵抗があると思います。)

    あなたは文化の違いを、どのように感じていますか?

    (°◇°;) スッゴォ~イ?

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