徒然草(岡山・東京・山崎かずみ)

    あなたを元気にしたい、それが私の願いです。

    逃げない。

    逃げてしまいたい時に逃げずに踏み止まるのは勇気の必要なことですが、それが出来たら人間としての成長は素晴らしいと思います。 人は苦しいことよりも楽な方へ逃げてしまいたくなるのは仕方がないのですが、楽な方ばかりへ行っているとお釣りがきた時に苦しいことが一度に返ってくるかもしれません。

    人の心は善なるエネルギーを持っているのですが、それを発揮できたら心に清々しさと言うか、心地良い何かが生まれてくると思います。

    私は過去に恥ずべきことを数多くしているので、自分でも思い返せば情けない気持ちになります。 出来なかったことなどを思い出せば、どうしてできなかったのかと言う後悔の念がたくさんあります。

    建設現場で働いていた時代の話ですが、父親は相変わらず借金を重ねていたから現場の日当だけでは追いつきませんでした。 そこでお金を稼ぐ為に朝市やフリーマーケットで、うどん~ドーナツ~クッキーなどを販売して日銭を稼いでいたことがあります。

    今から思えば良い経験でしたが、人はやろうと思えば何でもできると思います。 あの当時は前日にうどんを手打ちで作っていたのですが、粉から手打ちもやろうと思えばできるものです。 それにドーナツやクッキーなども本を読んで作ったのですが、これもほぼ完売していたから人は努力すればたいていのことは出来るようになります。

    ある日曜日のことですが、いつものように朝市でうどんやお菓子の販売をしていました。 その時に隣のブースで知的障害者施設の方たちが、施設での製作品の販売に来ていたことがあります。 (その当時の私は建設現場で働いていた時代の話ですから、今のような心の余裕は全くなくて自分のことだけ考えていた時代です。)

    朝市の終了時間が迫ってきて、お客様も少なくなったから休憩していた時のことです。 知的障害者の方が近寄ってきて、「お兄さん、一緒に歌を歌おう。」と話しかけてきたのです。 しかし、その時の私はそれに対してどうしたかと言えば、「無視」してしまったのです。

    この時のことは度々思い出しますが、何故優しく返事をすることができなかったのか、私は本当に馬鹿だったと思います。 そしてその男性は私が無視していたのに、ニコッとして私の横で歌を歌い始めたのです。 それでも私は無視し続けてしまったのですが、その時の私の態度は心の痛みとして今でも残っています。

    知的障害者の方だから無視してしまったのか、それとも人前で大声を出されたから恥ずかしかったのか、今でもあの時のシーンが思い浮かんで心苦しくなります。 どちらにせよ、私はあの時に向き合わずに逃げてしまったと言う事実に変わりはなく、悲しい人間だったと心の狭さに凹んでしまいます。

    大声で歌を歌い始めたことに気が付いた施設の職員の方が、すぐに迎えに来て「ごめんなさいね。」と言われたのですが、謝るのはこちらの方だと思いました。 心が荒んでいた時代のはずなのに何故か心苦しかったのは、今から思えば何かの暗示だったのかもしれません。

    そのことがあってからアルバイトで目の見えない人のお世話(病院や買い物の付き添い)をした話へ繋がるのですが、私が運命の暗示に何も気付かないままでいたなら今はありません。

    この話はブログに何度も書いているから御存知だと思いますが、目の見えない人が「お兄ちゃん、これ少ないけど取っといて。」と握らせてくれた2千円、あの時の私は喉から手が出るほどお金が欲しかったけれど、規定のアルバイト料じゃない2千円を受け取ってしまうことは私にはできませんでした。

    私はいつも思うのですが人助けの本当の意味とは、人を助けることで自分を磨くことになって自分の心を救うことじゃないかと思うのです。 光へと続く道が輝いて見えるように誰かの心に優しい手を差し伸べるのは、自分の魂を救う行いになるんじゃないかと思うのです。

    良いことしたら気持ちが軽くなるのは、自分の魂が穢れている部分が洗われるからじゃないかと思います。 良いことをすればドンドンと魂が浄化されてきて、人間としてのレベルがドンドンと上に昇っていく。 これを繰り返していくことで、人は自分の生きるべき道を見つけることが出来るのではないかと思います。

    誰かの力になるという行いは親切とわかってはいるけれど、最初は恥ずかしいと思うかもしれないし~勇気が必要なことだと私も知っています。

    しかし、だからと言って見て見ぬフリをしていたら、大切な何かを失っていくのではないかと思います。 今日と言う日の中で~今と言う時間の中で、誰かがあなたの助けを必要としている現状があります。

    法案が成立してから~もう少し収入がアップしてから~宝くじで一億当たったら~マザーテレサが直筆で手紙をくれるなら寄付するなど、やらない理由ばかりまくし立てて目を背けて逃げている、そんな大人たちと一緒では情けないから私は勇気を出して行動したいと思います。

    あなたは目の前のことから、逃げないようにしていますか?

    (ToT )( ToT) ウルウル



    お知らせ:業務多忙の為、ブログの更新は8月4日(火)より再開します。 いつもブログをお読みいただき、本当にありがとうございます。 m(__)m

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    チャンスを得る。

    私は常々思うのですが、人が開運するとか~運気上昇と言うのは、モノと会うからではなく人と出会うからだと思います。

    確かに風水などの開運法により、部屋の気の流れを良くして個人の運勢の立て直しを図る方法もありますが、これは元々の運気を立て直すだけで上昇させるのは難しいと思います。

    本来の運気が相当大きければ、それが目覚めることで運が良くなったと感じることもできますが、そうでない場合はクリスタルを身に付けても変らないと言う人もいると思います。 身に付けても変らないのはモノだけでは限りがあることの証明と言うか、ひとつの指針になると思います。

    私はチャンスを逃し続けてきた後悔があるのですが、その理由のひとつに人との出会いを拒否していたことが挙げられるかもしれません。

    私は普通の人がするであろうことの経験がゼロなので、お客様の体験を自分のこととして取り入れていることが多いのです。 小中高と修学旅行は一度も参加したことはありませんし、当然ですが同窓会にも出たことは一度もありません。

    社員旅行と忘年会も一度行っただけでアトは全て拒否していましたし、人と関わることがものすごく嫌で嫌で仕方が無かったのです。

    私がブログで恋に関することを書いているのも、お客様を霊視することで疑似体験が記憶に蓄積していくから、恋に関することがわかるようになっているだけなのかもしれません。 (私は過去に恋愛経験はゼロで、彼女いない暦と年齢が同じです。)

    だからこそ思うのですが誰かに何かを誘われたら余程のことが無い限り、それは何かのきっかけになるかも知れないのです。

    残念ながら当時は理解できていなかったのですが、その暗示を無視していたことが昔の私を作り上げていたのだと思います。 嫌な相手と仕事以外で付き合う必要は無いけれど、何かの縁で知り合った人との誘いを断るというのは、何か目に見えないものを損しているのかもしれません。

    例えば、誰かと食事に行くことにしても、本来はものすごいチャンスなのです。 普通に考えたなら食事に行くことをチャンスとは思えないかもしれませんが、食事に行く機会を失う場合と得る場合を計算してみると分かりやすいと思います。

    まず、一年はうるう年を除いて365日ですが、コレは誰であろうとも変りません。 つまり、誰かと夜に食事へ行く機会を得ようとしても、年間で365回しかチャンスはありません。

    仕事をしていると忙しい時や疲れている時は外へ出ることすら面倒ですし、通常はひとり~もしくは家族と食べる方が圧倒的に多いと思います。

    また、余程特殊な職業で無い限りは365日のうち、休みの前夜とか休日の夜が食事に行く機会が多いと思います。

    そうなると365日のうち100回行くようにすると、ものすごく忙しい状態だと思います。 毎週土日に誰かと夜ご飯を食べに行っていると、お金と時間がものすごく必要になります。

    更には食事に行くとしても普通は同じ人になることが多く、友人や知人が中心と言うことはメンバーが変わらないことを意味します。

    そう考えると年間365日のうち、夜の食事を知らない誰かと会話しながら食べる機会は、年に7~8回程度あるかどうかと言うレベルになります。 そうなると10年で、70~80回程度あるかどうかと言うレベルになるのです。

    チャンスと言うのは目の前にある時に掴まないと、それは逃げてしまってからでは遅いのです。

    私は寄付の神様と最初に出会った時に話の流れで何故か食事に行くことになり、当時の私が珍しく断らなかったのです。 それから寄付の神様との付き合いが始まったのですから、あの時の一回の食事がもたらしたチャンスは凄い財産となっています。

    こうやって次々と食事するだけでも色々な機会を作ったら、知らない世界が広がるかも知れません。

    それが難しいと思ったなら、同じ相手でも場所を変えていく努力はできます。 ところ変わればと言う言葉があるように、場所が変われば気分一新も出来たりします。

    あなたは365日のうち、どれだけチャンスを得ることができていますか?

    ~゛(ノ><)ノ イソゲ~!

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    何故の視点。

    おはようございます。 この度も滞りなく出張が終わり、何も起こらない普通の日々に感謝しております。 今回の東京出張でよく見かけたのですが、政治家の方々が自分の利益の為に街頭演説真っ盛りで、できもしない立派なことだけ言ってうるさい限りでした。 帰ってくる草々になんですが、ブログの後半は目先の選挙対策をしている政治家のやり方についてのお話です。

    人は生きている限りは一生勉強できると思うのですが、日常生活の中でもモノの見方を変えていけばいくらでも学べると思います。 学べるのは良いけれど得るものを見つけることが出来なければ財産として自分の中に蓄積できないので、見つけることと学ぶことに加えて自分流で蓄積して活かすことです。

    通勤途中でも町の景色の中に目をやれば、「アレは、どうして、こうなんだろう?」という風に疑問点が芽生えてくると思うのです。

    例えば、朝8時から11時など午前中に喫茶店に入っている中年男性が意外と多いことに気が付いたら、「どうして中年男性が平日の朝なのに、仕事もせず喫茶店に入っているんだろう?」と考えたなら、答え探しが脳の活性化や思考回路の道を増やすきっかけになります。

    答えが見つからなくても探すと言う行為が、あなたの人生を少し変えるチャンスにはなっています。 それは探すと言う行動を起こした分だけ、他のことにも目が行く上に一度経験したことから経験上のスキルが濃くなるからです。

    朝8時から11時など午前中に喫茶店に入っている男性が多いのは、営業の人とかモーニング狙いなど色々な理由を言われるかもしれません。 しかし、一番大きな理由は「時間待ち」と言うのが正解で、あの男性たちは時間待ちをしていることが多いのです。

    ただし、時間待ちの内容がそれぞれ異なるのですが、駅周辺で時間待ちをしているのは「ギャンブル」の為に時間待ちをしている男性ばかりです。 西日本の場合は朝9時にパチンコ屋さんが開店するので、9時前までモーニングを食べながらパチンコ屋さんの席取りの為に様子を伺っているのです。

    だから9時前になると急に席を立つ男性が目立つのは、開店前のパチンコ屋さんに並ぶ為に喫茶店を後にするのです。

    ところが、それでも喫茶店の中には中年男性が残っています。 その人たちは腰を上げずにゆっくりしていますが、この人たちは競艇場や競輪場へ向かう無料バスの時間待ちをしているのです。

    無料バスが発車する時間まで喫茶店でモーニングを食べながら、喫茶店のスポーツ新聞を見て予想している姿は未来を担う子供には見せられないと思います。 あの姿を見て「どこが悪い!」と言うようでは、人生を生きている意味の大切さに気が付いていない証拠です。 ただし、人には生き方や考え方があるので、そういう人生を否定するつもりはありません。

    こうやって見ると平日の朝に仕事もしないで、何で喫茶店に中年男性がいるのかと言う疑問が解決できたと思います。

    疑問を持つことは結構なことなので、世の中の色々なことに疑問を持つことはあなたの人生を豊かにしてくれます。 そして知性などスキルアップにも繋がるので、誰かと話をする時にもネタになるかもしれません。

    ギャンブルの話で言うと私が4月のブログに書いた、「定額給付金は無駄になる可能性が大」と言う内容の証明をしたいと思います。 定額給付金は4月から全国各地で続々と給付されましたが、これが景気刺激策には全く関係ないと私はブログに書きました。 それは有効に使う人ばかりじゃなく、お金を回すだけだから景気の刺激にはなりえないのです。

    分かりやすく説明するのに面白い例があるのですが、四国の香川県に丸亀競艇場と言うギャンブル場があります。 ここの売り上げの推移を見てみると、4月20日から5月20日までの1ヶ月間は1日平均で約4億3千万円ほどの売り上げでした。

    ところが6月20日から7月20日までの売り上げはどうかと言えば、1日平均で約1億2千万円ほどの売り上げに落ち込んでいます。 なんと4~5月頃の売り上げに比べて6~7月頃の売り上げは、1日平均で約3億円も下がっているのです。

    この売り上げを比べている期間を見て、「ピンッ!」と来る人はさすがです。 簡単に言うと定額給付金が給付されている期間中は売り上げが良かったけれど、給付が終了したら売り上げが落ち込んだと言うのが答えです。

    私は給付が始まったらパチンコなどギャンブルに使う人が多いだろうなぁと思っていましたが、ここまで顕著な結果が現れるとイイ歳した大人が雁首そろえて情けない話です。 日本中の公営ギャンブルは国が運営しているのだから、今回の定額給付金の大部分は国が回収しているから坊主丸儲けのいい例です。

    この定額給付金は簡単に言うと借金だから未来で大増税が必要になり、結局のところ最後に未来でツケを払うのは国民と言うことです。 これは丸亀だけではなく日本中のギャンブル場で起きていることだから、凄い金額が国の金庫に戻ったことになります。

    人間の脳と言うのはいくらでも活性化できるので、こうやって違う視点で見ると面白い発見になります。

    あなたは日常生活の中で、どういう視点で見ていますか?

    ( ̄O ̄;) ハァ?

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    あなたの声。

    言葉とは残酷なものでありプラスにもマイナスにも働きかける不思議な音、心がこもっていようがいまいが相手に届いた瞬間に元気にも出来るけれど傷付けてしまうこともあります。 しかし、残念ながら言葉の力は使う人によって凶器となる、それについて考えるまもなく発することから誤解が生まれてしまうのです。

    人は誰しも幼い時には無邪気なのですが、それゆえに心に残る傷跡は小さい時ほど一生残るくらいのトラウマになることがあります。 しかし、それにより自分の可能性を失ってしまうのは、非常に勿体無いことだと思うのです。

    東京出張にてお越しになったRさんは小さい時から歌を歌うのが大好きで、今は亡きおばあちゃんと一緒によく歌を歌っていました。 おばあちゃん子だったRさんは、いつも学校から帰るとおばあちゃん家で歌を歌って「上手だねぇ。」と言われるのが、とても嬉しかったそうです。

    おばあちゃんは御主人が亡くなってからはひとり暮らしで、Rさんが遊びにくるのを喜んでくれて、いつも「Rの歌を聞くと幸せになれるような気がする。」と言ってくれたのです。

    その生活も小学校4年生の時におばあちゃんが倒れたことにより終わりを告げて、いよいよ危ないと言う時に病室へ親族一同が集まったのですが、幼いRさんはワケも分からずおばあちゃんに元気になって欲しくて必死で歌ったそうですが、おばあちゃんは力尽きて旅立って行きました。

    Rさんは「おばあちゃんが死んだ…。」と言うショックに加えて、その時に伯父さんが「うるさい、お前がうるさいからおばあちゃんが死んだんだ!」と怒鳴られて、Rさんは「私のせいで、おばあちゃんが死んだ…?」と二重にショックを受けたのです。

    伯父さんもイライラしていたのでしょうが、その大人気ないヒトコトによりRさんは歌も歌わないどころか、無口で暗い感じがするようになっていったのです。 本当はおばあちゃんは病気で亡くなったのであり、Rさんが歌を歌ってうるさいから亡くなったわけじゃありません。

    それから中学~高校と進学していったRさんでしたが、無口で暗いと言われて友達も出来ず彼もできず、仕方が無いことですが学生時代に良い思い出が無かったそうです。 元々は陽気で明るかったRさんの心にあるトラウマ、「Rさんがうるさいからおばあちゃんが死んだ」と言う誤解、これは成長しても直らないままでした。

    高校卒業後に専門学校へ進んだRさんは介護士となって老人ホームで働き始めたのですが、ナカナカ人間関係に馴染めない上にお年寄りの方のお世話がうまく出来ないことで悩んでいました。

    しかし、ある日のことですが担当のおばあちゃんが何かブツブツ言っているのをよく聞いてみると、それは童謡を歌っていたのです。

    Rさんは「あっ、この歌は…?」と思ったその歌は、小さい時にRさんがおばあちゃんに歌っていた歌だったのです。 Rさんは懐かしさに思わず歌の封印を解いて一緒に歌ってしまったのですが、それをタマタマ聞いていた上司のMさんが「Rさん、歌上手いじゃない。 その調子で利用者さんたちの気持ちに答えてね。」と褒められたのです。

    Mさんは、真面目だけどイマイチ殻を突き破れないRさんを歯がゆく思っていたのですが、Rさんの持って生まれた声の良さには気付いていたのです。 それでもRさんは「私の歌なんか…。」と、どうしても小さい時のトラウマが邪魔をして素直になれなかったのです。

    Rさんが私に聞きたかったのは、「おばあちゃんは私の歌が嫌だったのか、孫だから仕方なく聞いていたのか?」と言うことでした。 私はRさんが今後どれだけの人の役に立つのかと素晴らしい未来に感動しましたが、おばあちゃんもRさんに伝えたかったのは感謝のメッセージ…。

    おばあちゃんは、「最後に伝えられなくてごめんね、Rにはお礼が言いたかった。 あの時はね、Rの歌声を聞きながら天国へ行けるんだと幸せな気持ちだった。 Rが歌を歌ってくれたから、怖がらずに天国へ行けるんだと本当に幸せだったよ。」とRさんへ感謝のメッセージだったのです。

    Rさんは感極まって言葉になりませんでしたが、きっと誰かの役に立つ人生になると私は確信できました。 それからRさんは月に一回、老人ホームでコーラス会のようなものを主催してお年寄りの方に楽しんでもらうようになったそうです。

    老人ホームには介護が必要な人もいるし、何が始まったのかわからない人もいるけれど、TVやCDなどで流れる声ではなく人対人と言う肉声の力には心があるのです。 目の前で一生懸命に歌うからこそ、お年寄りの心に何かが届くのだと思うのです。

    今のRさんには分かるはずですが、おばあちゃんが本当に伝えたかった言葉は「ありがとう。」と言う、心からの感謝のヒトコトだったと思うのです。

    あなたの素敵な声は、誰かの心に響いていますか?

    。・゜゜⌒(TOT)⌒゜゜・。 エェ~ン!



    お知らせ:出張の為、ブログの更新は7月29日(水)より再開します。 いつもブログをお読みいただき、本当にありがとうございます。 m(__)m

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    他人のルール。

    自分に迷いが生じる時と言うのは、誰かに言われたりして違いに悩んだ時が往々にしてあります。 どうして悩んでしまうのかと言えば、他人のルールに縛られてしまうからです。 自分の人生なのに他人のルールに縛られていたら、それは苦しくても当たり前かもしれません。

    確かに世の中には様々なルールがありますが、それは公共のルールと個人のルールがあるのです。 遅刻せずに出勤するとか、物を買う時には対価としてお金を払うなど、公共的なルールは守らなければ社会人として生きていけません。

    自由がいいんだと言ったところで、他人に迷惑を掛けるようなのは自由とは言わず横暴&ワガママと言うのです。 もしも赤信号でも止まらずに信号無視すればどうなるか、キチンと信号を守るからこそ交通事故が起きないのです。 自分が行きたいからと言って信号無視していたら、それは社会の秩序を乱していることになります。

    しかし、個人のルールと言うのは意味が違います。 ルールを守る重要性と言うのは、公共的なルールを守るのは自分を守ってもらうことになるからです。

    例えば結婚相手に求める条件にしても、安定を求める人は公務員の方と結婚する方が安心ですし、夢を追い求めるなら自営業の方と結婚する方が活き活き出来ます。

    どちらが正しいわけでもなく、その人がどちらを好むのかと言うだけなのです。

    それを「大学を出てないとダメだ!」とか「名の知れた一流企業でないとダメだ!」など、結婚相手に条件を求めるのは個人の勝手なルールなので、それを守っていると付き合いが無くなると言うだけです。

    学歴重視とか職歴重視の場合は、それが優先と言うルールの中で生きているのであればいいのですが、それを人に強要するから諍いが起き始めるのです。 人は生きているうちにドンドンと頭が固くなってくるのですが、モノは考えようと言うか~自由な発想と言うのが悩みを減らすことに繋がるのです。

    そして今までの悩みが減ると同時に今までの付き合いが減ることもよくありますが、そうなるのは縁が無かっただけなんです。 それ以外の人との出会いの輪が広がるかもしれないと、新たな自分を前向きに捕らえることだって出来るのです。

    公共のルールと違って個人のルールは人生を豊かにするかどうかだけで、見かけでは良い悪いが判断しづらいのです。 いくらお金を稼いでも誰にも相手にされない裸の王様では、どれだけ辛いのかは歳を取るほどに骨身に沁みてきます。

    ここで妬みや嫉妬も関係してくるのですが、相手のことを羨んだり馬鹿にしたりしてはいけないと言うのは、その分が自分に跳ね返ってくるからです。

    よくあることですが、人は昔知り合いだった人を引き合いに出して自分の優位性を保とうとしますが、コレは悪い方の見本でしてはいけないことです。 立派になった人や更正した人を「昔はよく鼻を垂らしていた」とか「俺の方が凄かった」なんて言うのは、聞いている方も良い感じはしないものです。

    あくまで例え話ですが、大学時代にソフトバンクの孫正義氏と同級生だったとして、「私は美人でモテモテだから大学のアイドルで、孫さんなんか相手にしていなかった。」と自慢のつもりで引き合いに出しても、「それなのに今は相手にされていないんですか?」と言われたら恥ずかしいと思います。

    人は心のまぶたを開いて見ると、今まで見えなかったものが見えるようになります。 そして、心の声で聞いてみると今まで聞こえなかった言葉が、聞こえるようになります。

    他人が決めたルールに縛られながら生きているよりも、他人に迷惑を掛けずに「ありがとう!」と言われる未来の方が楽しいと思います。

    昔で言えば「フーテンの寅さん」で、今で言えば「釣りバカの浜ちゃん」と言えばわかりやすいと思いますが、出世しなくてもこの二人は幸せな人生だと思うのです。 自分が生きたいように生きて~やりたいようにやるのだから、本人は充分に幸せだと思うのです。

    世の中のルールで言えばハミ出しているかもしれないけれど、自分が生きている幸せは何かと言うのを掴んでいる以上は、他人にとやかく言われなくても幸せだと思うのです。

    年収がどうのとか~家を建てたとか~ブランド物を買ったなどとは無縁でも、本人は温かい人たちに囲まれて、わいわいがやがやとにぎやかに笑い声に包まれているのだから、お金があって孤独で居るよりも精神的に豊かでいられるはずです。

    あなたは他人のルールに縛られて、辛い思いをしていませんか?

    (*^▽^*) ニコニコ~!

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    恋する相手。

    恋の悩みは尽きないものですが、どうして尽きないかと言えば愛を感じられないからです。 ホンの少しの言葉でもいいし、ホンの少しの行動でもいいし、何か愛を感じられる行動があれば心が満足すると思うのです。

    何も特別なことじゃなくていいから、優しさを感じられると心が落ち着くのです。 それを男性は何かして欲しいのかと勘違いするのですが、そんなことでは相手の心を理解するのは難しいと言わざるを得ません。

    心がピンボケしていると空気が読めないと思われてしまうのやぶさかではありませんが、相手のことを思いやらない行動は何をしても愛情表現にはなりえないのです。

    ここで男性陣にはよく考えていただきたいのですが、奥様が風邪で寝込んでいる時に「俺は飯を済ませてきたから、ゆっくりしててイイよ」なんて言うのは愚の骨頂です。 世間の男性の多くはこれを愛情がある思いやりだと考えるのですが、愛情どころかおかしいと思わなければ行けない事例です。

    ここまで書いても分からない男性は分からないのですが、奥様が寝込んでいるから飯を済ませてきたと言うのは、自分だけが助かれば良いと言う考えに他ならないのです。

    奥様が風邪で寝込んでいると言うのであれば、その「奥様のご飯はどうするのか?」と言う部分が抜け落ちています。 奥様も寝込んでいるのだから体力も落ちているかもしれないし、そもそも寝込んでいるのだから看病しないといけないのです。

    薬を買っていくるとかご飯を用意するなど、動ける人ではなく動けない人のことを考えないといけないのです。

    奥様からいきなり離婚を切り出されて慌てている男性のほとんどが、こう言う思いやりの部分がないから説明をされてもピンと来ないのです。 「俺が何したって言うんだ。」とか「じゃあ、どうすればいいんだ。」など、相手の気持ちを考えないと言うか理解しようとしない発言を繰り返して、ドンドンと奥様との溝を広げて修復できなくなっていくのです。

    愛と言うのは形ではないから、何かにして渡せるわけではありません。

    何かにして渡せるわけではないからこそ、心に染み入るような部分を考える必要があるのです。 せっかく結婚したのですから、どうして相手との溝を広げるような行為しかできないのか、もう少しお互いの気持ちが噛み合うような相乗効果の生活を送るのが、本当の結婚生活だと私は考えるのです。

    結婚生活には信頼関係がなければ苦痛でしかないのですが、男性は小手先のテクニックで奥様が納得したと考えがちです。 浮気をごまかすテクニックなんか女性の勘はお見通しですが、男性の大部分はバレてないとか~大丈夫などと思い込んでいるのです。

    例えば、新婚の時や付き合い初めの時によく使う方法ですが、携帯電話を奥様や彼女の前に投げっぱなしにしておいて、トイレに入るとかお風呂に入るなど電話に出れない状況を作ります。

    その状態で携帯電話が鳴ったり~メールが来るように、同僚や友達に頼んでおいて時間などを打ち合わせておくのです。 要するに夜7時15分に電話やメールをしてもらうようにしておいて、その時にお風呂やトイレや髭剃りなど手が離せない状況にしておくと言うことです。

    そして携帯電話が鳴ったら奥様や彼女に、「携帯に出てくれる?」とか「誰のメールか読んでくれる?」など、ワザと奥様や彼女に携帯を見せてしまうのです。 そうすると電話でもメールでも相手が誰か分からないのに、自分に携帯電話を見せてくれたと言う信頼を得ることができます。

    男性の方としては打ち合わせどおりに電話やメールが鳴っているだけなので、お風呂でもトイレでも余裕で携帯電話を相手に見せることが出来ます。

    これをすると「あぁ、この人はここまで私のことを信用してくれているんだぁ。」とか、「誰からか分からないのに携帯電話を預けてくれるなんて、浮気はしてない証拠だわ。」というような小手先のテクニックで、信じ込ませることができたと勘違いする男性の多いことには驚きです。

    はっきり言って女性の直感と言うのは、こんなテクニックをはるかに凌駕しているのです。

    私は御相談を伺う度に驚愕するのですが、霊視する内容と調べてくる内容が一致していることの正確さには舌を巻いてしまうくらいです。 男性は色々と浮気がバレないようにしてはいますが、残念ながら見抜かれていることが多いです。

    恋の悩みは愛情不足から起こるといっても過言ではないのですが、愛情が深ければ恋の悩みは格段に減ると思います。

    あなたは恋する相手から、愛情をどれくらい受けていますか?

    ρ(。。、)ヾ(^-^;)ヨシヨシ

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    預金封鎖。

    おはようございます。 この連休は大雨の影響で各地の新幹線が止まりまくっていたから、旅行など移動していた方々は大変だったと思います。 私が乗った次の新幹線から止まったので鑑定にも間に合い、私個人は全く影響がなかったので本当に感謝です。

    さて、選挙も近くなってきたので政治の話を少し書こうと思うのですが、今日の話を覚えておけば政治家や官僚が未来で国民に何をしてくれるのかが理解しやすいと思います。 ドコが政権をとっても一緒ですが、著書の中で「2018年までに消費税を17%にする」と明記している政治家が政権を担いそうなので、この選挙を境に景気が悪くなるかもしれません。

    前フリの説明からですが、金運は誰でも欲しいと思いますが金運とはなんぞやと考えることがあります。 お金があっても健康じゃなければ意味はないし、死んであの世に持っていけるわけでもありません。 ただし、お金があれば御飯が食べられて、水を手に入れることも出来ます。 生活の為には、お金を稼ぐ為に労働すると言うのは不思議でもなんでもなく当たり前の行為です。

    私は貯金ゼロで家も車も持っていませんし、親は借金で夜逃げしています。 そして学歴があるわけじゃなく、世間的には認められない立場にいます。 本来ならば八方塞がりでどうにもならないはずなのに、そうならず何とかやっていけるのが運命の面白い所です。

    お客様より時々聞かれるのが、「全部寄付して貯金無しで生活するのは、怖くないですか?」と言う質問があります。 コレに対する答えは、「はい」とか「全然」とか、こういうしかありません。

    私は人生上でも運命上でも貯金なんかしようと思わないし、私のところに来たお金は全部誰かの役に立てばいいと思っています。 基本的に貯金通帳なんかいらないのですが、盲導犬などその他の場所へ寄付するのに、口座引き落としにする必要がある為に作っているだけです。 私も霊視カウンセラーになりたての頃は、貯金しようとしたこともあるのですが2つの理由により無駄なので止めました。 コレはどういうことかと言えば…?

    仮に私が10万円貯めたとしたら、間を置かずして父親の借金の借用書が10万円分回ってきます。 その結果として、「10万円-10万円=0」となります。 では、毎月家賃など経費を除外して余ったお金を全額寄付したら、どうなるかと言えば…?

    仮に私が10万円寄付したとしたら、寄付した先から10万円の領収書が届きます。 その結果として「10万円-10万円=0」となります。 つまり、私の手元にお金が残らないのは同じことであり、同じお金が残らないのなら誰かの役に立つ方がいいんです。

    不思議なのですが、寄付をしていると父親の「借金が回ってこない&回ってきても金額が少ない」ことが多いので、余分なお金は全部寄付する方が気が楽なのです。 もしも寄付せずに父親の借金が回ってきたり、病気になったりと災難が降りかかる方が嫌になります。

    コレは本当に不思議なのですが、自分に乗り越えられない災難は降りかからないのです。

    確かに貯金ゼロでやっていると事務所移転など、急に困るような出来事もあります。 しかし、支援してくれる人や応援してくれる人が出てくるので、同じことだと思っています。 それに結果として気持ちよく過ごせる事務所ができて「災い転じて福となす」状態なので、困ると言うのは一時的なことで永久に困ることなどありえないのです。

    余談ですが、この事務所では長居するお客様が多くなり、タイマーが鳴っても話が止まりません。 おまけに遅刻する人が激減して15~20分前に来て、待つ時間を楽しむ人も増えました。 誰も来ない&電話も鳴らない方がイイと言う経営者もいますが、私はどんな形でも人が来るのは嬉しいので本当にありがとうございます。

    私も最初に寄付した時は「あぁ、これだけのお金を持っていれば…。」と思ったことも正直ありました。 しかし、父親の借金を払うくらいならば世の為&人の為に使わないと、せっかく助けてくれた運命に申し訳ないのです。 寄付を継続して始めた頃は、「どうせ父の借金が回ってくるんだから、もうどうにでもなれ!」と言う自棄気味な気持ちもありました。

    家賃や生活費などの必要経費を除いて全部寄付するのは、本当のところ正直に言えば勇気が必要です。 「もしものことがあれば…。」と思わないわけじゃないのですが今は生活できているので、今後もナントカやれるんじゃないのかなとは思います。

    下手に貯金すると「父親がどれだけの借金を作って、押し付けてくるのか?」と、そちらの方が嫌です。 同じ使うのなら、父親の贅沢で無軌道な生活のツケを払うよりも、目の見えない人の為に盲導犬を育成したり、エチオピアの子供たちにキレイな水を飲ませてあげたいと思います。

    なお、貯金なんかしても無駄と言うもうひとつの理由は、国と言うのはいざとなれば「預金封鎖」と言う必殺技があるからです。

    もしも日本と言う国にお金が足りなくなれば、国民の貯金を勝手に国のものに出来る「預金封鎖」と言う法律&権限があります。 この預金封鎖には色々な手口がありますが、いくら真面目に貯金していようとも国に無条件で没収される、コレをやられると誰がどう言っても施行した瞬間から貯金ゼロになります。

    この話を工場時代にしてウソツキと言われましたが、日本の歴史を振り返れば「昭和21年に適用」されて、貯金の大部分を没収された日本国民は一気に生活苦に陥ったのですから、平成だっていつ預金封鎖を発動されるかわかりません。

    あなたは目の前にあるお金と喜んでいる人の笑顔、どちらがいいですか?

    (* ̄∇ ̄*)エヘヘ

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    あなたがいるから。

    おはようございます。 三連休に突入していますが仕事の方もお休みの方も、素敵な一日となるはずだと信じています。 あなたの素敵な笑顔が呼び込む運と言うのは、かけがえのない善として存在しているのです。 あなたがいるだけで心救われる人が未来でいるのだから、その為にもあなたが成すべきことは何なのかを知らないといけないのです。

    人は寂しいと言う気持ちが出てくると、ひとりでは生きられないと言うことを実感するのですが、自分だけが得すればいいと言う人はいくらお金やモノがあっても寂しいままで終わります。

    私は素敵なお客様が全て幸せになっていただきたいと思いますし、全員がお金やモノに不自由しない状態でいて、更にはその生み出される余裕の中からボランティアや寄付に目を向けていただければ良いと思うのです。

    自分だけが得すればいいと言う考え方でいると周りからドンドンと人がいなくなりますが、それは何か行動をしようとした時に共感してくれる人も同調してくれる人もいないからです。

    「楽しい時には楽しい話が出来て、悲しい時には悲しい状態を理解してくれる。」 これはひとりでいると誰にも相手にされないから不可能なことですが、周りに誰かがいてくれるのであれば充分に可能なことです。

    映画を見た時に、「あの映画は面白かったよね~。」と言える状態~旅行へ言った記憶を話す時に、「あそこの温泉はそうだよね~。」と同調できる状態。 更には「私も失恋した時は辛かった…。」とか「私も病気の時は大変だった。」など、苦しいことや悲しいことも共感してもらえたら悲しみが減ると思うのです。

    私は365日いつでも霊視カウンセリングをしていますが、それは必ず事務所にいることになります。 出張の時は仕方がないのですが、それでも出張以外ではお休みしませんから常にお客様をお待ちしている状態です。

    お客様がふと思いついた時~悲しい時や辛いことがあった時に吐き出す場所として、嬉しいことや楽しいことがあった時に話すことで祝福の言葉が飛び交うような状態が作り出せる場所として、私の事務所が位置づけられているのであればとても嬉しいです。

    私のところへは何も相談があるから来るお客様ばかりではなく、「何となく行って見よう。」とか「雑談するだけでも気が晴れる」など、世間話をしているうちに生きるヒントやアイディアが生まれることも珍しくありません。

    差し入れをしてくださるお客様も「よろしければクッキーをどうぞ。」とか「コーヒーはお好きですか?」など、人としての良心の部分は本当に感謝すべきありがたいことです。

    霊視カウンセリング山崎の事務所や出張場所は、いつでも人が集まる場所として大いに賑わっていて欲しいと願っています。 そして私自身も人が寄ってくる人間でありたいと、いつも努力を忘れてはいけないと自分を戒めています。

    人が人と出会い笑顔でいられると言うこと、人が笑顔でいられると言うことは少なくとも元気であると言うことです。 そうやって素敵なあなたが未来へ立ち向かう勇気や元気が出る、そんな霊視カウンセラーとして私は人生を歩んでいきたいと思うのです。

    人は広大な宇宙の中ではちっぽけな存在ですが、そのちっぽけな存在同士が集まることで広大な宇宙の中で地球と言う場所で暮らすことができるのです。 決して一人だけの力でナンデモカンデモできるわけではなく、小さな力が集まることで大きな力を生み出すキッカケになっているのです。

    昔の私はいじめられていたせいもあったけれど寂しい人生で、目の前には同級生がいるのに相手にされず虚無感と言うか悲壮感が漂っていました。 運動会や遠足の時は必ず一人でお弁当を食べていたし、常日頃から仲間外れで言葉を忘れそうなくらい誰とも話をしない毎日でした。

    家に帰っても親はお金の話ばかりで借金取りもよく来ていたし、知性や品格と言う言葉とは無縁の生活の中で友達は本だけと言う生活でした。 今から考えると周りに染まらずに毎日本を読んでいたことが、今の私の基礎になっているのだから運命は不思議なものです。

    人の最大の悲しみと言うか不幸なのは誰にも相手にされないと言う無関心で、マザーテレサさんも言っていましたが愛の反対は無関心です。 人が人である証明になるのは誰かに必要とされて、心からお互いがお互いのことを分かり合えることです。

    「占い師が上からモノを言うのはトンデモナイ」と私は度々ブログに書きますが、それが当たり前だと気付けないようでは占い師以前に人として問題ありです。 偉そうに言うのは勝手だけれど、御相談に来てくださるお客様がいなければ占い師なんて手も足も出ません。 お客様あっての占い師であり、偉そうに言う前に「こうべをたれる」べきなのです。

    私は素敵なお客様とお会いできる毎日は、あなたがいるからこそだと感謝の思いで一杯です。

    あなたと言うすばらしい人が存在しなければ私はあなたにお会いできなかったし、素敵なあなたがいるからこそ盲導犬やアフリカなど地球上の子供たちが大勢助かっています。 つまり、あなたと言うひとりの人間が地球上で救いの手を、色々なところへ差し伸べているのです。

    素敵なあなたがお越しになることは凄い人助けであり、あなたと言うひとりの人間は感動を呼ぶべきすばらしい存在です。

    あなたがいるから救われる、そんな未来に気付いていますか?

    アリガトウ~ (* '-^) ⌒☆



    お知らせ:出張等の為、ブログの更新は7月22日(水)より再開します。 いつもブログをお読みいただき、本当にありがとうございます。 m(__)m

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    自分の都合。

    私は個人的な自分の都合でモノを言わないようにと、充分に気を付けてはいるのですが未熟な故に言ってしまいがちです。 人生には自分にとっては良いことでも、他人にとっては迷惑と言うことも多いです。

    自分さえ良ければと言うのではなく周りも良いと思える行いの方が、気持ちの良い人生を送れると思うのです。

    これは男性に多い傾向ですが、自分が作ったわけでもないのに肩入れしてこだわることがあります。 例を出すと、アップルは素晴らしいけどマイクロソフトは金儲けだけとか、ベンツはいいけどBMWはダメだとか、自分が好きだと言うだけで優位性を保とうとするのです。

    しかし、世の中にはアップルよりもマイクロソフト~ベンツよりもBMWと、好きは好きでも人により好みの差と言うものがあります。 それを自分の考えが絶対とばかりに押し付けてしまうから、それによる人間関係の損失はかなり大きくなります。

    自称一流と言う大人の中に精神的オコチャマが多いのですが、自分が言えばナントカなると思っているのは恥晒しもいいところです。

    例えば、男性立ち入り禁止の場所に平気で入れろと怒鳴ったり、格式あるバーに子供を連れて行って入店させないとまたまた怒鳴り始める。 自分が怒鳴れば何でも通ると思っているような精神的オコチャマの男性が多いのは情けない話です。

    男性立ち入り禁止の場所があるのは、女人禁制の場所があるのと同じく当たり前です。 入ってはならない場所を自分の興味本位で入れろというのは恥ずかしいことで、そういうことをする人に限って自分のテリトリーに誰かが勝手に入ってきたら激怒するはずです。

    実はこれが日本の不況の一因でもあるのですが、自分の考えだけが正しいと思い込んで相手のことを認めようとしないのは、人生において周りに迷惑を掛けているだけです。

    先ほどの例に出した格式あるバー、ここに子供連れでは入店できないという大人のルールがあるにもかかわらず、「チョットくらいイイだろう!」とゴリ押しするのはいけないことですが、それを売り上げ至上主義でお店の哲学を曲げてしまう店員さんも問題です。

    その時に一時的には入店してもらえるから売り上げは上がりますが、その行為を見ている良識ある大人は「あぁ、ここはそういう店なんだな。 次からくるのはやめよう。」という、見えない損失に気付いていないのです。 この格式あるバーは長い歴史にもかかわらず閉店に追い込まれましたが、それはお店の哲学を守りきれない心の弱さにあったと思います。

    ただし、人の心は目先のことに意外と弱いのですが、「今日は売り上げゼロでイイ。」とか「今週はお客様ゼロでもイイ。」とはいかないのです。 これは不思議なところですが「哲学を曲げてまで商売しない。」と言う確固たるものがあるお店は、逆にいつでも繁盛しているのだから面白いものです。

    色々な人生を視ていると感じるのですが、個人的な自分の都合でモノを言っていると最後には誰もいなくなる、これはどんな人でも確定と言っていいくらい孤独への道をまっしぐらです。 こだわりなんか持っていても邪魔になるだけの場合もあるので、意地を張るのはTPOを考えないといけないのです。

    私も人のことは言えないのですが、私が最近でこだわったばかりに失敗したお話です。 この事務所じゃない時に某経営者の方より、「私がよく行く品川のオイスターバーは一流で、こういうお店に行かないから山崎さんは出世しない。」と、耳にタコが出来るくらい言われてウツになりそうな時期がありました。

    5月の東京出張にて寄付の神様と品川で待ち合わせて食事をしたのですが、その時に品川プリンスのトップ・オブ・シナガワに行こうと言われました。 ところが、せっかくの好意をおバカな私は、「すみません、今回は品川のオイスターバーでお願いします。」とやってしまったのです。

    余計な記憶がこだわりとなって、そのオイスターバーが本当に一流と言うほど凄いのかを確認したかったのです。 しかし、いざ行ってみると下町の居酒屋そのもので、隣の席の男性は上半身シャツ一枚になり飲んで騒いでと言う陽気なお店でした。

    自分の都合でモノを言う人の言葉にこだわらず、素直に品プリで夜景を見ながら食事をしていれば、どれだけ貴重な時間だっただろうと反省しました。 これは私が意地を張ってこだわった、本当にお恥ずかしい失敗談です。 私はおバカなところが多いので、余計なこだわりを捨て去るのが今後の課題です。 m(__)m

    この失敗談からも分かるように、イチイチうるさく言う人ほどたいしたことがありません。 自分の都合でモノを言う人を相手にしていると、貴重な人生において大いなる損失です。

    あなたは相手の意見を真に受けて、人生で損失を出していませんか?

    ( -ω-)ノ-=≡≡≡☆-(>。<) アイタァ~!

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    儲けと幸せ。

    おはようございます。 私は毎日思うことなのですが、お越しくださる全てのお客様にとても感謝しています。 お越しくださるお客様に嫌な人はひとりもいないし、真面目に未来のことを考えているすばらしい方々ばかりです。 いつだって心に残って忘れることはない、そんな素敵なお客様にお会いできる私はものすごく幸せ者です。 何故なら、お客様がいなければ今の私は存在し得ないからです。

    このブログにしても読んでくださるお客様がいるから書けるだけであり、誰も読まないようでは心の張りが無くなってしまいます。

    人はひとりでは生きていけないのに、なぜか意地を張ったりミエを張ったり~プライドが邪魔をして、人間関係を壊してしまうことが多々あります。 私は自堕落的で最悪な状況から、素敵なお客様が助け出してくださったと感謝が尽きることはありません。

    私がブログに書いている内容は驚くような話もあれば、心温まる話もあるし~ホンマかいなぁ~と言うような話もあります。 しかし、ここに書いてあることは少し柔らかい表現で不快にならないようにはしてあるけれど、紛れもない実話ばかりです。

    ここに書いていることはひとつひとつは単なる点でしかありえないけれど、流れに沿って読んでいくと必ずひとつの線となってあなたの中に描いてくれるものがあるはずです。 根っこの部分や幹の部分~更には枝葉の部分から実となっていき、そしてそれがやがては更に大きな種となって可能性と言う名の実が変貌を遂げるかもしれないのです。

    人生の本質とはお金や物などに幸せを求めるのではなく、生きていてよかったと思えるような瞬間に、どれだけ立ちえあるかと言うことなのです。

    あなたの周りの人が喜ぶ顔を見て、あなたも自然と笑顔になれるのであれば「幸せ」です。 誰かが喜ぶ瞬間と言うのは自分に良いことがあったわけじゃないのに、自然と自分のことのように気分が高揚してくる。 これはまぎれもない幸せの瞬間であり、他人の幸せを自分の幸せとして同調できている瞬間なのです。

    目の前においしそうなケーキが並んでいるのをランチの帰りに発見して、「これを買って帰ったら、会社のみんなが三時の休憩の時に喜ぶかなぁ?」と言うのも、自分ではなく誰かを喜ばす幸せです。

    旅行の途中で市場を見学している時にズワイ蟹を見つけて、「これをステーキにしたら美味しいそうだから、プレゼントしたら喜ぶかな?」と思うのであればお世話になった人に送るのも、それは自分じゃなくて相手にした行いから沸き起こる自分の喜びです。

    食べ物を例にしましたが、別に食べ物じゃなくてもいいんです。 私はお客様が笑顔になって帰っていただけるのであれば、それはとても嬉しいことと心が元気になれるのです。 お客様が元気になっていただけるのは、それが私にとって一番の嬉しい出来事になります。

    私はモノが欲しいとか~イイ暮らしがしたいとか、何かが欲しい~何かがしたい、こう言う部分は他の方と比べてとても少ないと思います。 それは喜びの中に自己満足では得られない部分、「誰かが喜ぶと言うのが自分にとって幸せ」だと言うことが基本理念だからです。

    「儲け」と「幸せ」はとてもよく似ているのですが、商売と言うのは本当は景気に左右されるようなものではありません。 いくら不況だと言っても行列の出来るケーキ屋さんや予約の取りづらいレストランなどが本来の姿であり、不景気だと言っているのは努力していないと言うことと同義語でしかありえません。

    儲かると言うのは自分がしてきたことに対する証明であり、自分がしていることが正しかったと言う確認が儲けの正体です。 一時的に儲かるのはまぐれと言いますが、継続的に儲かるのは実力と言うのです。

    「儲かる為に犠牲を払い、儲かる為に成すべきことをする。」 これは簡単なように思えますが、人の心に潜んでいる怠け心は楽な方へ導いてくれるのです。 儲けと言うのは紛れもない実力であり、それを得る為に払った犠牲に比例すると言っても過言ではありません。

    儲けと言うのは誠に言い訳の聞かないシンプルなものであり、必要なことをきちんとしていれば必ず儲かるものなんです。 仕入れ値より売り値を高くすれば利益を確保でき、更にはお客様の数を増やせば売れる品数も違ってきます。 数が多く売れると言うことは儲けが増えると言うことであり、これは商売が誠に単純明快である証拠です。

    儲けだけではなく幸せも実は同じことであり、儲けの部分に幸せと言う言葉を当てはめて考えてみると、おのずと答えは弾き出されるのです。

    私は自分の実力査定が毎日行われていると思っているのですが、「予約が入らない」と言うのは「自分に何かが足り無い」と言うことです。 それは霊視能力かもしれないし、カウンセリング能力かもしれないし、接客態度や言葉使いかもしれないのです。

    このように自分に起きる出来事は、全て自分が過去にしてきたことの裏返しかもしれません。

    あなたは相手の幸せを、自分の幸せに感じることが出来ますか?

    (=´∇`=) ニャン♪

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