徒然草(占い・岡山・東京・霊視)

    あなたを元気にしたい、それが私の願いです。

    オーラの正体。

    おはようございます。 先日は出張の為、ブログをお休みしましたが今日から再開です。 月曜日なので仕事始めのお客様も多いと思いますが、今日もあなたは素敵なオーラが輝いているので、きっと素敵な週の始まりになると思います。

    さて、私もたまには霊視カウンセラー的なことを書いてみたいと思うのですが、「オーラ」と言うのをTVや雑誌などでもよく目にしますが、オーラ (aura)とは、物体(特に人間)が放出すると言われる雰囲気や霊気に属するモノのことを言います。

    「息」を意味するギリシア語の「アウラー (αύρα / aura)」に由来しており、英語としてはやや文語的な表現になっているようです。 一般的には、オーラは生命活動や精神活動をつかさどる超自然的なエネルギーである生体エネルギーが、体から放出されて体を取り巻いたものだとされているのですが、それに科学的根拠はないのが実情です。

    中国の気やインドのプラナなどと同一視することが多く、宗教画などに描かれる後光(ハロー)をオーラとみなすこともあります。

    科学的な用語を使うなら、微弱な電気エネルギーとか電磁場や光のエネルギーなどとされているようです。 私はオーラについて自分なりの見解を持っており、物理学者や大学教授に聞かれても説明できますが、それについては後半で説明したいと思います。

    なお、最近はエステやヒーリングサロンなど一部の店舗にてオーラ撮影と称するサービスが行われています。 全部が全部ではないのですが、アメリカの○○社製のオーラビデオステーションという機材が使われていることが多く、この機械は撮影に際して電極に触れて、人体内を流れる微弱な電気信号をコンピュータグラフィック処理しているのです。  簡単に言うと、「0.1Aなら赤~0.2Aなら緑~0.3Aなら青」と計算して合成写真を映し出す仕組みになっています。

    この写真に写る色は体内の電気抵抗により計算されたものであり、脂肪の量や細胞核の個人差などにより変わるので、すぐには変わりませんが体重が変化したり生活状態が変われば、体内の細胞が変わるので電気抵抗などが変わり色も変化してきますが、オーラが写るわけではありません。

    CCDカメラが付属しているので、いかにも人間の表面から発光しているように写るのですが、これはCGと実写の合成写真であり、人間の目に見えないオーラが撮影できるわけではありません。 実際問題として、CCDカメラにそのような性能があるはずもなく、その機械を製造している会社自体が明確にオーラ撮影できるとは説明していないのが微妙なところです。

    では、私が考えるオーラの正体は何なのかと問われれば、「バイオフォトン」ではないのかと考えています。 バイオフォトン(biophoton)とは、生命を意味するバイオ(bio)と光子を意味するフォトン(photon)を組み合わせた造語で厳密な定義はありません。 生物発光(bioluminescence)の中でも、非常に小さくて微弱な発光のことを指し示します。

    基本的に光は量子力学が教えるように、波の性質と粒子の性質を持っています。 人間が普通に光として認識する範囲内では電磁波としての性質が顕著だが、その強度が小さくなるにしたがって粒子(フォトン)としての性質が顕わになります。

    このように弱い光に対して高感度光検出器である光電子増倍管を用いると、フォトン1個に対応した電流パルスが観測され、それによってフォトンの数として光の強度が測定されるもので、この光計測法はフォトンカウンティング法と呼ばれて、現時点では最も高感度な光計測法です。

    このように、バイオフォトンは粒子として観測されるほど光の強度が小さいということを意味する用語で、通常は冷却された光電子増倍管やCCDイメージセンサなどの超高感度測定器を必要として、肉眼で観測することは出来ません。 

    一般的な生物発光では、肉眼で観測できるホタルや夜光虫などがいて、その強度はフォトンとして観測される場合より数桁も大きく、強すぎるのでバイオフォトンとは呼べません。

    今の時点でバイオフォトンと呼ばれている発光が確認されたのは、1960年代の光電子増倍管の発明以降で、光電子増倍管によりあらゆる生物のあらゆる器官からフォトンとして観測されるほど弱い光が恒常的に観測されることが知られるようになったのです。

    その後はヨーロッパや日本の研究グループが多くの研究を行っており、日本では当時の科学技術庁特殊法人である新技術事業団が、稲場文男東北大教授を中心として行った稲場生物フォトンプロジェクト(1986年~1991年)が有名です。

    現在でも世界中で数十の研究グループが研究を行っていて、バイオフォトンは細胞呼吸の酸化還元反応など、生体の基礎的代謝に関わっているので医療や生命科学や農業分野などで利用が可能だと考えられています。

    バイオフォトンに関与する生化学反応は、主にミトコンドリアにおける細胞呼吸などの酸化還元反応と言われており、そこで生じるエネルギーの中でフォトンとして放出されるのはごく僅かです。 これは関与する分子のうち比較的高いエネルギーを持った後に、そのエネルギーを光として放出する分子が確率的に少なくて、ほとんどの分子は生化学反応を通して生理活動を行った後に熱となってエネルギーを放出するからです。

    また、バイオフォトンと呼べるほど強度が小さくない場合、一般的な意味で「生物発光」と言う方が正しいかもしれません。 (ホタルや夜光虫など)

    つまり、非常に弱い生物発光と呼べないバイオフォトンがいくつも重なることにより、色をかもし出すのではないのかと考えております。

    これが私なりのオーラに対する見解で、私がお客様のオーラを見てもまぶしいほどの光ではありません。 肉体から5センチ~15センチくらいであり、身体の表面をわずかにおおっている状態がほとんどです。 映画やTVのようにオーラが出ていたら、オーラが見えると言う人は街を歩くことも出来ないし、人が大勢いるところでは余りにも多くの色彩情報が脳に伝達されてしまい、異常反応を起こして脳が破壊されてしまいます。

    あなたはオーラについて、どのように感じていましたか?

    ( ^o^)ノ"☆ノ^-^)ノ ヒカッテルゥ~!

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    稲穂。

    いつであろうとも~誰であろうとも、心が叫ぶ時と言うのは「結果が出なかった時」 これが一番色々なことを叫びたい瞬間だと思います。 どうして~なんで~せっかくしたのに、言い方は色々あるでしょうが、自分がしたことに対して結果が伴わないのが、一番悔しかったり辛かったりすると思います。

    最後までやり遂げたのに結果が出ないと言うのは、苦しみを倍増させるかもしれないけれど、それであきらめるようではそれだけのことだったんです。 努力は無駄にはならないと言うのは嘘ではなく、あることについては出来なかったけれど、他のことについてはその時の経験や知識や技術を生かすことが出来た。 その時がくるまでホンの少しだけ貯めておくだけであり、いつかは使うことになるのです。

    稲を見てみるとよくわかるのですが、小さな種から苗になり~そこから大きく成長して稲になります。 しかし、お米が出来るのはその先にホンの少しだけであり、地中から地面までの根~地面から穂先までのワラとなる部分、これらは穂先のお米が出来る為にあるのです。

    お米を収穫してしまえば、もうワラの部分は使うことはありません。 昔であれば草履や畳に使っていたのですが、現代ではそれに使うことも少なくなりました。 しかし、利用できないからと言って~捨てる部分だからと言って、それが無ければお米は出来ません。

    これは、夢を追いかける時の努力に似ていると思うのですが、地中の根っこの時には暗くて先も見えず腐ったり、やる気をなくしてしまうかもしれない。 そしてようやく地面に出ることが出来ても長い時間を掛けて実がなるまでの間、水を吸い上げて穂先に水分を届けるだけの毎日です。 しかし、同じことの繰り返しだと思っていたことが、いつのまにか立派なお米になっているのですが、それは気付かない日々の動きが立派な稲穂になるのです。

    どうせ台風で倒れるから~どうせ害虫にやられてしまうから、こうやってあきらめてしまうのは人間だけで、稲はそんなことはお構いなしに自分がするべきことをして、実をならせるのです。

    多大なる努力をしても、ホンの少しにしかならないかもしれない。 しかし、目に見えるホンの少しの為には、見えない部分がものすごく必要なのです。 途中であきらめると言うのは、目に見えない部分において疑いを持つことになり、それは自分の考えを否定することになるのです。

    お米が古代より品種改良しながらも延々と続いてきたのは、ホンの一粒の為に全身全霊をかけるからこそ美味しいお米になると思うのです。

    あなたの見えない努力は、あなたの見える成功を支えているのです。 あなたがくれた奇跡は私の心にいつでも届いていますし、あなたの奇跡の始まりに立ち会える私は幸せだと思います。

    奇跡を起こせる人と言うのは、必ずある現象が起きます。 それは、奇跡を起こせる人の前に道は無くて、奇跡を起こせる人の後ろにしか道は無いのです。 これは当たり前のことですが、奇跡を起こせるあなたがするべきことは他の誰もできません。 つまり、あなた以外は出来ないのだから、道を作るのはあなたがやるべきことなのです。

    あなたが先駆者として、後ろに続く人達の為に道を作り上げると言う行為が、奇跡を起こせる人の絶対条件なのです。

    誰しも最初の一歩を踏み出すのは勇気がいることだし、その一歩の為に色々な物を犠牲にしなくてはいけない場合もあると思います。 しかし、あなたがその一歩を踏み出さなければ、今までと同じ場所にいるしかないのです。 同じ場所にいると言うことは、過去の繰り返しが未来で待つだけであり、何かが出来るのに~何も出来ない状態で過ごす人生になるのです。

    あなたは運が良い人であり、才能や実力も備わっています。 ただ、その活かし方を知らなかったり、使う勇気が無いだけなのかもしれないのです。 優しいあなたにはいつでも幸運が微笑んでいるのですが、幸運に対して人見知りする必要はないのです。

    私は運が良いあなたの才能が開花する瞬間に立ち会えることが、人生においての喜びになっています。 あなたが運が良い人生で笑顔のままで過ごしていけるのは、あなた自身がコントロールできることなのです。

    私は良いことしか言わないのが基本ですが、それは悪いことを言ってしまうのが人の守りの部分であり自然な本能だからです。 上手くいかない時の為に悪いことを想定してしまうので、それを止めることは脳の動きを止めるに等しいので不可能です。 ならば、少しでも前向きなことをお話しするようにしておかないと、いつの間にか暗い話ばかりになるかもしれないのです。

    ピンチはチャンスであり、ピンチはきっかけを与えてくれる運命の後押しでもあるのです。

    あなたは自分の才能を開花させる為に、前向きになることができますか?

    ヽ(^0^)/ワーイ((^。^)) エム ((^ε^)/シー


    お知らせ:出張の為PCが使えないので、ブログの更新は30日(月)より再開いたします。 いつも御覧いただき、本当にありがとうございます。 m(__)m

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    満点を目指さない。

    満点を目指さない生き方、これができれば人生の重荷は少し減るのですが、人はつい誰かと張り合ってしまうのです。 神仏や教えと言う点で例えられるのに、無の境地と言う言葉が多いのは、人の心に渦巻く欲望(煩悩)を消し去るのが難しいからです。

    そういう私自身も人のことは言えないくらいミエを張りたかったし、人に対して優越感を持ちたかったという思いがありました。

    人に対して有利なことがあればいじめられないと言う点もあったのでしょうが、ようは自慢したかっただけなのかもしれません。 私自身も昔は欲の塊で、欲しい~欲しいの連続だったのかもしれません。 情けないけれど、昔の私の周りにいる人達は、私自身の行いが引き寄せていただけだと反省しています。

    いくら満点を目指した所で、自分だけと言う狭い世界で生きていれば別ですが、この広い世間(地球上)ではいくらでも上がいるのです。 上には上がいるなぁ~と言うのを自然に理解して受け入れることが出来れば、素直に相手のことを称えることができます。

    称えると言うのは相手を認めることであり、例えばN市のIさんのボランティアに関する考え方や行動力、これは素晴らしいと思います。 寄付の神様がしている慈善活動にいたっては、ちょっとレベルが違いすぎて目標にすることすら難しいです。

    このお二人と同じことは無理にしても、満点を目指さずにできる範囲で少しづつと言うのが長くできる秘訣だと思うのです。 満点を目指す生き方では、いつもいつも上を目指すと言うことになります。 しかし、常に満点と言うのは不可能であり、満点でない時に築き上げて来た何かが、音を立てて崩れてしまうと緊張の糸が切れてしまうかもしれないのです。

    完璧な自分を作り上げるのはいいけれど、その完璧さが仇になり自分を追い詰めるのはよくありません。 仕事をする上で重要なのは自分ひとりで仕事をこなすことができることではなく、仕事をきちんと完了させることなのです。

    いくら仕事ができてもひとりでできることはタカが知れていて、周りの協力と言うのが必要になります。 その時に助けてくれる人が多ければ多いほど、仕事はスムーズにできるのです。 仕事がスムーズに流れると言うことは余裕が生まれることであり、余裕が生まれると言うことは仕事が完璧に近付くと言うことなのです。

    その為にも等身大の自分を周りに表現することができれば、それだけのことで次々に協力を得られる運命に足を踏み入れることになります。

    等身大の自分と言うのは、難しく考えなくても弱みを相手に見せることと考えてもいいんです。 弱みを見せると言うのは秘密を全部さらけ出せと言うのではなく、自分の中で直したいと思う部分をさらけ出せばいいのです。 人にはなくて七癖と言うことわざがあるくらい、自分で直したいけれど直せない部分があります。

    そんなに大袈裟なことは言わなくてもいいので、「気が弱い」「ヒトコト多い」など、日頃から思っている悪い癖、それを「どうも私は気が弱いので、思ったことが言えなくて…。」 このように表現して使えば、相手も「じゃあ、いじめてやろう」なんてことは思いません。 (仮に~万が一にも思うような人がいれば、そんな人を相手にしてはいけません。)

    弱みをさらけ出すと言うのは「相手を信頼していると言うこと」であり、信頼されて気分の悪くなる人はいないのです。 そのような弱みを相談されていると言うことは、相手を特別に信頼していることでもあり、そう思われて粋に感じないような人は余りいないのです。

    打ち明けられて~信頼されて~特別扱いされて、それで相手のことを助けたいと思わないようでは、心に何かが足りないのかもしれません。 親しい間柄や親友と呼べるのならば、お互いのことが理解できて弱い部分をわかりあえていると言うことになるのです。 ただし、いくつか注意しないと人間関係が逆に壊れかねない点があります。

    それは、他の人に言わないと言うのがひとつめです。 せっかく自分だけに打ち明けてくれた話を他の誰かに話すようでは、相手の信頼を裏切ることに他ならないのです。

    そして最も注意すべき点は、自分がその弱みを利用しないと言うことです。 相手が打ち明けてくれた弱みを逆手に取り、「あなたの弱い部分を知っているのよ」というそぶりを見せない配慮が必要です。 以前と変わらぬ知らないフリができてこそ、品格(気品)溢れる行動ができるのです。

    満点を目指していると自分のことしか考えられなくなり、それがやがて私利私欲の範疇に入ってくると自己保身だけを考えて一人ぼっちになってしまうのです。 しかし、満点を目指さずに協力を得ながら、誰かと共にやり遂げることを目指したなら、人生は楽しくなると思うのです。

    あなたは満点を目指す余りに、周りが見えなくなっていませんか?

    ( ̄。 ̄)ボーーォ

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    根拠。

    おはようございます。 今日は曇り空ですが、それはあくまで天気のことであり、あなたの心は晴天のごとく晴れ晴れとした素敵な気分で、今日も素晴らしい一日になると、私は信じています。

    「じゃあ、その根拠は?」と聞かれても、根拠はありません。 しかし、私と縁がある人が不幸せになるなんてありえないし、私と縁がある人は成功や幸運を手に入れる道を歩き続けていただきたいと、私は毎日そう願っているのです。

    これは誰しも同じことですが、自分の未来を思い描く時に根拠は必要ないのです。 それは逆説的な意味もありますが、未来における行動に根拠があるならそれはもう叶っていると言う、過去の出来事でしかありえないのです。

    冷静に考えてみると「未来でこうなったらイイなぁ~?」と、夢を思い描いている時と夢が叶った時の満足度では、差が歴然としています。 夢が叶った時の方が喜びが大きいと思うでしょうが、夢に向かって努力している時の方が断然楽しいし、ワクワク感やドキドキ感が発生してきます。

    そして夢を叶えた時点で、次は何をするかと言う夢探しが楽しくなってきます。 つまり、本当に楽しいのは夢を持っているけれど叶っていなくて、それを叶える為には何をすればいいのかと言う、夢探しが一番ドキドキしてくるのです。

    この日本とか世界などの単位で一番と言うのは、何かを制限しない限りは難しいです。

    私が霊視で一番かと言えばそんなことは無く、やはりTVや雑誌にバンバン出ているような人には知名度で負けています。 無制限の状態で一番と言うのはかなり難しいのですが、制限したなら即一番になれます。 しかし、制限を加えた時点で自己満足の世界に入るので、自分が一番と言うのは根拠も自信もないのが普通なのです。

    同じ根拠がないことならば「自分の夢に疑いを持つ」のも止めにすれば、叶う可能性が常に残ります。

    あなたの未来と言うのは、例えるものが無いくらい大きなものです。 それは何故かと言えば、可能性と言うのは常に広がり続けるので、箱に収まるような固定されたものではないからです。 自分がやりたいと思えばできるし~自分ができないと思えばできない、これが夢の本質なのです。

    あなたが楽しまなければ、その夢はもう夢ではなく単なる惰性になっているかもしれません。

    運の良い人に聞いてみると、ほぼ同じ答えが返ってくる質問があります。 それは運の良い人に、今のようになれたことや未来の夢を叶える為の「状況や手順や手法」などを聞いた時の答えです。 返ってくる答えは、「たまたま~」とか「ついているから~」などと、根拠の無い答えばかりです。 しかし、これは根拠は無いけれど、自然とそうなるのです。

    逆に言うならば、根拠なんか無くても「多分、こうなる!」と、根拠無しに夢を思い描いておけばいいのです。 物事が起きるのをイチイチ解説付きで、「ああなれば~こうなるから~こうしておけば~」などと計算していても、思い通りに行かないのが人生なのです。

    私も根拠無しに行動しているのですが、その根底にあるのは「運命がそんなことをするはずが無い」と言う根拠の無い考え方だけです。 例を出すと、「私が乗る飛行機は落ちない」とか、「私が東京にいる時に地震は起きない」などと根拠は無いけれど、不幸な出来事の方が私を避けていくのを当たり前だと思っています。

    最近で言うと、6月15日の日曜日は東京出張の為に東京にいたのですが、この日程を決めたのは理由も何も無いのです。 ところが、もしも8日の日曜日だったら「東北地震と秋葉原の事件」がダブルでありました。 霊視がどうのこうのと言うのではなく、運命が私を危険な目には遭わせないと思っているのです。

    だからこそ私が行く場所や時間には災害や事件は起きないと言う、根拠のない運命の後押しがあると思っています。 (笑)

    もうひとつ運の良い人に共通しているのは、助けてくれると言うか~支えてくれる人がいると言う点です。

    人は誰しもひとりでは生きていけないのですが、調子の良い時にはツイツイひとりでも生きていけるくらいに、天狗になってしまうことが多々あります。 いつでもどこでも「○○さんのおかげです。」と頭や心に刻み込んでおけば、人の心に記憶として残るのではなく感動として残るのです。

    もしもあなたが誰かに感動を受けたなら、それは何かをしてあげたいと思うかもしれません。 記憶としてなら「しないかもしれない」ことを、感動ならば「してあげたく」なるのです。

    愚痴を言わずに自分が楽しいと思えることを、わき目も振らず一生懸命にしている。 こんな人がいたなら魅力的に見えるし、自分がそういう状態ならばワクワクドキドキしながら人生を過ごせていると思うのです。

    根拠や自信はなくてもいいから、まずは夢物語を創作してみることです。 根拠や自信を探していたら、人生は短すぎて時間が足りなくなってしまいます。

    あなたは根拠を求めて、限りある時間を失っていませんか?

    ドモ~♪ヽ(^-^ )

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    タイミング。

    人が生きている意味と言うのはよくある質問ですが、その前に何故?今と言う時代に生きているのかを考えるのも必要だと思うのです。 何故2008年の時点で「25歳なのか?」とか「32歳なのか?」など、生きているタイミングのことは誰も考えないのです。

    あなたが生きているのは、あなたがこの世に生まれるべきタイミングで~生まれるべき場所に、ちょうど良いからこそ誕生したと考えると人生が楽しくなります。

    人類の歴史は地球誕生に比べると数万年しかないので短いですが、人類の誕生から現代までの歴史を考えるとそんなに短くもないのです。 しかし、アダムとイブが林檎を食べた太古の昔から現代までに、何度生まれるチャンスがあったかわからないのに21世紀と言う時間の流れに身を任せています。

    もしかしたら、江戸時代の飢饉の真っ最中に生まれていたかもしれない。
    もしかしたら、21世紀だけどエチオピアで奴隷として生まれていたかもしれない。
    もしかしたら、いつどこで生まれても何かが足りないと満足できないかもしれない

    移ろい行く心の中にある悩みと言うのは自分が作り出すだけであり、それは不幸せなことではなく転機だと考えることが、より素晴らしい未来への架け橋として存在しているのかもしれないのです。

    あなたが今このブログを読めると言うことは、あなたがこの時代に何かの必要性があって生まれてきたからこそなのです。

    お腹が一杯の時に「食事に行く気」には、なりません。
    疲れている時に「スポーツをする気」には、なりません。
    結婚している時に「恋愛をする気」には、なるかもしれない…。←It is a Joke !!

    あなたが今と言う時の流れにかかわっていると言うのは、何かできることがあるからなのです。 神様じゃないので、それがわからなくてもいいんですが、わからないからと言って何もしないのが一番問題です。

    日本に生まれてきたのはチャンスですが、その中でもPCや携帯など文明の利器が使い放題の時代で何もできないと言うのは、自分が行動していないことの裏返しにもなるのです。

    例えば、ジュエリーショップを覘いてみると、そこには光り輝くダイヤモンドが展示してあります。 しかし、輝くダイヤモンドであっても、原石のままでは見向きもされません。 磨き上げることで光り輝き、そしてそれに伴うカットや装飾が施されているからこそ、人はその輝きに目を奪われるのです。

    あなたはダイヤモンドの原石ですが、まず原石の状態から磨かれるべき位置に来て、そして色々な形に磨かれていかなければならないのです。 当然のことですが磨かれている間は辛かったり苦しかったりするのですが、その先にある輝きの為には通り抜けないといけない時間なのです。

    そして磨き終わっても、今度はそれに似合う装飾を施されないとダイヤモンドだけの単体では、リングにもネックレスにもピアスにもならないのです。 輝ける準備が整っていても然るべき場所に留まれないようでは、その輝きは一瞬で終わってしまうのです。

    今の日本に生まれてきて幸せだと感じ取れないのなら、どのような状態になれば幸せだと感じれるのかと言えば、「目の前に次々と出てくることが全て叶うなら幸せ」と言う結論に落ち着くと思います。

    団塊の世代の人を例に取ると一目瞭然で、腰が痛いとか~肩が痛いなどのからだの不調がなくなれば幸せと言いつつ、それが無くなれば「子供が○○になれば~」とか「孫が□□になれば~」などと、次から次へと欲求が出てきてキリが無いと思います。

    お年寄りの方は少し考えないといけないのですが、もしもあなたが老眼鏡を掛けるようになったとします。 今までメガネが不要だったのに、老眼鏡を掛けないと近くの物が見えにくくなったと不満を口にするかもしれません。 しかし、それは私利私欲の考え方だから、老眼鏡を掛けることについてアレヤ~コレヤと文句を言うのです。

    何故、老眼鏡を掛けるような歳まで元気で健康で生きてこられたと、「感謝をしないのですか?」と私は聞きたいのです。

    人生には色々な出来事があり、交通事故や病気や災害など森羅万象を乗り越えてきて今と言う時間を過ごしているのを、いつまで経っても気付かずに不平不満を言っているのが日本の現実なのです。 日本にいるから当たり前に感じているかもしれませんが、歳を取ると言うのは日本では当たり前でも、世界では当たり前どころか奇跡に近いのです。

    歳を取るのは健康でありさえすればいいのですが、歳を重ねるのは知識と経験を活かすことができる人のみが味わえる、極上の美酒と言うことに気付けないのは悲しいことなのです。

    あなたは今と言うベストタイミングで生まれてきたことを、活かせていますか?

    o(@^‐^@)O ワクワク

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    国際結婚。

    おはようございます。 日曜日は名古屋出張だったので、ここ2日間はブログをお休みさせていただきました。 鑑定の方は昨日の午後より再開しておりますので、素敵なお客様にお会いできることをワクワクしながらお待ちいたしております。

    なお、日曜日の名古屋駅では何故か外国の人が大勢いましたが~警察官の方も大勢いたので、秋葉原の余波か~もしくは何かあったのかと思うくらいでした。 日本も外国の人が増えてきたせいか国際結婚の御相談も増えてきたので、少し国際結婚について書いてみたいと思います。

    基本的に国際結婚とは異なった出身国の人同士での結婚を言います。 日本人を中心に解説しますが、国際結婚をした外国人は外国籍を有し続ける場合と帰化する場合の選択をします。 結婚によって特別帰化(簡易帰化)が許可されれば、居住要件の緩和や20歳未満での帰化などが可能になります。

    国際結婚は明治時代からあって、作家の小泉八雲などがそうです。 近年で言うと1980年代以後のバブル期に円高の追い風で海外に出かける日本人が急増して、その結果~外国人との結婚に対して心理的な障壁を感じない日本人が多くなった感じです。 また、同時期に結婚を望むが適わない男性が多数生じるという、男性過剰現象が起きたことも原因として挙げられています。

    特に東北地方などで農業を営む独身男性に取って深刻な事態となり、結婚相手の不足がマスメディアで報じられるようになって嫁不足と言われました。 この時に結婚相手を日本よりも経済的に低い状態にある他国へ求める動きが活発となり、主に中国やフィリピンなどでお見合いツアーが開かれました。 1990年代以後はバブルも収まりましたが国際結婚は日本社会に定着しており、近年も増加しているようです。

    なお、国際結婚の相手となる国を順番に言うと、夫が日本人の場合は、フィリピン~中国~韓国&北朝鮮~タイ~ブラジル~アメリカ~ペルー~イギリスとなっています。 妻が日本人の場合は、韓国&北朝鮮~アメリカ~中国~イギリス~ブラジル~フィリピン~ペルー~タイとなっています。

    国際結婚の日本における現状として、日本人と外国人が結婚した場合は住民票に外国籍の配偶者や子ども(日本国籍との重国籍の場合を除く)が記載されません。 簡単に言うと同一世帯に属することを証する書類が存在しない、と言うような問題があります。

    また、手続きの複雑さや面倒さは日本とは比較になりません。 相手の国の役所や~相手国の在日大使館や総領事館との手続き、それに加えて日本と相手国の発行&証明する各種書類(婚姻要件具備証明書など)の準備、さらには地方入国管理局への在留資格の変更手続きなど、煩雑かつ多くの手続き作業が必要となります。 手続き完了までに数ヶ月以上要するケースも多いので、仲が悪いと手続き終了までに離婚するケースもあります。

    日本人の国際結婚の特徴として夫が日本人であるカップルの絶対数が非常に多く、国際的にも妻が夫の国籍に入ることが多いようです。

    レディファーストは人間性の問題であり、国や人種によるものではないと私はここで度々取り上げていますが、外国人男性と結婚した日本人女性は収入以外にも色々なものと戦わなくてはなりません。 DVや習慣や風習の違いや言語に人付き合いと、さまざまなことに自分が合わせる努力が必要です。

    それに合わせられないことにより起こる国際結婚における離婚率の高さは、近年で言うと約43%くらいの離婚率です。

    国際結婚は上手くいかないわけではなく仲良く過ごしている方もいるので、一概に国際結婚が難しいと言わなくてもいいのですが、上手くいっているケースは日本で暮らしてどちらも経済力があると言うような、両方が似た状態にある夫婦と言う場合が多いようです。

    余りに生活条件や環境が違うと、それはお互いに無理をするようになるので上手くいきようがないのです。 最初は耐えられるのですが、永遠に耐えられるわけではなく破綻する時が結婚生活の終わりになります。

    日本人は日本人と結婚するのが一番などと言うつもりはなく、国際結婚に関しての認識を深めておいてから結婚しないと、離婚してしまう可能性が高いということを知っておいて欲しいのです。

    外国人男性に対しての幻想と言うのは、あくまで映画やドラマが作ったものであり、日本人男性より酷い面もあることを充分わかった上で結婚しないと、「こんなはずじゃ…?」と言うような事態に陥ってしまいます。 先進国であろうと途上国であろうと、国際結婚の場合は相手だけを見るのではなく、その国の風習や言語などの歴史を学ばないと、結婚のヒトコトでは済まされない、奥深い部分があるのです。

    結婚とは自分自身がするものであり、国籍や収入や学歴や家柄などとするモノではありません。

    あなたは好きな人と結婚したい、心からそう願っていますか?

    ☆⌒(*^∇゜)v ありがとう!

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    好きな人。

    好きな人。

    言葉で書くとヒトコトだけれど、心に残る忘れられない人と言うのは大切な想い出でもあります。 しかし、想い出である以上は後戻りするわけには行かないのが、想い出たる所以でもあるのです。

    好きだった時には、いつも一緒にいるのが当たり前。 当たり前だから相手に対して気遣うことがなくなり、付き合う期間が長くなればなるほどおもいやりが忘れ去られていくようになります。 忘れていくということは、相手の気持ちが理解できていないのにわかっているつもりになることです。

    愛する気持ちの時は、ナニモノにも変えられなくらい大切な人。 それが、やがて愛されるのが当たり前になって、相手が自分を好きなのは当たり前だし~いつも一緒にいるのは当たり前と言う当たり前の積み重ねが、自分勝手と言う当たり前の行為に気が付かなくなっていくのです。

    いつも愛されていると感じられた時には、相手に対して愛するということを忘れている時だと、本当は気付かないといけないのです。

    恋愛が上手くいかない人には、何故か不思議な共通点があるのです。 しかし、その共通点を改善できる人は、最初からそれに対して気が付いている。 だけど、改善できない人には、それが駄目な恋だと言うことすらわからないのが残念な所なのです。

    最初に好きになった時は、どうしても付き合いたいと思った。
    付き合い始めたら、自分の言うことは何でも受け入れられると思った。
    別れを言われたら、何で別れなきゃいけないのと思った。

    人の心は移ろいやすいものだけれど、それは自分の心だけじゃなく相手の心も移ろいやすいと言うことに、人はいつしか気付かなくなっていくのです。 どうして~どうして~どうして、どうしてを言い続けていると、いつの間にか彼の気持ちは離れていくし、別れと言う最初で最後に瞬間に反省しても時の流れは戻らないのです。

    愛されている幸せを感じているだけならいいのだけれど、愛することを忘れてしまいひとりよがりな恋になってしまうと、それはもはや大人の恋ではないのです。

    恋愛とは二つの文字からできているのですが、この意味を考えてみたことがある人は余りいないと思うのです。

    恋とは、気付いてもらうことに意味があります。
    愛とは、気付いてもらわなくても意味があるのです。

    恋する気持ちは相手にも気付いてもらい、それを相手に受け止めてもらうことで自分の気持ちがより一層の盛り上がりを見せるのです。 いつも一緒にいたいとか、メールや電話を欠かさないでとか、休みの日にはどこへ行こうかなど、自分と彼の行動や付き合いを考えるのが恋なのです。

    しかし、恋は常に自分が主体であり、相手の存在は後から付いてくるのを忘れがちです。

    愛する気持ちは誰にも気付いてもらえずに自分が見つめるだけで終わる時もあるし、伝えても成就せずに無理な場合だってあります。 それでも好きな人の幸せを願い、自分だけの気持ちではなく相手のことを想い続けることで、自分の気持ちを再確認できると言うのも素敵な愛だと思うのです。

    恋とは、キャッチボールのように投げた想いを受け止めて~投げ返してくれたら、そこで初めて満足すると言う部分があります。 しかし、愛する気持ちと言うのは、投げた想いを受け止めてもらえなくても~投げ返してもらえなくても、決して忘れずに絆があるのだと信じ続けることだと思うのです。

    雨が降ったら気持ちが沈んでしまう人でも、雨上がりに虹が出たら「キレイ・・・。」 そう思える気持ちこそが、あなたの未来を素敵にしてくれると思うのです。 好きな人に振られたり、好きな人に別れを告げられたら、それはとても悲しい気持ちになると思います。

    しかし、それはもう戻れない道に足を踏み入れた瞬間なのだから、迷いこんでしまった自分がどう進めばいいのか、早く気持ちを取り戻さないと辛い思いをする人が増えていくのです。

    ヨリを戻したいと考えた時に、そのヨリが戻ることで誰かを不幸にするのなら、それは良い答えではないのかもしれません。 好きな人と一緒にいたいと言う気持ちに嘘はなくても、今度こそはずっと好きでいると言う気持ちに嘘はないのかと、自分自身に質問してみて出た答えこそが、これからの未来を暗示してくれると思うのです。

    あなたにとって好きな人とは、本当に心から好きな人ですか?

    (’_’、)ホロリ


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    ひとりでも。

    心の中で思い描くことは、やりたいことやできたらいいなと言う夢や希望に他なりません。

    しかし、自分が期待していた状態にならない時には、誰であろうと凹んでしまうのは仕方がありません。 好きな人にふられてしまった時や営業の当てが外れて断られた時など、自分の頭の中で思い描いていたことが起こらない時に人は落胆してしまうのです。

    ただし、このイメージと言うのは自分が作り出したものであり、うまくいくと言う前提で物事をするから落胆するだけなのかもしれません。

    自分の頭の中にある固定観念を覆すのは難しいのですが、それは自分がどうするかと言う点で楽な方へ進もうとする意識があるからです。 人の行動と言うのは、まず頭の中でイメージしてからでないと動けません。 これは人が人である証明なので、脳の働きから起こりうる行動としては正解です。

    人間である以上は、知らず知らずのうちに自分なりの規準や固定観念を作り上げていて、それに従い行動していることを「殻を打ち破れない」と言うのです。 自分の世界から飛び出せずに、今まで通りの行動をしていると過去の人生をトレースするだけになります。

    昔に比べると生活が向上したのに、それに満足できないで不平を言うのも、頭の中にある理想ができていないからになります。

    例えば、飛行機で旅行する時に、飛ばなくて中止になるとか~日程に狂いが生じると、この旅行は最悪だったと言う点にしか目が行かなくなります。 しかし、飛行機と言うのは空中に浮かぶモノである以上、天候などの理由で飛ばなくなるのは当たり前であり、無理して飛んで事故を起こしたりすると、きちんと運行したばかりに事故になったと言う逆の現象すら起きてきます。

    評価と事実は似ているけれど別モノなのに比べてしまうから、目の前のことに考え違いを起こしやすいのです。

    飛行機が飛ばないというのは事実であるけれど、そのために事故を起こさずに全員が無事だったと言うのは評価に値するのです。 難しい言葉で言うなら、「前提条件における再評価」と言う言葉が、これに当てはまるのです。 自分の日程や時間を優先するから飛ばない飛行機にイライラするのですが、事故を起こさない方が大切だと思えば飛ばないで生きていられることに感謝するようになります。

    私自身も反省しなければならないのですが、人は有利な立場や満たされた状態になると、恵まれた環境を当たり前に思い、今の状態が維持できないことに不満を感じ始めるのです。 今まではできるだけでありがたく感じていたことができて当たり前になると、今をキープしつつ更に良い状態で無いと不満に思い始めるのが私利私欲の部分なのです。

    私が霊視カウンセリングを始めた時には、お客様が来ない日々がずっと続きました。 来る日も来る日もゼロ更新で、月曜の朝から翌週の火曜の朝まで8日間誰一人来ない時だってありました。 しかし、無名の私のところへお客様が最初からそんなに来るわけがないので、凹むよりも自分磨きをする方が先なのです。

    私はお客様が来てくださること自体が奇跡だと思っているので、一人でも感謝感激であり~嬉しくて嬉しくて仕方がないくらいです。

    この日本には数多くの占い師の方がいて、有名で人気のある先生方も大勢いるのに、名も無き私に予約を入れてくださる、これは奇跡に等しいので人数なんて関係ないのです。 お越しくださる全てのお客様が心晴れ晴れとなるのならば、それだけで私はとても嬉しくなるのです。

    色々と不平不満を言う人もいるかもしれませんが、私にとっては「一人でも来て下さると言うミラクル」は、涙が出るくらいありがたいことなのです。

    利益がどうのこうのと言う占い師さんなら「赤字なことはやらない」と言うのが基本ですが、損得勘定ではなく心で動いていればやれるはずなのです。 倉敷事務所でもそうですが出張鑑定も同じであり、東京でも~名古屋でも~広島でも~福岡でも、一人しか来ないではなく「一人も来て下さった!」と言う気持ちで、お客様がお越しくださるのをドキドキワクワクしながらお迎えしているのです。

    人生にはホンの少しのことで色々な場面における姿勢の差が出てくるのですが、「一人でも」と「一人しか」のどちらが最後につくかで言い方や思い方にも差が出てきます。

    お客様が来てくれるのが当たり前とか~企画が成功すれば評価されるのが当たり前など、何か行動を起こした時には自分の思い描いた通りになると言う部分を少し押さえて、
    上手くいかなくても次があるとか~評価されなくてもチャンスはもらえたなど、今の状態をプラスに転じるように考える方が運命も味方してくれると思うのです。

    悪いことを考えないと言うのは幸運を招き入れるひとつの方法ですが、悪いことばかり考えていると悪いことが起こるのを当たり前に感じてしまいます。 そうなると悪いことが起こるのが普通になり、どうして運が悪いんだろうと嘆いてしまうようになります。

    運命と向き合った時にお互い沈黙してしまうのではなく、雄弁に語り合うことができるようにしておかなければ、運命の方もあなたの気持ちがわからないと思うのです。

    あなたは悪いイメージを作り出して、それを受け入れて不運だと感じていませんか?

    どうもです (' - ' *)ゞカキカキ

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    キャンバス。

    仕事だけではないのですが、人生においても欲を出すと失敗することがあります。 つい、気を抜いてしまったりとか~手を抜いてしまったりとか、思わないところでミスをしでかしてしまうことにより、事態が取り返しのつかないことなったりします。

    人である以上はミスをするのは仕方がないのですが、そのミスを補うとか~次はミスしないようにとか、自分のしたことを省みるのは大切だと思うのです。 損して得取れということわざがあるように、目の前にあることを100%ではなく120%することにより戻ってくるのは、「+20%」だけのことではなくもっと尊いモノなのです。

    欲を出したばかりに損してしまったと言うのは誰しもあるのですが、一番大事なのは繰り返さないことなのです。 私自身も昔は欲の塊でしたから、目先のことばかり言っていたのでお恥ずかしい限りです。 そんな自己反省を含めて、欲を出せば損をすると言うお話をしてみたいと思います。

    ある男性のお話ですが、仮にAさんとします。

    Aさんはバンドを組んでいて、大学を卒業しても就職せずにバンド活動をしていました。 しかし、すぐに売れるわけではないし食べてもいけなくなったので、卒業して3年ほどしてガソリンスタンド(GS)でアルバイトを始めました。 個人経営のお店なので大手に比べると、そんなに時給は出せないけれどAさんが来てくれたことを社長は喜んでいました。

    そしてアルバイトを始めて半年ほど経った時に、バンドのメンバーと居酒屋で飲んでいたAさんは仲間よりある話を聞きました。 それは「アルバイトでも残業の時には、時給を割り増ししないと労働基準法に違反している。」と言う話です。

    Aさんは自宅に帰ってから、すぐに自分の過去半年分の給料明細を見て計算しました。 Aさんの勤務は基本的には「週に5日間勤務で労働時間は朝9時から5時まで」なのですが、毎日2時間の残業がありました。 そして計算してみると、残業の2時間分に関しては割り増ししておらず、通常と同じ時給で計算してありました。

    Aさんは早速、「社長、俺の給料は~。」と仲間より聞いた話を元に、残業代の割り増し分を支払ってくれと言いました。 社長は寝耳に水だったのですが、Aさんの要求通りに支払いました。 ただし、社長も支払う代わりに、Aさんにはもうこなくていいと言う解雇通知をしました。 Aさんは「いきなり辞めろなんて、なんてひどい社長だ!」と、今度は不当解雇で社長を告訴したのです。

    なお、Aさんは26歳の男性で資格を何ひとつ持っておらず、車の免許もないので配達は無しでGS内における給油と洗車のみが仕事でした。 社長の言い分としては、そんなに大変な仕事を押し付けていたわけでもなく、しっかりと給料は出していたつもりだったのですが、割り増しをしていなかったのは確かに違反行為です。

    ただ、Aさんの給料は「毎月の手取りが約28万円」と言う支給額なので、Aさんが主張する「安い給料でこき使われた」と言うのは理不尽だと思います。 社長側の言い分としては、せっかく縁あって来てくれたんだから精一杯出そうと言う気持ちで、この金額だったのですが~その思いがAさんには伝わらなかったのです。

    Aさんは今も社長を告訴したまま、裁判所の和解案も拒否して自分の権利を主張しています。 Aさんが怒る気持ちも少しはわからないでもありませんが、資格も何もないのにこの金額をすぐに支払ってくれていた社長に対して、自分の権利のみ主張しているなんて悲しい話です。

    この話はどっちもどっちだと言う人もいれば、社長が悪いと言う人もいれば、Aさんが悪いと言う人もいるので三者三様です。

    優しい気持ちや思いやりと言うのがわからない人に、気持ちの部分を伝えようと言うのには無理があります。 自分の得する権利のみ主張する人は、その時は良いかも知れません。 しかし、後でお釣りが来る時に、初めて痛みを感じるようになるのです。 それまでは何を言っても水と油であり、かかわると言うこと自体が間違いなのです。

    仕事でも何でも与えてくれた以上のことをきちんとしていれば、そんなに理不尽なことばかりが続くわけがないのですが、つい自分のしていることはすべて正しいと思ってしまうのが人の心の弱い部分なのです。

    私も以前は損得勘定ばかりで生きてきたので、お恥ずかしいばかりです。 もう少し周りの人に対する恩返しや、自分以外の人のことを考えて行動していれば、今は違った人生になっていたのかもしれません。 お客様に対しても、果たして本当に力になれているのかと、自問自答する毎日があり~私は努力を怠るわけにはいかないのです。

    自分の人生と言うキャンバスに、山を描くのか~海を描くのか~好きと描くのか~愛してると描くのか、描く内容は人それぞれなので誰も口出しはできません。

    ただし、誰の心にあるキャンバスも、最初はすべて真っ白です。

    あなたの心のキャンバスには、何が描かれていくと思いますか?

    ( ̄△ ̄;)エッ・・?

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    世界の常識。

    最近は海外へ行くのは当たり前の時代になってきましたし、国際結婚の相談も増えてきましたので、世界の常識と日本の非常識~もしくはその逆について少し書いてみたいと思います。

    まず、日本の常識は世界の非常識とか~日本人は流儀をわきまえないなど、世界各国から言われることが多いのですが、本当に日本は世界の非常識人なのかと言えばそうでもないと思います。

    よく、日本人男性はしないけれど外国人男性がする礼儀としてレディファーストが挙げられますし、愛をささやく言葉でも情熱的だと言われています。 しかし、これが本当かどうかは国際結婚した人に聞いてみれば、意外とレディファーストでない男性も多く、その男性~つまり個人により違うと言う答えが返ってくると思います。 また、ささやく言葉も情熱的ではないのですが、喋りかたや態度によりそのように感じさせると言うのもあります。

    日本でDV(ようは男性の暴力)が問題になるけれど、海外でのDVは洒落にならないくらい凄いのです。 お嫁さんの立場にいる人は地面で御飯を食べなければいけないとか、家事を男性にさせるようでは殴られても文句は言えないとか、自分勝手な流儀がまかり通っていることも知らずに国際結婚をすると、「こんなはずじゃなかった?」とばかりに後悔が始まります。

    人間性と言うのはどこの国でも同じであり、そこにあるのは学歴や収入や地位ではなく、品格と言うモノが必要なのです。

    以前の日本人を指してよく言われていたのが、メガネをかけて~カメラをぶら下げて~スーツを着た小男がいれば日本人だとか、「生の魚を食べている(刺身のこと)」や「御飯に黒い紙を巻いて食べている(おにぎりのこと)」などなど、世界から見た日本人は奇妙奇天烈な存在でした。

    実際問題として日本人のイメージが各国により違うし、その国の中でも知識として持っているイメージだけの人と、日本に来たことがあるとか~日本人と付き合いがある人ではかなり違うので、ここでも個人個人の問題が発生します。 いまだにちょんまげに刀で、おまけにお城に住んでいると言うようなことを真面目に話す人もいるくらいです。

    ただし、日本人だけが変わり者と言う考えはおかしいと思うのですが、郷に入りては郷に従えと言うように、相手国に言った場合は相手国の流儀に合わすのがマナーなのです。 しかし、日本人の場合は相手国に行った場合は英語も話せないのかと馬鹿にされて、逆に日本にいる場合でも英語で話さないと「お客様に失礼だ」と、文句を言われることすらあるのです。 そういう時には自信を持って、「相手国に対するマナーをわきまえなさい」と注意すればいいのですが言えない人が多いようです。

    日本人は世界の中でも親切な国柄だと思うのですが、外国の人と接することに慣れていないから、とりあえず争わない為に親切にしているのかもしれません。 しかし、日本人は世界の中でも常識的と言うか~親切で優しい方だと思うので、そんなに日本が悪く言われる筋合いもないのです。 ただ、交渉事に疎い為に、相手の条件をドンドンと突きつけられている現状があるのです。

    例えば、○○○では車が故障しても道の真ん中に止めたままで、昼寝をしたり知らん顔をしたまま、大渋滞を引き起こしても「ノ-プロブレム(心配ない)」と言って平気です。 日本人が道路の真ん中で車が故障したりしたら、すぐにレッカー移動させたり~後続の車に頭を下げたりして申し訳ないと言う態度や姿勢になってしまい、その状態が解消されるまで本人は気が気ではないと思います。

    また、○○○式計算術と言う本が出ているくらいだし、九九だって日本と違い99×99まであるくらいだから計算能力が高いと思われがちです。 しかし、いくら計算能力が高くても商取引におけるルールを守ると言う気持ちがなければ宝の持ち腐れです。

    ○○○のレストランであなたがお友達と食事をして、帰りにレジでお金を払おうとするなら日本式を期待してはいけません。 確かに○○○式計算術により、何人分を何品であろうと間違いのない計算をするのですが、そこから後が日本人の感覚としては問題です。

    なぜなら、小銭などのお釣りがない時や数えるのが面倒くさい時には、レジの小銭を入れる場所にあるキャンデーを、お釣りの代わりとして渡してくれるのです。 日本ならば必ず受け取ったお金に対して、計算された通りのお釣りをきちんと返すのですが、○○○では「あぁ~、キャンデー渡しただろ?」と言われて終わりになります。 (ひどい時にはキャンデー1個が、千円の代わりになる時すらあります。)

    つまり、細かいことを気にしている日本人はおかしいと言われてしまい、正しいことをしているはずなのに非常識だと言われてしまうのです。

    約束を守ると言う点において、日本人の感覚は捨てたもんじゃないと私は思うのです。 待ち合わせの時間に遅れた時に謝る人もいれば~言い訳する人もいますが、言い訳する人も悪いと言う気持ちがあるから取り繕おうとするのです。 もし仮に遅れた人があなたに向かって「遅れたけど、何か悪いのか?」と言ったら、その方が問題だと思います。 つまり、日本人は世界でもマナーが良い方だとも考えられるのです。

    あなたは世界の常識と日本の常識の違いを、どれくらい知っていますか?

    ヘ(^0^)ヘ ☆爆笑☆ ヘ(^0^)ヘ

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    生きている意味。

    おはようございます。 先日の午前中に帰ってきて、午後より鑑定を再開しております。 東京は秋葉原の事件のせいなのか、大きな交差点ごとに警官が立っていました。 また、鑑定終了後の夜にホテルで寝転んでいると、余震の揺れを何度も感じました。 人はいきなり運命が変わることがありますが、秋葉原の事件や今回の地震がそれを暗示しているのかもしれません。

    いざと言うことは誰の身の上にも降りかかる可能性はあり、悔いの無い人生を送っていかないと後悔してからでは遅いのです。 未来は変わり続けるので進みたい道に進まないと、自分の人生は誰にもコントロールできないのです。

    輝くあなたがいることを否定したままでいたり、巡ってくる幸運やチャンスにさよならしたままでいると、あきらめたままの人生で普通は終わります。 普通でいることは決して悪いことではないのですが、夢や希望がある人ならば不完全燃焼になる場合があります。

    運命についてどう考えるかは個人差があるのですが、運が悪くなる人と良くなる人の最大の違いは、運命は自分しだいで変わると言うのを理解できているかどうかです。 自分が行動することにより運命は変わると認識できたなら、その瞬間から努力するのが楽しくなります。

    しかし、仏像を買えば幸せになれるとか~宝くじさえ当たれば幸せになれるなど、何かが起こりさえすれば運命が変わると言う他力本願では未来を変えようが無いのもまた真実です。 残念ながら何もしないでいると未来は変わりようが無く、「運命は自分次第ですか?」と聞かれた場合、ある意味「その通りです」としか答えようが無いのです。

    もしも、念じるだけで全てが解決するのなら、鎖を足につながれて強制労働をさせられているアフリカの子供たちは、「逃げ出したい」とか「助けてくれ!」と念じ続けているのに変わらない日々を過ごしているのは、何故なのかと言うことになります。

    生きている意味を知りたくなるのは人の常ですが、その生きている意味自体は人により違うのです。 ある人はお金があることが幸せ~ある人は健康であることが幸せ~ある人は子供ができることが幸せなど、生きていく上での幸せと言うのは人により違います。

    人生について知りたくなるならば、死についても考えなくてはいけないのですが、それについては死んだら終わりとか~死後の世界はどうなるんだろうなど、あいまいなままに終わらせてしまうと言うこと自体が生への執着に他ならないのです。

    生きている意味を他人に求めるのなら、それは自分が何かを成し遂げる為に生まれてきたということが前提になります。 しかし、この世に生まれてきた瞬間を覚えている人はいませんし、気が付いたら目の前に大人たちがいたと言う人がほとんどです。 (ここでは、メルヘンの世界やTV番組の話は除外します。)

    実は生きている意味とは、自分だけが問題として捉えていて、さらに答えも自分しか知りえないのです。

    私が自分で辿り着いた生きている意味は「誰かの役に立つ」であり、生きている間にどれだけの人の心を元気にできるのだろうかと考えています。 人が人である為には「誰かの笑顔」を喜ぶことができるかどうかが重要だと思います。 難しく考えなくてもイイことがあった人の喜ぶ顔を見て「おめでとう」とか「すごいね!」と言うヒトコトでいいんです。

    ただし、この生きている意味と言うのは私にとっては意味あることですが、意味の受け取り方は人それぞれにより変わってしまいます。 お金やモノや地位などに目が行く人ならば、私の生き方は軽蔑されても仕方がありません。

    生きていると言う答えは、人の知りたいという欲求によるモノなのかも知れません。 しかし、生きているという事実を冷静に捕らえて、自分について考えることもせずに「自分の生きている意味は?」と考え続けても、答えは出てこないのではないかと思います。

    生まれた時の条件を盾にして、有利とか~不利とかを言う人もいますが、それがどうして有利か不利かを決められるのか、それ自体は神様以外は誰もわからないのです。

    私自身は過去の反省が足りないと言うか~お恥ずかしい行いが多いのですが、もしも私がいじめられなければ傲慢で思いやりが無い人間になっていたと思います。 いじめられたからこそ、人をいじめてはいけないとか~誰かの助けになる生き方など、役に立ちたいと思うようになったのかもしれません。

    仕方がないことではありますが、人はつい思いを馳せてしまうことがあります。 それは、「もっとお金持ちに生まれていたら~」とか「もっと都会に生まれていたら~」など、もっと良い条件で生まれてきていたらと考える点です。 しかし、そんなに自分の生まれた条件を嘆かなくても、条件がそろえば有利と言うのは大間違いであると、歴史がちゃんと証明してくれています。

    例えば、お金持ちの家に生まれた2代目や3代目の社長などは、条件が揃いまくっているにもかかわらず、受け継いだ会社やお店を維持できずに潰してしまったり、潰さなくても縮小している現実が数多くあります。 商売ひとつとっても、商店街や駅前にある人気店と言うのは移転したらさっぱりと言う程度の実力であり、人通りがあるからとか~駅前だからと言うのが前提で成り立っているだけです。

    有利~不利と言うのはあくまでその時点のことであり、未来永劫続くわけではなく努力次第~アイディア次第で、充分に逆転できるのです。

    あなたがこの世に生まれてきたことは、とても素晴らしいことだと私は思うのです。

    もしも、自分はこの世に必要ないとか~生きていてもこれからの人生に良いことなんかないと思うのなら、それは違うと言いたいのです。 引け目を感じたり~自分を卑下したりしなくても、あなたにお会いできて嬉しいと思う人が大勢この世には存在します。

    それでも否定したくなるのなら、ここにひとり~あなたにお会いできる時間がとても大切で素晴らしい時間だと思っている私が居ます。

    素敵なあなたが存在するからこそ、色々な人とのつながりができてきて、生きている意味が次々と発生していくのです。 生きている意味とは、自分の行動で作り上げることもできるし、実現させることもできるのです。

    あなたは生きている意味を、自分なりに答えとして持っていますか?

    \\( ⌒▽⌒ )// バンザーイ

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    遠距離恋愛。

    遠距離恋愛と言うのは難しく、本当に好きでなければできないけれど~本当に好きでも無理な場合があります。 遠距離恋愛とは明確な定義は存在しないから、心が離れた場合もある意味で遠距離恋愛かもしれません。

    恋愛をしている当事者同士が遠距離恋愛だと感じればそうとも言えるし、物理的に近距離でも心が離れている時は遠距離と言えます。 年代や地域や経済力など、さまざまな条件により状況が違うことで会えない。

    もしかしたら逢えない距離が、遠距離恋愛の定義となりうるのかもしれません。

    心理学的に言えば「男女間の物理的な距離が近いほど、心理的な距離や感覚は狭まる」と言われます。 逆に言えば遠距離なら心が離れやすいということで、これを打ち破る為には頻繁に電話やメールや手紙などで連絡を取るとか、度々会える状況を作り出すなどの心理的距離が遠くならないようにすることが絶対条件です。

    あなたが恋人から「遠距離なら別れる」と言われたりすると、別れること以外にも「それで別れる程度の愛情」と言うのもショックだと思います。

    ただし、愛情が足りないから相手が別れを切り出していると言うばかりではなく、そう言えば無理しても残ってくれると考えてのことかもしれません。 わかっているけど言ってしまったと後悔するかもしれないし、さみしがりやでそばにいて欲しいタイプなのかもしれません。

    遠距離恋愛は成就すれば良い想い出になるし、成就しなければ次の恋へのステップとして心に刻み込まれます。 Aさんと言うある女性の心に秘めた恋の物語が、遠距離の難しさと恋愛の深さを測れるのかもしれません。

    あるところにAさんと言う女性がいて3年間付き合っていた彼がいました。 ところが彼はお店を出すと言う夢があり、その実現の為に東京へ行くと急に言い出しました。 そして彼は、「お前に待ってくれとも言えないし、付いてきてくれと言う自信も無いから、俺たち別れた方がいいと思う。」 こう言ってAさんとの関係に終止符を打とうとしました。

    急な展開にAさんは心の整理もできなかったのですが、彼の為になるのならと別れを決めました。 彼はAさんのことを想い~Aさんは彼のことを想い、お互いが相手のことを想い決めたことなのに、なぜかすれ違ってしまう恋の儚さ…。

    彼は東京へ出てからは彼女も作らずに一生懸命に仕事をして、上京後3年でお店を一軒構えることになりました。 男の一人暮らしですが、母親が毎月上京してきて部屋の掃除や洗濯をしたり~料理の作り置きをしたりして、忙しいながらも生活の方は何とかやれていたのです。

    Aさんの方は彼と別れてから、しばらくは誰とも付き合っていませんでした。 しかし、親の勧めもありお見合いをして、彼がお店を出すのと同時期くらいに結婚しました。 お見合いとは言え、Aさんの相手の男性も優しい人で良いお付き合いができていたようです。

    彼は風の便りにAさんの結婚が決まったことを知り、「幸せになれよ…。」 心の片隅にいたAさんへの想いを断ち切るかのように、彼は自然と呟いていました。 そしてお店も軌道に乗ってきたある年のお正月に帰省した彼は、「おふくろ。 いつも部屋を掃除しにきてくれてたけど、よく毎月これたよなぁ~。 俺もあれでかなり助かったけどね。」 これはお母さんに対して、彼なりの感謝の言葉だったのです。

    ところがお母さんは言いにくそうに、「あの、実はね…。 言わないように止められていたんだけど、あなたの部屋を掃除したり御飯を作っていたのはAちゃんなの。 結婚するまではあなたのことを想い続けていたいからって、私の代わりに部屋の掃除や料理をする為に上京していたの。」

    「えっ!」 彼は当たり前のように部屋の掃除ができていて、当たり前のように料理がおいてあったから、疑いもせずに母がしてくれているとばかり思い込んでいたのです。

    東京で生活している彼のことを想い、別れても好きでいてくれた彼女。

    彼女が出していた愛のシグナルに気付かなかった自分のおろかさにあきれると同時に、彼女に対する想い出が一気によみがえって来ました。

    「どうして、あの時に一緒に来てくれと言えなかったのか?」

    誰かを傷つけるということを嫌っていたはずの自分が、一番大切にしなければならない彼女を傷つけていたということに、3年と言う時間が経ってから初めて気が付いたのです。

    彼にとって、不安定な身分のまま「ついて来て欲しい」とは言えなかった。
    彼女にとって、どんな状況であろうとも「一緒に来て欲しい」と言って欲しかった。

    お互いがお互いのことを思いやるからこそ訪れた別れではあるけれど、計算しないで思いのままに動く恋があってもよかったと思います。 どんな状況にあろうとも、こんなに好きでいてくれるAさんとお付き合いできた時間は彼にとって素晴らしい想い出です。

    ただし、彼女が結婚を決めた以上、もう後戻りはできないから二人の恋が再スタートすることはありません。

    ひょっとして、もう少しだけ心が強くなれていれば~自分に自信が持てていれば、彼とAさんは結ばれていたのかもしれません。 後悔しない為にも好きな人に対して、本当の想いを持ち続けるというのは大切なことであり、それには強くなれる自分が必要です。

    あなたは強くなれる自分を、心の中できちんと表現できますか?

    。。。ρ(-ω- ) イジイジ


    お知らせ:出張の為PCが使えないので、ブログの更新は17日(火)より再開いたします。 いつも御覧いただき、本当にありがとうございます。 m(__)m

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    予言。

    おはようございます。 今日は良い天気で清々しい朝を迎えていますが、これを読んでいるあなたの一日も素晴らしい日になると思います。 今日のあなたはより一段と輝いて、その素敵な状態のまま週末を過ごしてくださいね。

    さて、たまには占いのようなことを書いてみたいと思いますが、お客様より時々聞かれるTV番組など各種の予言について解説してみたいと思います。

    もともと予言とは読んで字の如く、ある物事についての実現性について「あらかじめ言う」ことを言います。 世間一般には「合理的には知ることのできない」未来を語ることを指す場合が多いのですが、占星術やチャネリングやスピリチュアルと言った疑似科学の領域で用いられる場合が多いようです。

    また、未来における出来事を言う場合でも自然科学や社会科学、簡単に言うと天気予報や将来的な地震予報など、過去の統計学や科学的に推し量るモノは予言とは呼ばないことが多いようです。

    啓示宗教における預言と科学的に行う未来への推測はまったく異なる分野であり、預言や神託には未来を語ったモノが数多く含まれており、その部分があるが故に「預言」がもっともらしく聞こえる一因にもなっています。 (予言と預言はちょっと違い、預言とは神様の声が聞こえるなどと言う場合に使われます。)

    基本的に予言の的中を示すには合理的には予測されない事柄について、「いつ~どこで~何が」と言うのを起こる前に記していることが、本来の十分条件となるのです。 人類が生誕より現在までに「十分条件を満たしている」と広く認められている資料は、一切確認されていないのが実情です。

    例えば某番組などでは物事が起こった後に、「私は警告の手紙を、あらかじめ送っていた。」と言い張るのですが、これこそバラエティーです。

    疑似科学においては事前に残された抽象的な言葉や予言を、事後に起こった事実に合わせて解釈をすることが多いです。 また、予言~予言と言うけれど、数多く語った中で数例が的中したら「私には神の力がある」と言ったような表現になるのです。

    おまけに、タマタマ当たった偶発的な的中も予言の的中、あるいは成就と表現されることが多いのですが、認知心理学などの分野では予言の的中とはみなされていません。 疑似科学の分野で予言の的中について研究が行われ、その予言者の特異な能力や超常現象的な力の存在を示す証拠とされる特殊な事情があることはあるのですが、それ自体が偶然によるものか~そうでないかを線引きすることはできていないのです。

    バタフライ効果が知られてからは、確定的な未来を事前に語ることは困難であるとされているのですが、未来は決まっているわけではないので完全なる予言は不可能なのです。 その理由として「右へ行くか~左へ行くか」と言う2本の道が、その先では更に増えると言うカオス理論の存在があるからです。 (カオス理論を理解できていたら、未来が決まっているなんて言えるはずがないのです。)

    予言と言えば「ノストラダムスの大予言」がありましたが、1999年の7月に地球が滅亡してないですね…。 (>ε<) プッ!

    また参考意見として「事後予言と自己成就予言」にも触れますが、「事後予言」とは出来事が起こった後に見通していたかのように、後で捏造された予言のことです。 曖昧な予言をしておいて解釈を付け加えるものも含まれ、事後予言は単なる話術です。

    自己成就予言とは予言をした者や、それを受け止めた者が予言に沿った行動を取り的中するように導かれた予言などを言います。 神話や寓話や逸話などがこれに当てはまるのですが、身近な例としてオイルショック時のトイレットペーパーや銀行の取り付け騒ぎなどがあります。 ある言動や結果により意識的&無意識的に関わらず、それに沿った行動を取ることにより当たったと錯覚しているケースが多いのです。

    バラエティーとして楽しむのはいいけれど、公共の電波を使ってありもしない出来事をでっち上げて、人々の心を不安にさせるのは問題だと思うのです。 TVはバラエティーであり、超常現象が好きな人は本気にせず楽しんでみるのはいいと思います。 私もUFOや超能力など超常現象は、フィクションだとわかっていてもワクワクしながら見ています。

    また、某番組内で予言された「9月に名古屋でマグニチュード8.6の東海地震が発生して、600名の死者と3万人の家屋が失われる。」 この予言は外れると思います。 神戸の震災がマグニチュード7.2だったので、マグニチュード8.6とはそれ以上の巨大地震なのです。 (過去の日本において、マグニチュード8.5以上が起きたことはありません。)

    参考意見として、マグニチュード5程度の地震は世界のどこかで毎日発生しており、マグニチュード3~4程度の地震は日本でも毎日どこかで発生しています。 地震を予言しておけば「地域は外れたけど、地震は起きた。」と言い訳できるから、予言者が地震の予言をすることが多いだけです。

    某TV番組の予言者と私のどちらが正しいのか、9月には自動的に証明されると思いますが、「規模(もしくは地域)は違ったけれど、地震は起きた!」と言い訳して某TV番組は当たったと言い張りお茶を濁すと「予言」します。 (笑)

    あなたは予言と言うモノの本質を、聞き流す余裕がありますか?

    ( ̄O ̄)ノ オッハー!

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    評価。

    人生とは逆転が大いにあるからこそ、楽しいし~嬉しいし~努力できると思います。 自分と誰かの差を考えなくても、今の自分がどうあるべきかを考えたなら良いと思うのです。

    今が苦しいと感じる立場にいれば、トキメク日々を過ごして夢を捕まえるような活き活きした時のことを、ちょっとだけ忘れているだけなのです。 雨上がりに虹が出た時は、何故か知らないけれど心がほんのりと良い気分になる、そういう心の余裕を忘れているだけなのです。

    評価と言うのは「自分の評価と他人の評価」があり、人は往々にして他人の評価の方を気にするのです。 自分の夢や希望なのに他人の言動の方を信じてしまうのは、心に余裕がないから縋りたい気持ちがあるからかもしれません。 しかし、最後に虹が霞んで消えていくような、儚い夢で終わるようでは苦しいままの人生になってしまいます。

    人生とはテストではないのだから、他人に点数をつけてもらうだけじゃいけないのです。 他人の評価と言うのは、時や情勢により変化してしまいます。 その流れの中における評価と言うのは一時的で、時間や場所が変われば評価も一変してしまいます。

    社長とか~芸術家とか、目に見える評価の中で生きている人を見ると、羨ましく感じたり~眩しく感じるかもしれません。 しかし、それは周りから見た評価であり、本人達の気持ちは誰にも理解できないかもしれないのです。

    本当に大事なのは、他人の評価ではなく自分の評価の方です。 自分の評価と言うのは、自分の行動や言動において「自分が納得できているかどうか?」 これが一番重要なのです。

    いくら給料が良くても、会社内で足の引っ張りあいでギスギスした状態では、人生において疲れを感じるだけになってしまうのです。 ところが、収入面において高くなくても活き活きとやりたいことをしていれば、自分が満足しているのだから苦しいはずがないのです。

    人が迷路に迷い込んだら、一筋の光があれば無事にゴールへたどり着けます。 しかし、その光となるべきモノがない人は、いつまで経っても迷路の中から抜け出ることはないのです。 悲しみや苦しみを言葉にしても聞いてくれる人がいないのは、とてつもなく辛い人生になると思います。

    痛みを重ねても誰も気遣ってくれない人生とは、裸の王様に他ならないのです。

    そうならない為に「やるべきことは今すぐにやる」と言う、行動を起こす姿勢が大切だと思うのです。 自分で自分の悪い癖を直す必要があると感じたなら、まず一番にやるのはこの部分なのです。

    環境が整ったら、やってみよう。
    時間ができたら、してもいいかな。
    誰かが誘ってくれたら。してみるんだけど。

    こうやって理由をつけて後回しにしていると、いつまで経っても気持ちはあるけれど行動していない状態が続くのです。

    人生に何かがあれば、辛いとか~苦しいとか~嬉しいとか~楽しいなど、多岐に渡り喜怒哀楽が起こります。 それをどう受け止めるかで、人間としての器量や器が試されているのかもしれません。

    人生には危機的状況と言うのが発生して、どうすれば良いかと言う判断を求められる時が一度や二度はあります。 その時に良いことも悪いことも受け入れるだけの心構えがあれば、いざと言う時の耐久力に自信が持てると思うのです。

    人間には失敗や後悔は付きモノですが、その時に落ち込んでしまうのはいいんです。 しかし、落ち込んだままで立ち直ろうとしないのは悲しいと思うのです。 才能や実力があるのに、いつまで経っても次へ行こうとしないのは、あなたの人生において空白期間となるので勿体無いと思うのです。

    自分が言った言葉に縛られて身動きが取れなくなり、前はこうだったかのに~今度こうしたら「周りからどう思われるのだろう?」 こうやって、以前の自分のままで殻を破れずに抜け出せない。 自分が言ったことに責任を持つのは良いのですが、いつまでもそれにこだわり続けると時の流れについていけないかもしれないのです。

    変えて困ることなんて余りないのですが、変えずに困ることは一杯ありすぎて書けないくらいです。 お酒にタバコにダイエット、このように今までの生活を変えることが出来なくて困ることの方が断然多いのです。

    変わることの不安よりも、変わらない停滞の方を心配する必要があるのです。

    あなたにとっての行動とは、いつ動き出すことを言いますか?

    □\(-_-メ)イエローカード!!

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    比べなくていい。

    社会生活をしていれば自分と他人を比べて落ち込むこともあるでしょうが、それは考えても余り意味がないことだと思います。 「相手と自分」 それは生まれてきた条件も立場も何もかもが違うのだから、不幸かどうかの判定は誰にもできないし、本人以外はその条件を知りえないのです。

    生まれてきたこと。

    これは誰であろうとも最大のチャンスなのですが、生まれてきて不幸だと言うのであれば、生まれてきたチャンス自体に気付いていない証拠なのです。

    目が見える~水が飲める~携帯が使える~手足が動くなど、当たり前のことが当たり前でないと言う事実に気が付けたなら、それは自分が現状のままでの充分に幸せだとわかるかもしれません。 当たり前にできることが当たり前ではなく、本当は幸せなことだと気付けるかどうかで、自分の人生が決まってくると思います。

    今の私は幸せだと感じられる状況にいますが、「休みもなく働いて、何が楽しくて生きてるの?」 こういう人がいるのは否定できないし、そういう考えの人がいるのも当たり前で否定することもありません。 休みなく働くのを不幸だと言うのなら、それはその人の価値観では不幸というだけであり、自分の価値観とは違うのだから否定する対象にすらならないのです。

    私は休み無しで働く以外に酒やタバコもしないので、工場などお勤めをしている時から「何が楽しくて生きているの?」と周りから度々言われていたので、そういう言葉には慣れているのです。

    私の人生において楽しみと言うのは、「人と会って話が出来る」 これが一番嬉しいことであり、お客様とお会いできて話ができる~そしてお客様が元気な笑顔になってお帰りいただけると言うのは、私の心が元気になることでもあります。 落ち込んだ人が少しでも笑顔になると言うのが喜びであり、それ以外に取り立てて欲しい物はないのです。

    現在は良い感じで正のサイクルができているのですが、お客様がお越し下さることで私は話ができる喜びがあり~お客様も私に話すことにより元気になれ~頂いた鑑定料を寄付する~水を飲めない子供や目の見えない人の役に立つ、このようなサイクルでボランティアができています。

    これは私が休まない限り続く永遠のサイクルであり、それは喜びのサイクルでもあるので私が休むことはありえません。 私の原動力や喜びと言うのは、誰かの役に立ちたいと言うのが基本であり、それ以外に生きている意味はないと言っても過言ではありません。 (ただし、それは私の生い立ちによるモノも大きいので、他の人にしろと言うわけではありません。)

    しかし、この正のサイクルさえ作り出してしまえば、後は同じことを繰り返すだけで自動的に喜びが生まれてくるので、自分の使命と呼べるモノを見つけるのと同じことかもしれません。

    誰かと比べずに生きていくのは、自分の中にあるモノを大切にして生きていくことであり、誰かと比べてこうだと感じることではないのです。 ただし、現代社会において誰かと比べてしまう要因のひとつに、情報量の多さと言うのがあります。 TVや雑誌にネットなどあらゆる情報で誰かと比べてしまうのは、余計なことを心配してしまうことになりかねないのです。

    例えば、TVを見ているとセレブなモデルやタレントさんなど、お金持ちキャラの人が出てきて夢のような話をします。 それはそれで夢のあることなので、「いつかは、あぁなりたい~。」と目標にして努力するのはいいのですが、それを真に受けて自分は駄目だと卑下するのはしなくていいんです。

    あなたはあなたのままでいいし、あなただけの良さと言うのがあるのだから、等身大のあなたが少しづづ着実に成長していく方が素敵だと思うのです。

    TVや雑誌と言うのは虚飾の世界なので、ある程度のハッタリやミエは必要です。 また、話す内容も誇張して自分を売り込むと言うのも戦略なので、セレブじゃないのにセレブ風にゴージャスに見せかけると言うのも当たり前なのです。

    例を出すと、TVでセレブ系のタレントやモデルの人が「お店にふらっと入って、1000万円の宝石を現金で買った」なんて話をしていますが、あれはネタなので余り信じなくていいんです。 実は現金で1000万円クラスのジュエリーを買う為には、身分証明書(免許やパスポートなど)が必要です。 カードで買うならカード会社が身分保障になりますが、現金で買うのはマネーローンダリング防止の為に身元を証明しなくては買えないのです。

    注:小ネタですが、銀座の直営店や本店の場合(カルティエやショーメなど)は、ほとんどがセレブ専用の展示室と商談室を設けています。 銀座の場合、店の奥にあるエレベーターから専用室へ行くと美術館なみの展示室があります。

    虚飾の世界の架空の話を真に受けて自分は駄目だと卑下せずに、あなた自身がもっと素晴らしい宝物を持っていることに気が付いて欲しいのです。

    あなたがこの世に存在していると言うのは、あなた自身が運命に選ばれた特別な存在だと言うことです。 その選ばれたあなたには、何かをしなければ生きている実感が沸いてこないから、その実感を得ることが生まれてきた証にもなるのです。

    あなたは運命に選ばれたのですが、それだけのことを追い求めていますか?

    (≧∇≦)ъ ナイス!

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    恋愛神社。

    おはようございます。 昨日のブログ更新はお休みさせていただきましたが、広島出張に行っておりました。 広島の中区にある福屋デパートの真向かいにあるルフェールと言うブティクで、お客様方より差し入れなどもいただき忙しいけれど充実した一日でした。 (実はひそかに寄付の神様も顔を出したので、会えた人はラッキーかも?)

    広島駅へ午前中に到着して路面電車にて中区まで移動して福屋前で下車、少し商店街の中を歩くと到着です。 商店街の中には露店やゆかたの女性で溢れかえっていたのですが、この日は「とうかさん」と言う夏祭りの日でした。

    とうかさんとは別名「ゆかたの着始め祭り」としても有名で、390年以上の歴史を誇ります。 この日を境に広島の街では艶やかなゆかた姿の女性が目につくようになりますが、「とうかさん」の由来とは境内の稲荷の呼称なのです。 稲荷を「いなり」と読まずに音読みで「とうか」と読んだのが起源で、広島の6月を象徴する風物詩です。

    このように神社に関してお祭り&お参りという行為を、人は古代より繰り返してきました。 神仏を大切にするのは良いことだし、たまには霊験あらたかで厳かな雰囲気を味わうのも悪くはないと思うのです。 そこで、神社とは果たしてどういうところなのかと言うのを、少し解説してみたいと思います。

    神社とは基本的に、神道信仰に基づいて作られた宗教的施設のことを言い、戦前には国家神道のことを単に神社と称していたようです。 教会やモスクなどの礼拝する為の礼拝堂や教えを広める為の布教所とは、性格や用途が異なっています。 現在では参拝用の施設や結婚式の設備などが造られることも多いのですが、元々は神社内の場所に宿る神を祀る、祭祀施設が本来の目的です。

    社殿を海上~山頂~ビルの屋上などに祀ることもある神社の起源は、磐座(いわくら)や神の住む場所である禁足地などで行われた祭事の際に、臨時に建てた神籬(ひもろぎ)などの祭壇のことを言い、元々は常設のものではありません。

    古代から続く神社では現在も本殿を持たない神社があり、磐座や禁足地の山や島などの手前に拝殿のみを建てているところもあり、神社に社殿が設置されるようになる過程には仏教寺院の影響があります。

    神社には常に神がいるとされるようになったのは社殿が建てられるようになってからなのですが、社殿が建てられている神社の周りには鎮守の杜と呼ばれる森林があるのが一般的です。 神社の入口には境内と俗界の境界を示す鳥居があり、社殿までの参道脇には身を清める手洗所や神社を管理する社務所などがあります。

    社殿は一般に本殿~神殿~拝殿からなり、人々がふだん参拝する時に目にするのは拝殿です。 御神体が安置される本殿は拝殿の奥にあり、本殿と拝殿の間に参詣者が幣帛を供える為の幣殿が設置されていることもあります。

    また、神仏習合が始まる奈良時代には神社の境内に神を供養する神宮寺が建てられるようになり、それ以後は神社内に寺院が建てられることもあったが、明治初期の明治政府による神仏判然令(神仏分離令)により、神社と寺院は分離されました。 それにより神社境内にあった五重塔や仏堂などは撤去され、僧侶と神官も区別されました。

    なお、現代では盗難避けや盗人防止の神社の境内に、警備会社のステッカーが張ってある矛盾がありますが、そこはオトナの事情として見逃してくださいね。 また、神社の本来の姿は宗教ではなく自然や環境の保護や感謝、及び生に対する敬意を奉るものである為、神職は他の宗教と違って宗教者ではなく、あくまでも神に対する奉仕者と言う位置付けになります。

    神社祭祀の担い手は神主~宮司~禰宜~権禰宜と呼ばれる奉仕者ですが、神職になるには一般大学において神道を専攻して資格を取得して、 卒業後に全国の神社において研修(インターン制度)を経てようやくなれるのです。

    その他にも原則として全ての神社を「~神社」と称するようになったのは、「近代になってから」という点です。 それは何故かと言えば終戦までの神社の位置付けは、いわば国家の施設であり当然法令上の規則があって神社と認められるには備えるべき設備や財産などの条件があったのです。

    神社の中でも規模の大きい神社は神宮や大社と呼ばれ、有名な神を祭神とする場合が多いようです。 なかでも天皇や皇室祖先神を祭神とする神社を神宮と呼ぶことが多く、天皇家につながる皇族を祭神とする神社を宮と呼ぶことが多いようです。 大社については現代では杵築大社(出雲大社)と熊野大社しか名乗っていませんが、戦前は出雲大社のみが大社を名乗っていました。

    なお、1945年以前は神宮などを名乗るには勅許などが必要だったが、現在では政教分離により国家~皇室が神社に直接関与しなくなったので許可を受けなくても、大社や神宮を名乗ることができます。

    神社における参拝方法は、その神社ごとに違うこともあるのでココで「これだ!」と言うわけには行きませんが、作法よりも神様に敬意を払うと言うのが先決です。 カッコだけは整えて、心の中では適当と言う方が問題だと思うのです。

    なお、私は個人的に「恋愛運ならココだ!」と思う恋愛神社みたいな場所があるのですが、この神社に行く人は少ないようです。

    理由はいくつかあるのですが、まずメジャーでないと言う点があります。 聞いたことないと言う人が多いので、「効果あるの?」と言う疑いの気持ちが芽生えるようです。 次に交通の便が悪く岡山から行くのなら、日帰りでもかなりキツイ道程になるようです。 最後に「2人で行かない方がいい」と言う条件があるので、この神社に恋愛祈願で行くのなら1人~もしくは3人以上で行くのなら結果がイイようです。

    あなたは神社の意味を、深く考えたことがありますか?

    ヽ(*^。^*)ノ ワ~イ

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    信用と信頼。

    私は元々自閉症で対人恐怖症なので、人と話をするのはとても苦手です。 霊視カウンセリングの最中も緊張しながらドキドキしたり、上手く話せるだろうかとヒヤヒヤしています。 人には感情と言うモノがあるので、同じヒトコトでも取りようによっては良くも悪くも聞こえるのです。

    私の余計なヒトコトでお客様の気分を害するような事があれば申し訳ないと思いつつ、毎日私の至らない面を反省しながら霊視カウンセリングをしております。

    人間関係のあり方においては悩んでいる人がほとんどであり、人間関係が簡単なんて言う人はほとんどいないと思います。 人間関係と言うのはどうやっても逃れることのできないことであり、生きている以上は関わり続けて行かざるを得ないのです。

    お勤めをしていると気が合う人ばかりではなく、どうしても嫌な人や~どうしてもウマが合わない人が出てきます。 しかし、生活の為には逃れることができないので、渋々ではありますが会社に行っているのです。

    基本的に人間関係で心が疲れると言うのならば、逆に人間関係で心を豊かにすることも可能だと思うのです。 人が人により癒されて、更にその人がまた違う誰かを幸せにすると言うのが人間関係の理想だと思うのです。

    人が人である為に~人間関係を上手く行かせる為に、まずやらなくてはならないことは「自分で自分を理解すること」 自分のことが理解できていないのに、相手のことを理解しようと思ってもできないのです。

    例えるなら、足し算を知らないのに足し算の説明はできないし、プーケットに行ったことがないのに「サワディーカー!(男性であれば、サワディーカップ)」なんて気軽に説明できないのと同じです。 (サワディーカーとはタイ語で、おはよう~こんにちわと言うオールマイティの挨拶です。)

    自分のことを完全に理解できなくても、理解しようとする行動により少し変化があるのならば、次にするのは相手に関心を持つことです。 人と人の間で誤解が生まれるのは言葉が誤解される時ばかりではなく、沈黙の時間が理解されない時にも起こりうるのです。

    「なんで、黙っているの?」 今の状況を上手く説明しようとしても、言葉に上手くできないから黙っているのに、次から次へと質問されてしまうと余計に答えに窮してしまうのです。

    人間関係に必要な「信用と信頼」 この2つの言葉は似てはいるけれど、少し使い分けが違うのです。

    信用とは、相手の言うことを確かなモノと信じて、受け入れることを言います。 今まで相手がしてきたこと、それまでの行為~業績などから大丈夫だと判断することを信用と言うのですが、その実績と言うのは好き嫌いにより左右されるのが玉にキズです。

    信頼とは、信じて頼りにすること。 つまり、相手のことを頼りになると信じることを言うのですが、相手のことを無条件で信じるのは、彼や親友など関係を作り上げた上でないと、ナカナカ難しいかもしれないのです。

    「信用と信頼」 どちらもその根底にあるのは人間関係の構築であり、一朝一夕に出来上がるような簡単な代物ではないのです。 しかし、一度作り上げてしまえば維持するのは自分の努力次第で簡単なことであり、未来へ向けて自分の人生を楽しくする為の行動と同じになるのです。

    生きている以上は「お金と成功(出世)」を誰しも手に入れたいと思いますが、それを得るために人間関係が苦しいと言うのは、本当にイイことなのかどうかは幸せとは別なことなのです。 心が痛いと言うのは自分で自分に嘘をついている時がほとんどであり、自分に正直に生きているならば苦しくなることなんてないのです。

    お金や成功の為に誰かの足を引っ張ったり嫌がらせをしたり、そんなことをしてまでイイ思いをしたいのであれば、それはもう人の仕業ではなく私利私欲の煩悩が動いているだけなのかもしれません。

    イイ人間関係を作ることでお金と成功が近づいてくるなら、それはあなたが人間として正しい道を歩きながら、誰かを喜ばせている証明にもなるのです。

    職場で学歴や仕事のできにより、差別されたり蔑まれたりすることがあるかもしれませんが、それは人間関係を悪くする元なので見習わなくていいんです。 そういう人の行動を真似していると、それが自分にもいつか降りかかってくるのでしてはいけないのです。

    人は人と言う言葉がありますが、運命においてまったく同じ道をたどる人はいないのです。 似てはいるけど人それぞれ違うから、その人の個性となって生き方の差が出てくるのです。

    ヘタレの未熟者の私ですが、お客様より御紹介があった場合は、お越し頂いたお客様だけではなく、紹介(口添え)をしてくださったお客様の心も裏切らないように心がけています。 細心の注意と緊張を維持しながら「信用と信頼」を思い浮かべて、霊視カウンセリングをしているのです。

    あなたに向けられている期待を、あなたは裏切らない努力をしていますか?

    ( ^.^)( -.-)( _ _) ドウモ~


    お知らせ:いつもお読みいただき、本当にありがとうございます。 明日のブログは出張の為、更新は10日(火)の午前中より再開になりますので、ごめんなさい。 m(__)m

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    成功できる。

    あなたは成功できるし~やりたいことがきちんとできるようになるのですが、その為の道を歩けるかどうかがポイントです。 誰しも自分のやりたいことには努力しますし、成功したいと言う気持ちだって、誰にも負けないくらいあると思います。

    しかし、それでも人と人の間には大きな差がついてしまうことがあるのですが、それはどうしてなのかと言えば、進むべき方向性の違いと言ってもいいと思います。 例えるなら、国語の成績を上げたいのに数学の本を読んで「勉強した~。」と思っている状態です。 勉強しているのは確かなのですが、数学の勉強をしても国語の成績は上がらないのです。

    世の中はアイディア次第で、現状維持から大発展へと生まれ変わることが多々あります。 品物自体は悪くないのに何故か売れないと言う時には、ネーミングが悪い場合があります。 これは姓名判断のような画数とかで決めているわけではなく、人が聞いて心地好いとか耳障りがイイだけでヒット商品になることすらあるのです。

    私は霊視カウンセリングではありますが常識的なお話をすることが多いので、守護霊や前世~果ては妖精さんや龍神様など、そういう妖しげな話をすることはほとんどありません。 商売に関しても、風水の前にオーナーのやる気や心構えについてお話をしますし、お客様に感動していただけるかどうかの心意気の部分のお話しもします。

    商売が流行らない理由をヒトコトで言えば、「必要とされていないから。」 上手く行かない理由はこれしかないのですが、それ以外に理由を見つけたくなるのが人間なのです。

    私の父親の商売が上手くいかないのは問屋さんなど仕入先が喜ぶだけで、肝心のお客様が喜んでいなかったからです。 一番大事にしなければならないお客様が喜ばないのだから、繁盛するわけがないのです。 しかし、私の父親は問屋さんなど仕入先にイイ顔をしてミエを張るのを常としてきて、その結果が借金まみれで夜逃げと言う結末です。

    私はそういう結末になるのは辛いと言うのをよくわかっているので、経営者の人には厳しいことを言うようになるのです。 「右の道を行けば再建できるけれど、左の道を行けば再建できません。」 このようにお話して、それでも左の道がいいと言うならば「私の力では無理です。」と言うより他ないのです。

    やりたくないことをしろと無理強いはできないのですが、潰れそうなお店や会社で再建可能な未来の人は「素直に聞く耳」があると言うのが共通点なので、未来を視た時に再建できていれば「聞く耳がある」と言うことなのです。 昨年の成功例を出してみますので、こういう考え方もあると言うのを自分流にアレンジすれば、何かの参考になるかもしれません。

    私が昨年の東京出張で現状打破できたと思うのが、ある居酒屋さんの御相談です。 経営危機と言うのは、まず奥様や女性社員など女性のカンが働いて御相談に来ることが多いのですが、この居酒屋も奥様が御相談に来られました。

    都内である御夫婦がしている居酒屋さんは、真面目にはしているのですが立地条件が悪く、お客様が時々しか訪れない状態でした。 表通りから路地を入った突き当たりにあるお店なので目立たず、表通りに面した路面に「居酒屋あります!」と看板を立てても、人の波は通り過ぎるだけでした。 表通りからお店の入り口まで15Mほどなので見えるのですが、入ってくる人がいないのです。

    この御夫婦は営業時間を長くして少しでもお客様をと考えていたのですが、働く時間を長くすることばかり考えていたら疲れて倒れちゃいます。 私が立てた作戦は2つで、まずは労働時間を短くしました。 夜9時からお店を開けて翌朝に閉店すると言う営業時間の変更で、長くすればいいってもんじゃありません。

    次に立て看板に書く内容を変更したのですが、私が考えた看板の中身は、「この先行き止まり!」と「通り抜け禁止!」これを2行にして書いただけです。 店の名前も~居酒屋がどうのとも、お店に関することは一切書かずに禁止項目的な文面にしただけです。

    結果はまぁまぁですが、私の狙いは「酔っ払った男性」がターゲットだったのです。 夜9時過ぎになると酔った男性も増えてくるので、酔っ払いの男性が出てくる時間からが勝負です。 次に酔った男性は気が大きくなるので、入るなと書いてあれば入る~通り抜けるなと言われればワザと通る、それが酔った男性の習性なのです。

    酔って気が大きくなった男性が禁止看板を見れば、「何が通り抜け禁止じゃあ~!」とばかりに入ってくるのは当然の現象です。 通常なら迷惑行為になるところですが、入ってきて欲しいのだから通り抜け禁止を守らないのは「大歓迎」なのです。

    ただし、これは一時的な作戦であり~お店の常連さんを作れるかどうかは、味や接客と言うお店本来の実力なので、これから先は努力次第で腕の見せ所です。 (注:最近は真似するお店がありますが、真似されるくらいでないと良いアイディアじゃないと言うことです。)

    以上のお話は周りから見ると非常に馬鹿馬鹿しいかもしれませんが、人に迷惑を掛けずに結果が出て面白いなら、生き抜く為には必死でなんでもやればイイと思うのです。 お店を繁盛させる為なら、看板の中身なんかいくらでも書き換えればいいんです。

    あなたはアイディア次第で、いくらでも成功できると自分を信じていますか?

    アリガタビーム!!(ノ・_・)ノ‥‥━━━━☆ピーー

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    心優しきあなたに。

    私は田舎の生まれなので、電車が1時間に1本とか~学年ごとのクラスは2クラスがやっとだったりと、普通の人は余り想像できないかもしれません。 ただし、いくらなんでもTVや車がないとか~電気や水道がないとか、そんなことはありません。

    私が小学生の頃ですが、初めて地元にスーパーというモノができました。 それまであったのは、田舎の雑貨屋さんと言う感じのお店ばかりです。 少し本がおいてあり~お野菜やお肉も少しあり~そしてお菓子や文房具なども少しあると言う、現代のコンビニとスーパーの中間的なお店が地区ごとに点々とあるだけでした。

    そんな所にスーパーがくると言うのは、まさに江戸時代の黒船級でした。 サービスをするとか~安くていいモノなど企業努力をしなくていい時代から、いきなり大手のスーパーと競争することになったのだから太刀打ちできるわけがありません。

    それから2年以内に、近隣にあるお店は全て閉店か~もしくは縮小と言う憂き目にあいました。 お店が閉店=働いていた従業員の人も解雇になったりして都会へ出て行った人もいたので、スーパーができて暮らしが好くなるはずが人口は減るという現象が起きました。

    諺に言われるように、「住めば都」「郷に入りては郷に従え」など、人間はどのような状況でも適応できるようになっています。 その為、小さい時から生活していれば慣れると言うことがありますが、慣れてしまえば習慣の善悪がわからなくなります。

    言って良いことや悪いことなどを判断力しようとしても、大人がしていることなら子供は真似します。 みんながしている=当たり前となり、誰も悪いと思わないので教える人もいなくなると言う悪循環です。

    ここで普通なら学校の先生が地域の人に代わり、マナーとか正義と言うことを教えるのですが先生も同じような人ばかりで無理な話です。 例えば、私が通っていた小学校は「読書禁止」と言う風潮があり、「本を読むようなヤツは、将来ろくなヤツにならん。」と言っていた小学校でした。

    そんな小学生の時に先生や地域の大人の本性が視えた、ある事件が起きました。

    先ほど書いたようにスーパーができて以降は、雑貨屋さんなど個人商店が次々と潰れていったので働く場所がなくなる人が出てきます。

    仮にAさんとしますが、Aさんが勤めていたお店が潰れてしまい、再就職と思っても田舎の方ではすぐに就職場所があるわけではありません。 しかし、子供を食べさせる為に、Aさんは必死だったのだと思います。

    Aさんには2人の子供がいたのですが、この子供に苦労をかけるわけには行かないと、Aさんは屋台のラーメン屋さんを始めたのです。 しかし、今まで普通に雑貨屋さんに勤めていたAさんが、急に上手いラーメンを作れるわけがありません。

    それに夜7時過ぎには次々と家の灯りが消えていくような状態なので、夜に屋台のラーメンを買う人自体がいないのです。 都会の方なら人口密度の関係で、まだナントカなっていたのかもしれません。 Aさんは生活の為に高利貸しからお金を借りて、ナントカ生計をやりくりしていたのですが、そんなことがいつまでも続くわけがありません。

    Aさん夫婦は、ある日の夜に~ある決心をしました。 Aさん一家は子供たちに学校を休ませて旅行へ出て、遊園地や旅館など子供たちに楽しい思いを一杯させました。 子供たちは、最近不機嫌なことが多かったお父さんやお母さんがニコニコしているので、とても喜んでいました。

    そして旅が終わり家路に着く車の中で、子供たちは疲れていたのか~ウトウトと眠り始めました。 そして子供たちが目を覚ますことは、もう二度とありませんでした。 Aさん一家は、そのまま天国へと旅立ってしまったのです。

    その事件が起きた時に、周りの大人たちがどう言ったのか?

    「ワシに言えば、ナントカしてやったのに。」とか「ウチへ来れば、ラーメンを買ったのに。」など、一見カッコいいことを言いました。 しかし、死んでから言うくらいならば、生きている時に助けてあげるのが本当じゃないのか? 困っている時に手を差し伸べてあげるのが人じゃないのか?

    私は大人達の嘘が、イヤと言うくらい霊視できていたのです。 (私が小学4年の時だから9歳頃なので、今から20年ほど前の話です。)

    そしてAさんにお金を貸していた高利貸しの人は、お金が返ってこないのでありとあらゆる罵詈雑言で、葬式の時からずっとAさん一家を罵っていました。 その高利貸しの正体はなんと、Aさんの子供たちが通っていた小学校の校長先生でした。 普通では考えられないのですが、校長先生が裏で高利貸しをしていたのです。 (学校の先生は副業をしてはいけないのに、私利私欲の為にしていたのです。)

    ただ、この事件以後の校長先生は、不思議なことに家が火事になったり~癌になったり、あっと言う間に資産を使い果たして亡くなってしまったのです。

    その当時の私はこういう大人たちを見ているので、決してあんな口先だけの~言うだけの大人にはなるまいと、心に固く決めた幼き時の思い出のひとつです。

    誰しも胸の中にある正義と言うものに対して嘘をつかずに生きていれば、きっと素敵な人生が送れると思うのです。 これを読んで何かを感じる人には、きっと心優しき素敵な人生が待っていると思うし~絶対に幸せになって欲しいと願います。

    心優しきあなたに運命は微笑んでくれるはずだと、私は強く信じているのです。

    あなたの心にある正義や思いやりは、どのように発揮したいと思いますか?

    ( ̄(エ) ̄)ゞ  できるよ~☆

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    関係ない。

    関係ないと言うヒトコトで、自分との関わりを断ち切ってしまう人がいますが、実に勿体無いと思います。 関係ないというのは何をもって関係ないと言うのか、それに対する基準も規定もこの世にはありえないと感じることがしばしばあります。

    付箋ができたキッカケにしても接着剤を開発していて偶然出来た物ですが、くっつくけれどはがれやすいという特性があるからこそヒット商品になったのです。 これは当初は使い物にならないと言われていたのですが、ある人が「じゃあ、メモ用紙に使えばエエヤン!」と言うノリで使われ始めて商品化されました。

    この開発チームにいた人の発想も素晴らしいし、それを認めてGOサインを出した上司も大したモノです。

    「私には関係ない。」 こう言い切って損をしている自分に気がつかないのは、今と言う時点でのことしか考えていないからだと思うのです。 ある意味、プライドの高い人ほど自分のテリトリーから出てこようとしないので、「関係ない。」と言う予防線を張って見栄を張りたいと言うのもあると思います。

    世間ではまだまだジェンダーバイアスがありますが、私個人としては「女性と男性」の違いではなく「個人の能力差」であると言う持論があります。 女性だからと言って実力を認めない会社は、世の中の流れに取り残されていくことになります。 (ジェンダーバイアスとは性差による能力差別のことで、女性は男性より劣っているなどの意味で使われる言葉です。)

    このブログでも恋愛系とか色々な分野について書いていますが、関係ないと言わずに恋愛系でも何でも読む人は引き出しが多い為、人と話をする時に話を合わせやすいし興味を引きやすいかもしれません。

    注:最近、恋愛モノが少ないと思うかもしれませんが、ひそかに恋愛専用ブログを4月よりしています。 70%が恋愛系で~残りは少々内緒話、閲覧希望の方は鑑定の時にアクセス方法を聞いてくださいね。 ただし、毎日2つも書けないので、気が向いた時だけの不定期更新です。

    私は基本的に霊視カウンセリングなので、前世がどうの~守護霊がどうの~生まれてきた使命がどうの、こういう話をする方が普通です。 しかし、このブログに書く話は政治~経済~医学~物理学~歴史~人生哲学と何でもあり状態です。 逆に霊視や占いに関することはほとんど書いていないのに、読んでくださる素敵なお客様がいるのは本当にありがたいことです。 m(__)m

    霊視や占いに関係のないことでも日頃から勉強しておくのは、役に立つことを見越しておくのではなく面白いからと言う理由で充分なのです。 自分が興味を持って何にでも視野を向けておくのは、自分磨きの為には決して悪いことではないのです。 仮に私が「関係ないから」と他分野のことを書かずに霊視や占いに関することだけ書いていたら、このブログを見る人は激減すると思います。

    例え関係なくても、興味があるとか~面白いとか~いつか役に立つ時があるかもしれないとか、理由をつけずに見る単純さも必要だと思うのです。

    これはあくまで例えですが、もしも私が誰かと対談やトークショーをするなら…?

    もしも、大槻義彦教授と対談するなら、物理学についてトークしたいです。
    もしも、秋山仁先生と対談するなら、数学についてトークしたいです。
    もしも、吉村作治教授と対談するなら、考古学についてトークしたいです。

    「相手の得意分野で話が出来る」と言う方が、相手に面白いと思われて記憶に残してもらえる可能性ができるのです。 しかし、相手の得意分野で話をしようと思えば、常に自分を磨いておく必要があるのです。

    注:霊に関する話は私ではなく、スピリチュアルカウンセラーの先生方に聞いた方が物語として面白いと思います。

    何にでも興味を持つと言うのは、取り合えず聞いて見るとか~取り合えず読んでみるとか、自分の可能性を広げるチャンスを潰さないことです。 自分の世界を広めるのなら、文学でも音楽でもジャンルを問わず知識や経験として取り込んで見る、そういう懐の広さを身に付けてもいいと思うのです。

    自分に関係ある人や物事だけが重要と言うのなら、自分が関係ない場合は相手にされなくても仕方がないと言う覚悟が必要です。 自分にとって用がある時は相手にして欲しいけれど、自分の方に用がないと思ったらほっとくなんて悲しいと思うのです。

    あなたは自分に関係ないからと、未来の自分を裏切っていませんか?

    (^o^)\(^^ ) イイコイイコ

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    不可能な恋。

    不可能な恋をしてしまうと心が切なくてしょうがないけれど、相手のことを忘れるなんて無理になってしまう。 忘れられないから次の恋へ進めない、次のステップへ進めないからいつまで経っても恋を考えすぎてしまうのです。

    好きになった人には「彼女が・・・、奥さんが・・・」 どうして好きになった人には、必ず相手がいる人ばかりなのかを考えてしまうかもしれないけれど、その恋のハードルが高ければ高いほど、忘れえぬ恋として記憶に残るのです。

    あなたが相手を思う気持ちはピュアであり、温かさがにじみ出ている想いです。

    しかし、あなたの恋が美しいのは「儚くて~切なくて~悲しい」からこそ、美しくキレイなままで心に刻み込まれると思うのです。 あなたが彼と会えた奇跡に感謝して、あなたが彼のことを好きだという気持ちを心に残して、人知れず思い続ける姿はとても美しい愛だと思うのです。

    彼のことを好きだと言う気持ちに、嘘はないかもしれない。
    彼が幸せになるのなら、見守るだけでイイと思う気持ちも嘘じゃない。

    あなたの純粋なる気持ち、その相手のことを考える姿を視ていると、私は心が痛くなってくるのです。 あなたが彼のことをそっと見つめる姿は、女神のようであり~母のようであり、一人の女性としてだけではなくひとりの人間としても素敵に輝いていると思うのです。

    好きだけど、好きと言えない。

    相手が幸せになるのなら潔く身を引いて、相手が幸せになるお手伝いをする。 どんなに好きだったとしても、振り返ることができたなら素敵だったと思える、恋の一幕として覚えていられる恋をしていただきたいのです。

    片思いは辛いかもしれないけれど、片思いをしている間は可能性があると言うことなのです。 告白してしまうと、今のままではいられない。 告白しなければ、いつでも気軽に挨拶したり~会うことができる。 この不安定で不確かなままの状態を続けると、恋に臆病なまま時間の流れに付き合ってしまうことになるのです。

    恋って言うのは、「自分だけのものにしたい」 こう思うところから始まると、辛くて切なくて苦しい恋になります。 だけど、好きって思い始めて会うだけでもドキドキするような、純な恋をしていると苦しいよりも会えることに感謝することになるのです。 好きな人の元気な顔や元気な声、それがあるだけでも幸せになるのなら、純愛と言ってイイ恋の始まりなのです。

    好きな人との恋が成就しない時は、とても辛いと思います。
    好きな人に振られた時には、とても悲しいと思います。
    好きな人に彼女ができたら、どうしていいかわからないと思います。

    しかし、あなたが好きな人に彼女ができて幸せになっていると言うのは、本当は素晴らしいことです。 あなたが一度は想いを寄せた人が、幸せになって素敵な人生を歩んでいくのだから、凹むかもしれないけれど~素晴らしいことでもあると思うのです。

    恋で悩めると言うのは、甘い物を食べ過ぎている時と似ています。 美味しいのだけれど食べ過ぎると胸焼けがして、しばらくは何も欲しくないとか~何も考えられないと言う感じです。

    恋で嘆くと言うのは、遊園地で遊んでいるような感覚に似ています。 次から次へと目に入る乗り物やパレード、そして長い行列に並んで順番待ちをしてようやく乗り込むと、あっと言う間に終わってしまうのです。 嘆くと言うのは、オノロケの裏返しでもあるのです。

    恋の苦しみと言うのは、実は相手がいるからこそ苦しめるだけなのです。 相手がいないと恋で苦しもうと思っても、それは無理です。 苦しいかもしれないけれど、それは相手が自分の自由にならないと言うことであり、本当は嬉しいことなのかもしれません。

    恋で悩み苦しむと言うのは、本当は幸福へのワンステップです。 それを乗り越えたなら~解決できたなら、それはあなたの恋が成就して幸せになっていると言う現実が待っているからです。

    好きな人がいつも心の中にいると言うのは、それはとても大事なことです。 好きな人との恋が実らないのは、相手もあることなので仕方がない場合もあります。

    しかし、好きな人がいないと言うのは、自分の心のセンサーが鈍くなっていることだから、いつか誰かが直してくれるのを待つのではなく、自分自身で修理して反応できるようにしないといけないのです。

    あなたは素敵な恋の前触れとして、好きな人が心の中にいますか?

    (ノ∇・、)クスン

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    夢の卵。

    私は昔から「夢みたいなことを言うな!」と先生や親や上司から叱られてきましたが、同じようなことを言われて辛い思いをしたり~悔しくて夜も眠れなかった人もいると思います。 しかし、夢を見ることにより心が活き活きしたり~夢を目指して努力する原動力と言うのは、とてもイイことだと思うのです。

    あの発明王のトーマス・エジソン氏は小学校の先生に問題児扱いされ~馬鹿にされて学校に通えませんでしたし、相対性理論のアルベルト・アインシュタイン氏も学校の先生とウマが合いませんでした。

    このように夢みたいなことばかり言っていた人が努力を続けた結果、今の先進国の暮らしぶりが存在しているのです。 これから考えると、学校の先生の評価や職場の上司の評価と言うのは、あくまで好き嫌いで決まる一時的な評価でしかありえないのです。 その人が持っている隠れた才能と言うのは、発揮されて活躍し始めるまで確定されたものではないのです。

    夢を語ると言うのは、時には人に馬鹿にされたり蔑まれたりするかもしれないけれど、夢に向かって行動できるあなたを見て羨ましいと思っているかもしれません。 行動できない人は行動できる人を見た時に、貶すか? 褒めるか? どちらを選択するかと言えば貶す方しかできないのです。

    相手の夢を認めてあげると言うのは、自分も夢を持っているからこそできるのであり、夢を持たない人は夢を持っている人のことを認められないのです。

    私はいじめられたことがプラスになったことのひとつに、「どうせ誰にも相手にされないんだから…。」 こう思っていたので、自分の考えたことはすぐに実行できたと言う部分があります。

    余りイイ例えではありませんが、遠足の時など一人でお弁当を食べるしかなかったので、自分がいいと思う景色の所で食べました。 学校での実験や工作も仲間外れだった為に、全て自分の考えでやることができたと言うのもあります。 これらは自分で考えて行動すると言うのを自然と身に付けたことになり、成功も失敗も自分の責任なので他人に転嫁できないと言うのを肌で感じることになったと思います。

    私が尊敬する物理学者の一人に、小柴昌俊さんがいます。 小柴さんは2002年にニュートリノに関しての研究でノーベル物理学賞を受賞された方ですが、小柴さんがよく言われるお話のひとつに、「心の片隅に、一つの小さな卵を持て」と言う言葉があります。 小柴先生は直接的に教えることはせずに、色々な角度から見てわかると言うような教え方をする人なので、心に卵だけでは意味不明だと思います。

    私なりの意味の解釈ですが、人はパンだけでは生きていけないので、心にやる気が出るような何かが必要です。 あなたがやりたいと思ったことや叶えたいと思った夢はあきらめずに、「心の片隅で忘れないように、卵(夢)を温めておきなさい」と言う意味だと思うのです。

    卵(夢)と言うのは、いつ孵るのかわからないし~どんなヒナが出てくるのかもわかりません。 卵の中身と言うのは、あなただけが持ち続けた夢の成果が姿形となって、世の中に大きく羽ばたくのです。

    人として生まれてきた以上は、自分の生まれてきた意味や使命を知りたいと思うのは普通の感覚だと思います。 しかし、何かを与えられたからやると言うのではなく、自分で何かをしたいと思わないようでは生命誕生の意味がないと思うのです。

    神様がくれた使命とは、この卵から夢と言う名のヒナを大きく成長させて、その夢が羽ばたくことにより、更に色々なことにつながっていくことが使命のひとつだと思うのです。

    今の日本では団塊の世代のような歳を取った人ほど夢がないなぁと思うのですが、年金~年金と自分が損しないようにと自分の取り分ばかり考えている、そんな人に何の魅力があるのかと思うのです。

    世界では年金どころか、今こうしている間にも水や食料がなくて飢えて死んでいく人や、働いても働いても奴隷としての扱いから抜け出せずに、教育や医療も受けられずに苦しんでいる人が何億人といるのです。 このような現実も知らずに年金の心配をして、自分だけは安泰でいたいと思う人を見て、どこが素敵なのかと聞きたいです。

    いつまでもそんなセコイ考えじゃ、夢さえも逃げていくような人間になってしまいます。

    世界の貧困の前では、年金を追い求める人の姿を見て「マザーテレサ」がどう思うのか、私は恥と言う言葉を知らない歳の取り方はしたくないと思います。 できることなら40~50~60歳と年齢を重ねるごとに、アフリカの子供たちや目の見えない人など誰かから尊敬されるような人生を歩んでいけたら、後悔の残らない人生を送ることができると考えています。

    あなたは自分の夢となる卵を、心の片隅で忘れずに温めていますか?

    ヾ(@⌒ー⌒@)ノ ヤッタネ!

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    子宮頸癌。

    おはようございます。 今日のブログはA4で3枚分程の内容なので、かなり長くなり読むのが大変だとは思いますが、できれば最後まで読んでいただきたいと思います。

    東京出張の時に新幹線の窓から大阪駅より乗ってくる人を何気なしに見ていると、向井亜紀さんが乗ってこられました。 ただし、私が向井亜紀さんを見た時に、ミーハー気分になったのではなく顔色や健康状態を、つい霊視で視てしまったのです。

    向井亜紀さんは、2000年9月に妊娠発覚と同時に子宮頸癌が発見され、同年11月21日広汎子宮全摘出手術を受けています。 そして、現在では講演活動などをされているのですが、その時に視えた向井亜紀さんの個人的な状態について書くことはできません。

    しかし、お客様の健康&御参考の為にも「子宮頸癌」について書いてみたいと思います。

    子宮頸癌(しきゅうけいがん)とは、子宮頸部と呼ばれる子宮の出口より発生する癌のことで、子宮癌の多くに該当します。 ほとんどの子宮頸癌はヒトパピローマウイルス(HPV)の長期間の感染により発症することが多いことが、最近の研究で明らかになっています。

    子宮頸癌の最大の特徴は「予防可能な癌」であるという点で、これは異形成(子宮頸癌になる前の病変)が発見可能なせいもあり、定期的な子宮頸癌検診により異形成の段階で発見&治療することで癌の発症を未然に防ぐことができます。

    HPVには100以上もの種類があるのですが、皮膚感染型と粘膜感染型の2種類にほぼ分類されます。 子宮頸癌は粘膜感染型HPVの中でも高リスク型HPVと呼ばれている、性交渉によって感染する一部のHPVが長期間感染することで引き起こされます。

    HPVは性交渉により感染するウイルスであり、性交経験のある女性では誰でも感染の可能性があります。 その為、彼や御主人が浮気や○○に行くことでウイルス感染して、それを彼女や奥様に移してしまい、その時はわからないまま10年程度潜伏して発病するケースも多々あるので、医師や看護師の中にも女性の責任と言う見解が多いのは的外れもいいところです。

    HPVに感染しても普通は免疫力によってHPVが体内から排除され、HPVの大半は2年以内に自然消失するのですが、約1割の人は持続感染化します。 HPVが持続感染化すると子宮頸部の細胞に異形成を起こし、さらに10年以上経過すると感染者の1%以下が異形成から子宮頸癌へと進行していくのです。

    症状として初期の子宮頸癌はほとんど自覚症状がないのですが、癌が進行すると不正出血が見られる場合もあります。 日本の子宮頸癌検診の検査法は細胞診とHPV検査で、いずれもWHOで子宮頸癌の検診検査として有効性が認められた検査法です。

    細胞診とは、子宮頸癌を疑うような異常細胞がないか判定する検査方法で、子宮頸部から採取した細胞を色素で染色して、異常細胞がないか顕微鏡で観察する検査法です。 細胞診による癌、または前癌病変の発見率は約70%とされています。

    HPV検査とは、子宮頸癌の原因である高リスク型HPV感染の有無を判定する検査で、細胞診と同様に子宮頸部から採取した細胞を用い、HPV感染を判定する検査法です。 30歳以上では1割弱がHPV陽性と判定され、HPV検査による癌や前癌病変の発見率は約95%とされています。

    なお、細胞診とHPV検査を併用した場合は、癌や前癌病変の発見率はほぼ100%とされているようです。 (検診の結果により精密検査を実施して、最終的な診断を行う場合もあります。)

    精密検査ではコルポスコープと呼ばれる拡大鏡を用いて子宮頸部粘膜表面を拡大し、観察するコルポ診と呼ばれる検査を行います。 その時に3~5%の酢酸を子宮頸部に接触させて変化するのを見たりします。 コルポ診で異常を疑う箇所がみられた場合は、その部分の組織を採取して組織診と呼ばれる病理学的検査をした後に確定診断を行います。

    私がこのように細かく書く最大の理由は、子宮頸癌は検診を定期的に受診することで「ほぼ確実に予防可能な癌」だからです。 また、HPV感染のうちいくつかの種類においては、ワクチンも存在しています。

    HPVは性交渉により感染するので他の癌と比べ発症する年代が若い世代にも多く、20代で発症するケースもあります。 HPVに感染してから異形成(前癌病変)になり、子宮頸癌を発症するまで平均すると10年以上の長期間を要します。 異形成は細胞診とHPV検査の併用による検診でほぼ確実に発見することが可能で、異形成は簡単な治療でほぼ完治します。

    だからこそ、子宮頸癌についての定期的な検診は受診して欲しいと思うのです。

    なお、異形成は程度に応じて軽度~中等度~高度に分類され、上皮内癌も高度異形成と同様の取り扱いになります。 軽度異形成はHPVが自然消失すると、それに伴い異形成も自然治癒する可能性が高いので通常は治療を実施しないことが多いです。

    中等度異形成は経過観察か~もしくは治療を行うのですが、治療法は病変部位を含め子宮頸部の一部分を円錐状に切除する円錐切除術が一般的です。 円錐切除術では子宮を切除することなく、ほぼ完治しますが再発の可能性も多少あります。

    子宮を残すことができるので術後の妊娠や出産にもほとんど影響はないとされていますが、頸管無力症などの合併症については発症の可能性があります。 (高度異形成の場合も同じく、円錐切除術等により治療を行うことがほとんどです。)

    子宮頸癌の進行期は軽度のものから順に、「0期~IA1期~IA2期~IB1期~IB2期~II期~III期~IV期」に分類され、0期は癌が粘膜層にとどまっている段階で、異形成と同様に円錐切除術で完治可能です。 Ia期は程度が軽い場合は円錐切除術で子宮を残すことが可能ですが、円錐切除術で病変を取りきれない場合は子宮全摘術を行います。 Ib期以降の進行癌の場合は、子宮以外にも卵巣や卵管~その周りのリンパ節などの臓器も摘出する必要があります。

    また、III期やIV期でも手術をすることがあるのですが、III期では動静脈を切断して靭帯の根部から摘出する術式が主であり、IVa期では膀胱や直腸なども摘出する術式が取られることもあります。

    私は病気について聞かれた時に、医師ではないことに加え~男性なので、女性に対して説明しづらい面があります。 男性なら遠慮なく詳しい症状についてお話できますが、女性に対して身体の症状は言いづらい為、詳しく言うのは憚られるのでごめんなさい。

    あなたは未病と言うべき、自分の身体を守ると言う意識がありますか?

    (八、)~~~==3

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    しなくてもいいこと。

    今日は日曜日なので、時間がゆっくり流れているかのように感じます。 PCの横には百合の花が咲いているのですが、この花を見ていると心が癒される感じがします。 百合は基本的に聖なる花とも言われ、浄化や癒しにも向いている花なのです。 花言葉は、無邪気とか純潔とかの意味があります。

    時の流れに身を任せていられるなら幸せですが、時間は無限ではなく有限なので「していいこと~しなくてもいいこと」の区別が必要になります。 余計なことをするから痛い目に遭う~不運なことになるなど、「しなくてもいいこと」に首を突っ込むから運命に逆らうことになる場合もあります。

    例えば、川をさかのぼるのは大変だし、登り坂ばかりを選んで歩くのも大変だと思うのです。 他にも運命が機嫌を損ねるかもしれない例えとして、道に咲いているお花やお店に飾ってあるお花が綺麗ならば、「キレイだね!」と言うヒトコトで良いと思うのです。

    それをイチイチ否定するようなことを言わなくてもいいし、その人が感じていることに対して皮肉るような真似はしないほうがイイと思うのです。 人が感じる感覚と言うのはそれぞれですが、だからと言って自分の感覚で相手のことをとやかく言うのは人としても問題です。

    プライドの高い人や皮肉屋さんに多いのが、相手のことを否定する行為や言動です。

    例えば、「プーさんなんか、全然可愛くない。 プーさんの、どこが可愛いの?」 こう思うのはその人の勝手ですが、全世界において可愛いと思う人の方が多い「プーさん」を、わざわざ可愛くないと否定しなくてもいいんです。

    自分がそう思うのなら心の中で思えばいいだけで、わざわざ相手の前で嫌味を言う必要はないのです。

    運が良い人の行動とは、桜が舞う中を歩いていて気持好いと思ったなら、そのまま素直に気持ち好いことを受け入れる、そのような自然で簡単なことなのです。 少なくとも常日頃から否定語が多い人は日常的に受け入れる事柄が少なくなり、やがては誰にも相手にされなくなるのです。

    「花がキレイね」と話しかけられたら、「そうですね、きれいですね。」
    「プーさんカワイイ」と話題が出たら、「プーさん、かわいいよね。」

    こうやって肯定しておけば、相手との摩擦も起きずに話が次々と進んでいくと思います。 本来の人生とは誰しも幸せなのですが、残念ながら余計なことをするばかりに「勝手に苦しくなっている」 それが本当なのかもしれません。

    仕事ひとつとっても、事務に向いている人が営業をしても上手くいかないし、営業に向いている人が事務をしても面白くない。 このように向き不向きを運命が教えてくれているのに、それに逆らい留まり続けるのは自ら不幸を招いていることになります。

    「しなくてもいいこと」 これは広い意味で色々と使えるのですが、人の生きている時間は限られています。 一日は24時間しかないのだから自分が「するべきこと⇔しなくてもいいこと」 この2つをきちんと使い分けないと、時間がいくらあっても足りないのです。

    ココで逆転の発想と言うのが必要になるのですが、語学を例にとって説明してみます。

    今や色々な語学教室が花盛りですが、人間的スキルアップや知識向上の為に勉強するのはとても素晴らしいです。 英語がしゃべれたら便利ですし、英語ができたら良いことも多いと思います。 だからと言って、英語ができないと成功や出世できないわけではありません。

    ココで発想の転換の一例ですが、英語を使った仕事と言えば翻訳や通訳と言う職業があります。 通訳の一日分のギャラと言うのは、普通の人では払えないくらい高額なので、通訳に仕事を依頼できる人とは会社の社長などトップクラスに限られます。

    と、言うことは…?

    社長とか会長とかトップクラスは英語がしゃべれない~もしくはそこまで英語に詳しいわけではないと言う事実があります。 逆に考えると、英語を勉強する時間を他のことに割り当てて、別なことをしていたから今の地位を築けているのかもしれません。

    英語を好きで勉強するのは良いことだし、英語のスキルアップも素晴らしいと思います。 しかし、やりたくもないのに「これからは国際社会だから~」と言う、世間的な常識に捕らわれていたのでは、その人の才能や可能性を潰してしまうかもしれません。 才能を使うのならいいけれど~才能を潰してしまうことになれば、それは時間の無駄使いになるのです。

    ただし、英語など語学を勉強するのはスキルアップの為には良いことなので、やりたい人はドンドンと語学の勉強をした方がいいので、語学の勉強をしなくていいと言っているわけではありません。

    ひとつの例として、素敵な未来を作る為に人間関係を潤滑にする。 マナーや礼儀を身に付けて周りの人に好かれたり~愛されたり~助けてもらえる、そういう人生も素晴らしいと思うのです。 (注:考え方にもよるので、これが正しいわけではありません。)

    高いプライドで相手を安く見て、最後には誰にも相手にされない状態になるのは、いくらお金があっても寂しい人生だと思います。

    あなたはしなくてもいいことに目を向けて、時間を失っていませんか?

    ( ̄□ ̄;)ガーン

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