
私は通常の移動(通勤や出張など)は電車を利用しているので、車に乗ることはほとんどありません。 車の免許は持っていますが、今後も車を買うことや運転することは余りないと思います。 ただし、台風や積雪の時は動かなくなるので、そういう時は車がイイ場合もあります。
先日の東京出張をした時に鉄道関係で岡山と感じた違いを言えば、地下鉄があるかどうかです。 もしも岡山に地下鉄があれば、積雪や台風の時でも関係なく動いているでしょうから利用者に影響が出ることも少なくなります。
東京で地下鉄に乗ると、ふと思い出したのが地下鉄の始まりです。 地下鉄などは公共的な面から国や地方自治体が建設や運営を行うのが筋ではありますが、日本の場合は個人が開業したのが始まりです。
地下鉄事業は東京で始まったのですが、早川徳次と言う人が自分の身を粉にして動いたおかげで東京の地下鉄網は出来上がったのです。 地下鉄と言うのは早川徳次がイギリスに行った時に、ロンドンの地下鉄と乗車風景を見て感銘を受けたのが地下鉄事業をするキッカケです。
早川徳次がイギリスに滞在した時、地下鉄に乗ろうとして駅員に止められました。 早川徳次は、「ガラガラなのに、どうして?」と聞いたところ駅員さんは、「椅子に座りゆったりとした状態で会社や家に向かうのなら、それは心にゆとりが出来て落ち着いた生活が出来るから、周りの人や家族に優しくできるようになります。」 このように答えたのです。
当時のロンドン地下鉄では、椅子に間を空けて座るとか~車内で立つことができるのは4人までという、暗黙のルールみたいなモノがありました。 その為に車内はガラガラに見えるのですが、ゆとりの生活と言うルールに従えばそれ以上の乗車はできないのです。
その時に早川の中に天啓のようなものが走り、自分のするべきことはこれだと思いました。そして日本に帰ってからは地下鉄建設を、当時の鉄道省や東京都に働きかけたのですが、まったく相手にされず「そんなもの誰が乗るんだ?」 こう言って馬鹿にされていました。
早川徳次の先見性は全然理解されず、仕方なく私営で建設することにしました。
色々な企業に打診したり投資家や金融機関などに融資を頼んだりして、なんとか「東京地下鉄道株式会社」を設立して1925年9月27日に浅草~上野間の地下鉄工事を始めました。 そして1927年12月30日に浅草駅⇒上野駅までを開業させたのが、日本の地下鉄の始まりです。 (現在でも東京地下鉄銀座線として、運行されています。)
開業当初はモノ珍しさもあり、お客様が長蛇の列となり投資家や金融機関への返済も順調でしたが、しばらくすると客足が落ちてきたので次なる手を考えました。
それは路線の延長で、次から次へと延長していくのですが早川徳次がアイディアマンなのは、これらの建設費用を打診したのが今度はデパートだったのです。 三越や高島屋など都心の主要デパートに掛け合い、「デパートの前に地下鉄駅を作る」から費用を出してくれと言ったのです。 東京の地下鉄は主要デパートの前か、もしくはすぐそばに駅があることが多いのはその為です。
それ以外でも、通勤客の為に定期券利用の人は駅入場時に朝刊を受け取れるというサービスを開始したり、資金繰りが悪化していた時でも難燃性の車両やホームの利便性には手を抜かないなど、現代の企業が見習わないといけないこともたくさんしています。
ただし、その後の早川徳次はどうなったかと言えば…?
地下鉄事業に旨味があるとわかった人たちが次々と市営地下鉄の免許申請を行い、次々と地下鉄網を広げて行きました。 そして五島慶太と言う実業家が乗り出してきたのが、運命の分かれ道になりました。
五島慶太とは実業家でありワンマン&傲慢で鳴らした頭の切れる人で、企業買収や乗っ取りなど功罪合わせて多種多様な手腕を発揮した人です。 強盗慶太という異名があるくらい情け容赦ない切り口や手口も使ったようです。 ただし、本人も「白昼札片を切って、堂々と強盗を働く。」と自ら豪語していました。
新橋駅の地下鉄乗り入れに関してぶつかった2人ですが、利益優先の五島氏とお客様サービス優先の早川氏では、水と油で混ざることはなかったのです。
注:新橋駅には、隠されたもうひとつの新橋駅があります。 この争いの時に作られたのですが、その存在は一般的には知られていませんし、今後使われることもないと思います。 新橋駅の某通路横に大きなシルバーの鉄製ドアがあり「関係者以外立ち入り禁止」となってるのが、幻の駅への出入り口です。 (今はどうかわかりませんが、昔は希望すれば見学できたようです。)
そしてこの2人の争いは熾烈を極めて、とうとう鉄道省(当時)が介入してきました。 しかし、鉄道省はこの争いを待っていたような節もあるのですが、当時の地下鉄事業の許認可書類には、「国の買収要求を拒めない。」と言う一文が必ず掲示してありました。 鉄道省は早川徳次に「取締役を退陣しろ」との要求を突きつけてきて、早川徳次は失意のまま地下鉄事業より一切手を引きました。
そして、地下鉄事業から手を引いた翌年、故郷の山梨で死去されました。(享年61歳)
海のものとも山のものともわからない時には手を出さずに、儲かるとわかれば自分の物にする。 (最後に一番得をしたのは誰かと言えば、早川でも五島でも利用するお客様でもありませんね。)
そして地下鉄事業は営団地下鉄からメトロになり、色々な人を乗せて~色々な想いを運んでいます。 東京出張の際に地下鉄に乗っていると、ふとこんな話を思い出してしまいましたが、まさに「人に歴史あり」です。
あなたの中にある想い出には、どのような1ページを刻んでありますか?
(?O?) ナルホドォ~?
先日の東京出張をした時に鉄道関係で岡山と感じた違いを言えば、地下鉄があるかどうかです。 もしも岡山に地下鉄があれば、積雪や台風の時でも関係なく動いているでしょうから利用者に影響が出ることも少なくなります。
東京で地下鉄に乗ると、ふと思い出したのが地下鉄の始まりです。 地下鉄などは公共的な面から国や地方自治体が建設や運営を行うのが筋ではありますが、日本の場合は個人が開業したのが始まりです。
地下鉄事業は東京で始まったのですが、早川徳次と言う人が自分の身を粉にして動いたおかげで東京の地下鉄網は出来上がったのです。 地下鉄と言うのは早川徳次がイギリスに行った時に、ロンドンの地下鉄と乗車風景を見て感銘を受けたのが地下鉄事業をするキッカケです。
早川徳次がイギリスに滞在した時、地下鉄に乗ろうとして駅員に止められました。 早川徳次は、「ガラガラなのに、どうして?」と聞いたところ駅員さんは、「椅子に座りゆったりとした状態で会社や家に向かうのなら、それは心にゆとりが出来て落ち着いた生活が出来るから、周りの人や家族に優しくできるようになります。」 このように答えたのです。
当時のロンドン地下鉄では、椅子に間を空けて座るとか~車内で立つことができるのは4人までという、暗黙のルールみたいなモノがありました。 その為に車内はガラガラに見えるのですが、ゆとりの生活と言うルールに従えばそれ以上の乗車はできないのです。
その時に早川の中に天啓のようなものが走り、自分のするべきことはこれだと思いました。そして日本に帰ってからは地下鉄建設を、当時の鉄道省や東京都に働きかけたのですが、まったく相手にされず「そんなもの誰が乗るんだ?」 こう言って馬鹿にされていました。
早川徳次の先見性は全然理解されず、仕方なく私営で建設することにしました。
色々な企業に打診したり投資家や金融機関などに融資を頼んだりして、なんとか「東京地下鉄道株式会社」を設立して1925年9月27日に浅草~上野間の地下鉄工事を始めました。 そして1927年12月30日に浅草駅⇒上野駅までを開業させたのが、日本の地下鉄の始まりです。 (現在でも東京地下鉄銀座線として、運行されています。)
開業当初はモノ珍しさもあり、お客様が長蛇の列となり投資家や金融機関への返済も順調でしたが、しばらくすると客足が落ちてきたので次なる手を考えました。
それは路線の延長で、次から次へと延長していくのですが早川徳次がアイディアマンなのは、これらの建設費用を打診したのが今度はデパートだったのです。 三越や高島屋など都心の主要デパートに掛け合い、「デパートの前に地下鉄駅を作る」から費用を出してくれと言ったのです。 東京の地下鉄は主要デパートの前か、もしくはすぐそばに駅があることが多いのはその為です。
それ以外でも、通勤客の為に定期券利用の人は駅入場時に朝刊を受け取れるというサービスを開始したり、資金繰りが悪化していた時でも難燃性の車両やホームの利便性には手を抜かないなど、現代の企業が見習わないといけないこともたくさんしています。
ただし、その後の早川徳次はどうなったかと言えば…?
地下鉄事業に旨味があるとわかった人たちが次々と市営地下鉄の免許申請を行い、次々と地下鉄網を広げて行きました。 そして五島慶太と言う実業家が乗り出してきたのが、運命の分かれ道になりました。
五島慶太とは実業家でありワンマン&傲慢で鳴らした頭の切れる人で、企業買収や乗っ取りなど功罪合わせて多種多様な手腕を発揮した人です。 強盗慶太という異名があるくらい情け容赦ない切り口や手口も使ったようです。 ただし、本人も「白昼札片を切って、堂々と強盗を働く。」と自ら豪語していました。
新橋駅の地下鉄乗り入れに関してぶつかった2人ですが、利益優先の五島氏とお客様サービス優先の早川氏では、水と油で混ざることはなかったのです。
注:新橋駅には、隠されたもうひとつの新橋駅があります。 この争いの時に作られたのですが、その存在は一般的には知られていませんし、今後使われることもないと思います。 新橋駅の某通路横に大きなシルバーの鉄製ドアがあり「関係者以外立ち入り禁止」となってるのが、幻の駅への出入り口です。 (今はどうかわかりませんが、昔は希望すれば見学できたようです。)
そしてこの2人の争いは熾烈を極めて、とうとう鉄道省(当時)が介入してきました。 しかし、鉄道省はこの争いを待っていたような節もあるのですが、当時の地下鉄事業の許認可書類には、「国の買収要求を拒めない。」と言う一文が必ず掲示してありました。 鉄道省は早川徳次に「取締役を退陣しろ」との要求を突きつけてきて、早川徳次は失意のまま地下鉄事業より一切手を引きました。
そして、地下鉄事業から手を引いた翌年、故郷の山梨で死去されました。(享年61歳)
海のものとも山のものともわからない時には手を出さずに、儲かるとわかれば自分の物にする。 (最後に一番得をしたのは誰かと言えば、早川でも五島でも利用するお客様でもありませんね。)
そして地下鉄事業は営団地下鉄からメトロになり、色々な人を乗せて~色々な想いを運んでいます。 東京出張の際に地下鉄に乗っていると、ふとこんな話を思い出してしまいましたが、まさに「人に歴史あり」です。
あなたの中にある想い出には、どのような1ページを刻んでありますか?
(?O?) ナルホドォ~?

