徒然草(岡山・東京・山崎かずみ)

    あなたを元気にしたい、それが私の願いです。

    地下鉄。

    私は通常の移動(通勤や出張など)は電車を利用しているので、車に乗ることはほとんどありません。 車の免許は持っていますが、今後も車を買うことや運転することは余りないと思います。 ただし、台風や積雪の時は動かなくなるので、そういう時は車がイイ場合もあります。

    先日の東京出張をした時に鉄道関係で岡山と感じた違いを言えば、地下鉄があるかどうかです。 もしも岡山に地下鉄があれば、積雪や台風の時でも関係なく動いているでしょうから利用者に影響が出ることも少なくなります。

    東京で地下鉄に乗ると、ふと思い出したのが地下鉄の始まりです。 地下鉄などは公共的な面から国や地方自治体が建設や運営を行うのが筋ではありますが、日本の場合は個人が開業したのが始まりです。

    地下鉄事業は東京で始まったのですが、早川徳次と言う人が自分の身を粉にして動いたおかげで東京の地下鉄網は出来上がったのです。 地下鉄と言うのは早川徳次がイギリスに行った時に、ロンドンの地下鉄と乗車風景を見て感銘を受けたのが地下鉄事業をするキッカケです。

    早川徳次がイギリスに滞在した時、地下鉄に乗ろうとして駅員に止められました。 早川徳次は、「ガラガラなのに、どうして?」と聞いたところ駅員さんは、「椅子に座りゆったりとした状態で会社や家に向かうのなら、それは心にゆとりが出来て落ち着いた生活が出来るから、周りの人や家族に優しくできるようになります。」 このように答えたのです。

    当時のロンドン地下鉄では、椅子に間を空けて座るとか~車内で立つことができるのは4人までという、暗黙のルールみたいなモノがありました。 その為に車内はガラガラに見えるのですが、ゆとりの生活と言うルールに従えばそれ以上の乗車はできないのです。

    その時に早川の中に天啓のようなものが走り、自分のするべきことはこれだと思いました。そして日本に帰ってからは地下鉄建設を、当時の鉄道省や東京都に働きかけたのですが、まったく相手にされず「そんなもの誰が乗るんだ?」 こう言って馬鹿にされていました。

    早川徳次の先見性は全然理解されず、仕方なく私営で建設することにしました。

    色々な企業に打診したり投資家や金融機関などに融資を頼んだりして、なんとか「東京地下鉄道株式会社」を設立して1925年9月27日に浅草~上野間の地下鉄工事を始めました。 そして1927年12月30日に浅草駅⇒上野駅までを開業させたのが、日本の地下鉄の始まりです。 (現在でも東京地下鉄銀座線として、運行されています。)

    開業当初はモノ珍しさもあり、お客様が長蛇の列となり投資家や金融機関への返済も順調でしたが、しばらくすると客足が落ちてきたので次なる手を考えました。

    それは路線の延長で、次から次へと延長していくのですが早川徳次がアイディアマンなのは、これらの建設費用を打診したのが今度はデパートだったのです。 三越や高島屋など都心の主要デパートに掛け合い、「デパートの前に地下鉄駅を作る」から費用を出してくれと言ったのです。 東京の地下鉄は主要デパートの前か、もしくはすぐそばに駅があることが多いのはその為です。

    それ以外でも、通勤客の為に定期券利用の人は駅入場時に朝刊を受け取れるというサービスを開始したり、資金繰りが悪化していた時でも難燃性の車両やホームの利便性には手を抜かないなど、現代の企業が見習わないといけないこともたくさんしています。

    ただし、その後の早川徳次はどうなったかと言えば…?

    地下鉄事業に旨味があるとわかった人たちが次々と市営地下鉄の免許申請を行い、次々と地下鉄網を広げて行きました。 そして五島慶太と言う実業家が乗り出してきたのが、運命の分かれ道になりました。

    五島慶太とは実業家でありワンマン&傲慢で鳴らした頭の切れる人で、企業買収や乗っ取りなど功罪合わせて多種多様な手腕を発揮した人です。 強盗慶太という異名があるくらい情け容赦ない切り口や手口も使ったようです。 ただし、本人も「白昼札片を切って、堂々と強盗を働く。」と自ら豪語していました。

    新橋駅の地下鉄乗り入れに関してぶつかった2人ですが、利益優先の五島氏とお客様サービス優先の早川氏では、水と油で混ざることはなかったのです。

    注:新橋駅には、隠されたもうひとつの新橋駅があります。 この争いの時に作られたのですが、その存在は一般的には知られていませんし、今後使われることもないと思います。 新橋駅の某通路横に大きなシルバーの鉄製ドアがあり「関係者以外立ち入り禁止」となってるのが、幻の駅への出入り口です。 (今はどうかわかりませんが、昔は希望すれば見学できたようです。)

    そしてこの2人の争いは熾烈を極めて、とうとう鉄道省(当時)が介入してきました。 しかし、鉄道省はこの争いを待っていたような節もあるのですが、当時の地下鉄事業の許認可書類には、「国の買収要求を拒めない。」と言う一文が必ず掲示してありました。 鉄道省は早川徳次に「取締役を退陣しろ」との要求を突きつけてきて、早川徳次は失意のまま地下鉄事業より一切手を引きました。

    そして、地下鉄事業から手を引いた翌年、故郷の山梨で死去されました。(享年61歳)

    海のものとも山のものともわからない時には手を出さずに、儲かるとわかれば自分の物にする。 (最後に一番得をしたのは誰かと言えば、早川でも五島でも利用するお客様でもありませんね。)

    そして地下鉄事業は営団地下鉄からメトロになり、色々な人を乗せて~色々な想いを運んでいます。 東京出張の際に地下鉄に乗っていると、ふとこんな話を思い出してしまいましたが、まさに「人に歴史あり」です。

    あなたの中にある想い出には、どのような1ページを刻んでありますか?

    (?O?) ナルホドォ~?

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    ウマが合う。

    おはようございます。 今朝の事務所内は陽の光が綺麗に差し込んできて、素敵なお客様の運命を表しているようです。 人生を歩んでいると辛い時や悲しい時もあるけれど、それは楽しい時や嬉しい時に感動を味わう為のスパイスなのかもしれません。

    朝起きて「今日もあの人の顔を見るのかぁ~?」と、会社に行くのが嫌な時もあると思いますが、人間関係においてウマが合わない人とは無理に関係修復しない方がいいのです。

    ウマが合うとか~合わないとか人間関係の中でよく耳にする言葉ですが、ウマが合うとはどういうことかとあらたまって聞かれると明確には答えられないと思います。 ひとつの答えとして、「意気投合するとか、気が合うとか、相性が良いとか」 そんな関係を指してウマが合うと言います。

    辞書で引くと、「ウマが合う=気が合う」であり、気が合うの意味は考え方や感じ方などが同じと書いてあります。

    人間関係においてウマが合うと言うのは、少なくともマイナスにはなりません。 嫌いな人と一緒に仕事をするよりも、好きな人と一緒に仕事をする方が気持ち好くできます。 しかし、社会生活においては全部が全部そういうわけにも行かず、ウマが合わない人と同じ部署やチームに所属させられることもあります。

    そうしてウマが合わない人同士が同じ場所や世界に居ると、気付かないうちにお互いを傷つけあってしまうのです。

    アヤシイ?霊視カウンセラー的に考察すると、ウマが合う⇔合わないと言うのは理解度の差じゃないかと思います。 一緒の場所に居る人がどういう考えや思いでいるのかを、キチンと理解してあげることができるかどうかで、ウマが合うレベルも変わってくると思います。

    例えば仕事上でも、色々世話を焼いてくれることをお節介と思うのか、親切でしてくれていると思うのかで、相手に対する印象は違ってきます。 自分からするとお節介でも相手は親切のつもりだとしたら、そこには感情の行き違いが出てきます。 そして片方は「余計なことを…。」 もう片方は「してあげているのに…。」 こうなるとどちらも自分が正しいと考えてしまいます。

    そこには当然、人である以上は好き嫌いの感情が入ります。 そして嫌いとなると、もうその人がすることが全て嫌いに見えてきて、どうにもならない状態に気持ちが陥ります。

    ウマの合う人でも感情の行き違いが起こり、口論になることもあります。 気分が悪いとか~カチンときたとか、お互いが反目しあうことだってあります。 しかし、ウマが合うと言うのは、その時は不愉快であろうとも時間がすぐに解決してくれて、明日か明後日にはまた普通に話ができるようになっています。

    ウマが合わない状態と言うのは、気に入らない部分を探して許さない方へ進んでいきます。
    ウマが合う状態と言うのは、相手の良い部分を見つめて許す方へ進んでいきます。

    人には有限なものがたくさんあり、無理なことや無駄なことに有限なことを使うのはもったいないのです。 話のわからない人に理解を得る為に時間を費やすのなら、話を理解してくれる人に更なる理解を深めてもらう方が良い場合だってあります。

    どんなに社交性が豊かでも~どんなに人当たりがよくても、苦手な人と言うのは必ずできてきます。 自分がどんなに上手くやろうとしても、上手く付き合えない人は存在するのです。

    それは不思議なことですが、実は不思議でもなんでもないかもしれない。 何故なら、あなたが苦手だと思う人は、相手もあなたを苦手に思っていることがほとんどです。

    では、何故お互い苦手かと言えば、もうそこにあるのは理解しあえない「何かがある」としか説明できないのです。

    一方の人達からすると自慢ばかりする嫌味な人に見えても、もう一方の人達から見ると物知りで色々教えてくれる人となるかもしれないのです。 自分ではなんでもないことを、相手はものすごく嫌がり怒ってしまう。 そういう経験は誰しもあるのですが、それは生まれた時からの生活習慣とか考え方とか、お互いが相容れない溝のようなものです。

    もしも、同じ職場に10人の人がいたとして、その10人が思う理想像になるなんて無理です。 10人いれば10通りのあなたを求めてくるので、カメレオンのようには変身できないのです。 ですから、苦手な人や嫌な人には近づかないというのが原則で、ここまでと言う一定の距離感を持つのが大事なのです。

    同じ時間を共有できたり、同じ感動を共に共感できるなら、それは素晴らしい親友とか、素晴らしい彼(御主人)となりえるでしょう。 ですから、ウマが合わない人や苦手な人と無理に近づいて、同じように上手くやろうと考えないのがベストなのです。

    PCが得意な人もいれば話しが上手な人もいますし、国語が好きな人もいれば数学が好きな人もいます。

    このように人には向き不向きがあるので苦手な人と思わずに、タマタマ「自分には向かない人」と思うだけでもいいのです。 一度話したぐらいではわからないと思うのであれば、何度でもチャレンジしてみればいいのですが、一度ウマが合わない人と時間の経過やその他の何かでウマが合うようになるということはありません。

    そんな気苦労をする前に~相手が不愉快になる前に、相手との関係に距離を保ち早々にオイトマするのが一番平穏無事なのです。

    あなたは自分に無理してまで、人付き合いを上手く行かせようとしていませんか?

    (・_・?) ハテ? (;_;?) ワケワカメ・・・?

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    花色。

    好きな人の気持ちを手に入れたいと思うのならば、それは表面的なものなのか~中にある本当の部分なのか、それを見極めないと始まらないのです。

    氷の中にあるハートマークは、見ることはできるけれど触ることはできない。 暖かな光で溶かしていくことで周りにある氷が無くなり、ようやく触れることができるのです。 彼の心が氷に包まれている時には、いくら問いかけても返事はありません。

    彼の返事を聞きたいのなら、氷を溶かす努力が必要なのです。 例えるならば…。

    今年のバレンタイン、チョコって甘くないと感じる時もあると初めて知った。 愛の告白の日にお別れを言われるなんて思ってもいなかったし、この日は仕事だって言う言葉を信じていた。

    アナタと過ごす時間の中で、どれだけ愛せるかと言うくらい短い時間しかアナタを愛することを許してもらえなかった。 手をつないでアナタと歩くのがとても嬉しくて、寒くても手袋せずに手をつないでいたの、わかってくれてたのかな?

    初めて手をつないだ時に、「キミの手を握ると、暖かいね…。」 彼が言ってくれたヒトコトが、わたしの心に響いてくる。 決して変わらない筈なのに、どうして心が彼の方を見てしまうのかな…。

    アナタには彼女がいると、ずっと思っていた。
    好きになっちゃいけない人だと、思っていた。

    でも、「えっ、今は彼女いないよ。」

    この言葉で、気持ちが揺れ動き始めた。 夢に見たアナタのシャツがまぶしく見えるのは、アナタへの気持ちを正直に出してイイってことなのかな。 本音の部分ではわからないけれど、わたしの前で彼女がいないと話してくれるのは、わたしにチャンスがあると教えてくれているの。

    彼の気持ちがわからない、いつだって迷わすことばかりで、正直言ってどうすればイイのかわからない。

    初めてつないだ手を離した時に、彼は反対側のホームで手を振っていた。 わたしも精一杯の笑顔で手を振っていたけれど、好きな気持ちをうまく伝えられなくてホントは泣いてたんだよ。

    一緒にいるだけで楽しいと感じてたんだけど、いつの頃からか一緒にいることが辛くなり始めた。 愛してるというヒトコトの意味が、ずっと胸の中を貫き続けたから、出会ったことさえ間違いなのかと考えたことすらあったの。

    アナタの横で、アナタのそばで、ずっとずぅ~っと、笑っていたかったんだけど、それはもう無理です。 苦しくて苦しくて、本当に好きだった分だけ苦しさが増していく。 この気持ちは、冬が終わり春がくる今でも雪と共に消えてしまいたいくらい切ないの。

    いくらわたしがあなたのことを想っていても、あなたはわたしのことを思うことすらしてくれないんですね。

    もっとしてあげたいことが一杯あったし、もっとして欲しいことだってあった。 もっと話しをしたいこともあったし、もっともっとアナタの話が聞きたかった。 わたしは欲張りだから、アナタをわたしだけのものにしたかったんだけど、アナタはわたしだけのものになりたくなかったんだね。

    どうしても、わたしじゃ駄目ですか?
    どうして、わたしじゃ駄目なんですか?

    わたしが悲しくて泣いている今、アナタの隣で誰かが笑っているなんて考えると、アナタが誰かの横で微笑んでいるなんて思うと、とても心が苦しくなるのです。

    もしかしたら、間違い電話のふりして「やり直そう」と言ってくれるかもなんて、淡い期待をしていたけれど掛かってこないTEL。 夢のような儚い期待だったけれど、夢は夢のままで終わりそうだから、この気持ちのやるせなさが夢であったならと思った。

    付き合い始めた頃は、アナタの為なら何でもできると思っていた。 本当に何でもしてあげようと思ったけれど、彼女のままでいることはできなかった。 アナタに似合う女性になろうと努力したけど、アナタが好きになる女性はわたしがなれない人ばかりだった。

    神様、お願いだから彼にとっての一番にしてください。 毎日毎日こうやってお願いしていたけれど、アナタの一番になることはできなかった。

    雪解けの水の流れのように、あなたの思いは儚く流れていったのかもしれない。 けれど、わたしは春になると花が開くように、恋に対する想いが素敵に咲き誇る日を持ちわびている。

    どんな素敵な想い出も心にしまっているうちに、いつの間にか消化できていると思うのです。

    あなたの恋は、どんな花色に咲き誇ると思いますか?

    グスグス (><。)。。

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    決断。

    運命において「今が勝負のしどころ」とか「ここで決断の時」など、運命の分かれ道にどちらを選ぶのかで大きな差が出てしまいます。 運命や人生において悩み悩みと言うけれど、本当に悩んでいるのは何を悩んでいるのかを掴んでいないと、余計に悩みを増やしてしまいます。

    例えば、食事が美味しいと言うのはヒトコトでは表せないくらい、多種多様な理由があります。

    食事の素材が、美味しいのか?
    食事を作った人の腕が良いから、美味しいのか?
    お腹が空いているから、美味しいのか?

    このように美味しいと言う現象の元はいくらでもあり、その中身はまるで別物なのにヒトコトで表そうとするから無理があるのです。 悩みの本質を掴まずに解決しようと言うのには無理があり、その無理と言うことすらわからない場合は、堂々巡りで解決できない道をひたすら歩いてしまうのです。

    つまり、病名もわからずに薬を飲んでいるようなものであり、ひょっとして風邪なのに腹痛の薬を飲んでいるのかもしれません。

    私はダメなら方向転換や方針変更は悪いことじゃなく、むしろ良いことだと思います。 悪いとわかっていながら、突き進むのは勇気ではなく無謀と言うのです。

    例え話ですが、あるお金持ちが愛娘の彼を婿として、自分の家に迎え入れたとします。 そして、家柄やメンツがあるので彼が勤めたいた会社を辞めさせ、そしてお店を出させて「自営業者の奥様」と言うブランドを作り上げたとします。 しかしコレは、彼が歩むべき元々の道ではなく相手の家が資産により作り上げた道です。

    お店に対しての初期投資が5千万円で開店後も毎月赤字を50万円づつ出しながら、それでも「経営者の奥様」と言うブランドを大事にしていくのは、お金があるからできることであり無謀と言うより他ないのです。

    これは例え話で実際にココマデする人はいないと思いますが、「家柄やメンツを大事にする」ことと「二人の幸せな結婚生活」と言うのは別物なのに、ひとくくりにしてしまうからこうなると言う例え話です。

    先ほどの話は「ここが決断の時」と言うお話ですが、もうひとつ「今が勝負のしどころ」と言う例え話もして見たいと思います。

    ある女性が女性服販売店に勤めていて、店長や同僚にいじめられながら一番下の雑用係として働いていました。 しかし、彼女はいじめられるうちに「自分でお店を出せば、もういじめられなくなる。」 こう考えて、経営の勉強と資金作りの為に貯金を始めました。

    そして、2年間の勉強と貯金により知識とお金の元手を作り、いよいよお店を出すことを決めました。 彼女がお店を出すと決めている候補地は2つあり、岡山県と六本木のどちらに出そうかと思案していました。

    岡山県に出せば友人や知人もいるし、知っている場所(土地)だから不安も少ない。
    六本木に出せば誰も知らないし、知らない場所(土地)だから不安が一杯。

    岡山県なら知り合いが来てくれるかも知れないし、もし困っても誰かが助けてくれるかもしれない。 六本木なら店長について仕入れに行ったことはあるけれど、問屋さんに行ったことがあるだけで全然知らないから、もしもの時には誰も助けてくれない。 このように迷いに迷った末に六本木へお店を出すことに決めて、住んでいる所も引き払い~家具や車など全て売りはらい背水の陣で臨みました。

    誰の知らない場所(土地)で誰にも頼れないという道を、彼女は何故選んだのかと言えば「自分を変える為には、全部リセットしないと何も変わらない。」 

    この女性曰く、「岡山県でも六本木でも、小さなお店しか出せないのは同じこと。 同じようなお店なら、自分が住んでみたいと思えるところにお店を出してみたい。」 それ以外にも、六本木にお店を出すと言うのはいじめられていた過去や雑用係だった過去に、お別れする為には必要なことだったのかもしれません。

    東京に出て2年が経過した今、最初はひとりで始めたお店も今は従業員の人が1人増えて、悠々自適の生活をしています。 確かに「タマタマうまく行っただけ」と言う人がいるかもしれませんが、この女性が岡山県にお店を出していても成功していた保障はないのです。 ただ、チャレンジする勇気があったからこそ、運命が応援してくれたと思うのです。

    「ここが勝負のしどころ」 これは誰にもあるのですが、その勝負のしどころを見逃して、後から「しておけばよかった」と思うのが人生の悔いとして心に残るものなのです。

    人生をかけた勝負と言うのは勇気がいることですが、乗り越えたならそれはハイリターンがあると言うことでもあります。 リスクが少なくリターンが多いというのは、夢物語であり勝負できないなら、その戻りが少なくても仕方がないのです。

    あなたは人生において、勝負のしどころを見極めていますか?

    (°_°;)ハラハラ(; °_°)

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    初恋。

    今日は月曜日なので仕事始めの方も多いと思いますが、素敵な週の始まりなので良いことがあると思って楽しい週にしてくださいね。

    人には好みと言うものがありますが、「コレが決まり」と言う好みは誰にもありえないと思います。 それは好みとは変化する不確かなものであり、いつまでも続くものでもないからです。 例えるなら、子供の時はピーマンが苦手でも~大人になって焼肉に行くようになれば逆に必要とする感じです。

    恋に落ちる時だってそうで、「好みじゃないのに、何で好きになったのかな?」と言うのが恋の本質だと思うのです。

    恋とは頭でするものじゃなく、理屈でするものでもないと言うのが「恋」なんです。

    人を好きになるというのは、ひとつのことだけ好きになれたらいい。 100ヶ所のうち99ヶ所は嫌いでも、たったひとつだけ好きな部分があれば充分なのです。 そのひとつが99の部分を凌駕しているのならば、それは恋に落ちるのに充分な理由になるのです。

    恋愛においてテクニックとは小手先のことであり、中身を好きになってくれるわけじゃないのです。 人が人を好きになるというのは、自分側から見るのか~相手側から見るのかで、その恋の中身も違ってくるのです。

    初恋とヒトコトで言うけれど、初恋とは心に残る想い出であり~現在進行形の恋でもあります。

    「たった一度の初恋。」 確かに初恋は一度かもしれないけれど、それは自分側から見たことだけであり、私にとって恋とは「いつも初恋」であると考えています。

    それは、「恋する相手」が違うからです。

    Aさんのことが気になり始めたら、それはAさんとの「初恋」が始まったと言うこと。
    Bさんのことが気になり始めたら、それはBさんとの「初恋」が始まったと言うこと。

    恋する相手が違う以上は「常に初恋」であると考えるのが、相手の側に立った恋愛だと思うのです。

    自分の人生において最初に好きになった人が初恋と言うのは自分の人生だけ見ている状態であり、相手の人生を見て好きになれるのならば「目の前にいる相手が初恋」でいいと思うのです。

    過去において誰を好きだったのかと言うのは関係なく、今の目の前にいる相手を好きになれないのであれば、それは相手に失礼な恋をしているのです。

    出会いがないと言うのは行動していないというのと同じであり、自由に動くことができて誰とでも接点が持てるのは日本の良い部分だと思います。 隣の県に行くのに報告がいるとか、男性と会うのに許認可がいるとか、そんなことはないのだから出会いはあります。

    ここで言う出会いとは合コンやナンパやお見合いを言うのではなく、自分に応じた人と出会う為のことです。

    例えば、イイ男と言うのはゴロゴロいますし、そういう人に彼女がいないと言う場合もちゃんとあります。 人は生まれた時から考えてみても、全て「独身から始まり~相手と出会い~結婚する」と言う過程を踏んでいるのです。

    つまり、どんなに良い男性でも~どんなに良い女性でも、最初は独身でフリーであると言う現実に目を背けてはいけないのです。

    良い恋愛の基本とは、「他人との出会いを面倒くさがらない。」 これ一点に尽きるのです。 誘いがあっても気が乗らない~遊びに行くのも興味がない、お金と時間がないから旅行に行けない、このようにやらない為の理由はいくらでも見つけられるのですが、やる為の理由を見つけない=良い恋ができないと言う同義語でもあるのです。

    一度に色々なことはできないと思いますが、もしも良い恋がしたいとか~素敵な人に出会いたいと思うのならば、ひとつだけでも守ってほしいことがあります。

    それは異性と言うものを、キチンと意識することです。 恋愛モードに入ると言うのは、自分が男性とか女性とかをキチンと認識すると言うのができていないと無理です。 これをするのは簡単ですが、気付くのは難しいのです。

    しかし、一度でいいから幸せな恋愛モードに入ってしまうと、次から次へとイイ出会いしか起こらなくなります。 そうなると恋ができないと言うのが不思議なくらいになるのですが、その域に達するのは自分の努力以外にはありえないのです。

    あなたは恋をするのが、面倒くさいと敬遠していませんか?

    ○┼< ○卍クルッ ミ(ノ^^)ノ スチャッ!受身成功

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    未来で。

    おはようございます。 先ほどまで雪が降っていたのですが、光が差し込んできたので良い天気になるようです。 私はお店や会社にお客様がいない辛さや寂しさは、誰よりもわかっているので、今日もお客様が来てくださることにものすごく感謝しています。

    実の親よりもお越しくださるお客様の方が、支援や助けになってくださっていると言う実感もあります。 私の親子関係は別として、普通は親が子供に愛情を持って育てていきます。 そして高校や大学や専門学校など、進学や進路においてお金を出してくれて邪魔することもありません。 (普通に感じることが、実は幸せなことでもあります。)

    高齢化社会における老人の孤独死などが社会問題としてよく取り上げられますが、「どうしてそうなったのか?」 その理由が個人別にあるのです。 (親と子供の関係は、その成長過程において親の教育と子供の感性と両方が関係しています。)

    普通の感覚ならば親に大切に育ててもらったのだから、その親が認知症など何らかの病気や障害が起こった時にお世話をするのは、今までの育ててもらった愛情に報いる為にも当たり前だと思うのです。

    私自身は人にどうこう言えるようなことをしていないので、「山崎、オマエは親を大切にしていない!」と言われたなら、そうかもしれません。 ただ、私は親が作った借金を返し続けているので、親が贅沢な生活を続けるのを維持はしていると思います。 私の親は反省の色もなく今でも借金を作り続けていますが、コレはもう宿命かなぁ~? (もうネタにして、笑い飛ばすしかないですね。)

    そして一応は育ててもらった恩があるので、借金に対して何も文句を言わずに黙って払い続けています。 ただし、時々思うのは「父が馬鹿な借金を作らなければ、その分を寄付に回せるのになぁ~。」 これだけは残念です。

    ところが世間には、親に大切に育ててもらいお金を使い放題で使い、挙句の果てには親の家業を継いでいきなり社長など役員待遇になり、楽な道ばかり歩いている人がいます。 それだけ親の保護と支援があるにもかかわらず、親が年老いてくると足蹴にしたり追い出したりと酷いことをする子供(息子)がいるのですが、それもまた人生の縮図だと思います。

    こういうことを見聞きしても、人には色々な見方があるので、「なんて酷い息子だ!」と言う人もいれば、「そりゃ仕方がない、自分が育てた息子だ。」と言う人もいるので、どちらも正論かもしれません。

    ただし、自分の親が認知症だからといって、怒鳴りつけて蹴ったり殴ったりして、挙句の果てには夜だというのに外へ追い出してしまうような息子が、人として正しいとは言えないと思います。 認知症の親で苦労しているのは、自分が幼い頃に受けた愛情の恩返しだと思わないと、それは人としての道を外れている&迷っていると言うことです。

    色々な思いはあるでしょうが「許す」と言う行為が出来るかどうかで、人間の器が決まってくると思うのです。 誰かに対して「怒る」よりも「許す」という行為が出来たなら、それはあなたが運命の祝福を受ける準備が整ったということです。

    親についてのことをコマゴマ書いているのは、このブログを読んでいる人に自分の御主人の行いを見て欲しいと思ったからです。 自分の御主人が親にしていることが、未来で奥様に跳ね返ってくる可能性があるからです。

    例えばの話ですが、自分の母親に酷い言葉を浴びせたり~蹴ったり殴ったりする御主人がいたとします。 そういう御主人と暮らしている奥様の未来は、同じ目に遭うと思っておいた方がイイです。 「私は愛されている。」とか「私にはしないだろう?」と思うのは早計で、そんな思いやりのない御主人が奥様を大事にするとは思えません。

    御主人が実の親にする行いを、今一度よく見て下さい。

    もしも、怒鳴りつけているのなら、未来で怒鳴られるのは奥様(子供)です。
    もしも、殴る蹴るの暴行を働くなら、未来で殴る蹴るをされるのは奥様(子供)です。
    もしも、家から追い出したなら、未来で追い出されるのは奥様(子供)です。

    注:これはあくまで普通に親の恩恵を受けて育った人のことであり、親に虐待を受けたり私のような目に遭っていた人は別です。

    私は色々な夫婦や恋人の人生模様を見ていますが、今取っている態度は今の時点でのことです。 状況が変わればどうなるかわからないし、未来でどのような変化を起こすのかは、その人の心理状態や本質部分にもよるのです。 先祖の怒りや前世のカルマなんて、一切関係ありません。

    ところが本性と言う言葉があるように、その人の本質の部分において変わるということはありません。 心が真っ黒で私利私欲に走る人が品行方正で真面目になるの難しく、心が真っ白で世の為人の為に役立っている人が急に悪くなるなんてことも難しいのです。

    あなたは自分の未来において、自分がどうなっているのかを考えたことがありますか?

    (;-_-;) ウーム

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    山口県光市。

    おはようございます。 今日は街路樹の剪定作業の為、事務所前にトラックや作業車がいるので蟹歩きでないと、事務所にたどり着けません。 普通に歩けると言うのはとてもありがたいことであり、普段はナカナカ気付かないものです。

    このように何かが起これば異変に気が付き不条理を感じる、当たり前のことが当たり前にできないとか~明らかにおかしいことがおかしくないとか、世の中に理不尽なタネはつきません。

    私は法律の専門家ではないので、法律上や裁判の手続き上ではどうなのかと言う点ではわかりません。 しかし、山口県光市で起きた事件について、自分が本村さんの立場になったらどうするのかと言えば、同じことを言ったりするかもしれません。 (検察や警察にお客様がいるから、検事の味方と言うわけではありません。)

    残念ながらこの事件に関して私に依頼がないので、直接的な手助けができません。 しかし、本村さんの気持ちを考えるなら無罪にしようとか~明らかに罪を軽くしようと言う動きがあること自体が、本村さんの心を傷つける行為だと思わないのでしょうか?

    注:社会には賛否両論が存在するのはわかりますが、自分が本村さんと同じ目にあったとしても許せるのか…。

    なんで唐突にこんな話をするのかと言えば、幸せと言うのは今まさに目の前にあるのを感じ取れないから、それが逆に不幸を招いていることもあるからです。 何故?今の日本に生まれたことを幸せに思えないのか…。

    もしもあなたが日本以外の国に産まれていたなら、どうなっているかを考えてみると「どれだけ幸運なのか?」 よくわかると思います。

    あなたは今、水を飲むことができると思います。
    あなたは今、食事を取ることができると思います。
    あなたは今、携帯電話を使うことが出来ると思います。

    この3つが出来るだけでも、地球上の66億人の中ではものすごく幸せな方です。

    これに加えて住居があるとか、車や電車に乗ることが出来るとか、PCやTVを見たり使ったり出来るというのまで含めたなら、6%の幸運を手に入れていることになるのです。

    この地球上で自由に水を飲めて~御飯を食べられて~携帯を使うなど、文明生活を楽しめるのは地球上における全人口の6%未満なのです。

    もしもあなたが○○○に産まれていたなら20歳まで生きるということ自体が難しいし、エチオピアに生まれていたら奴隷として生活していたかもしれない。 他の未開発国に産まれていたなら、人身売買などで教育も受けさせてもらえなかったかもしれない。

    不平不満と言うのは「満たされた中」で、更にと言う部分があるからこそ不平不満になるのです。

    人は衣食住で満たされたなら次はTVや宝石など、生活の為には必要ないけれどあったら嬉しいという物が欲しくなります。 そして、それを通り過ぎると今度は自己顕示欲が出てくるのです。 人である以上は仕方がないのですが虎の意を借る狐になると、相手の気持ちを考えずに「私は偉い」と言い始めるのです。

    法人にしている大きな会社だけが偉いワケじゃなく、ひとりでしている居酒屋さんや喫茶店のオーナー、ひとりでしている美容院やブティック経営者、こういう小さなお店や会社も偉くて立派で「尊敬に値する」と思います。

    時間の流れの中で日々を無駄にせず、一生懸命に何かに打ち込んでいる姿や取り組んでいる努力の姿勢は、何ものにも変えがたいくらい素敵に輝いていると思うのです。

    私は素敵なお客様に恵まれていると言うのは真実であり、それに対してなんらの疑問もありません。 お客様がしてくれることは、全て私にとってはありがたいことであり、目の前のことはありがたい幸せなのです。

    不幸なことは自分が起こしているだけであり、誰かが起こした不幸なんて余りないのです。 他人の人生を操れないように、自分の人生を誰かが操作するなんてできないのです。 ならば、今の自分に起きていることを当たり前ではなく、幸せなことだと考えられたなら…。

    私自身を例に取ると、毎日幸せなことが一回はあると思います。

    今の私は予約の電話が掛かるのですから、それ自体がとても幸せです。
    今の私はキャンセルが少ないので、お客様が来てくださるのはすごく幸せです。
    今の私はお金をキチンと支払ってもらえるので、本当にありがとうございます。

    このように、当たり前のことでも当たり前ではなく幸せなことと考えたら、毎日幸せに囲まれて生きることになるのです。

    「当たり前ではなく、ありがたいこと。」 同じしてもらうなら~同じ起きる出来事なら、楽しんで面白がる方が幸せになれます。 基本的に運は良い悪いがどちらかに偏るなんてないので、イチイチ腹を立てたり怒ったりしない方が運を味方に出来ると思うのです。

    あなたは幸せの意味を、どのように理解していますか?

    ( ̄~ ̄;)ウーン・・・

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    無理。

    当然ではありますが人は社会生活を過ごして行き、上司や先輩など周りの人から「無理なことは無理」と言われたことがあると思います。 しかし、人の道に反することでなければ無理と言わずに、できると思い込んで~それを実現させるにはどうすればいいのかと、実現を前提に物事を進めるのも悪くはないのです。

    人の脳と言うのは夢を実現させる万能の道具、ドラえもんのポケットみたいな部分があります。

    例えば、机や椅子やベッドなどは誰かの頭の中にあったものです。 最初は「あったらいいなぁ~?」と思うところから始まって、今度は製作に取り掛かり作ってしまったからこそ、この世に存在するのです。

    人間の知恵と力はすごいものがあり、朝が苦手な人でも恋をした瞬間から「好きな人にお弁当を作る為なら早起きできる」と言うくらい、自分の行動を変えてしまうのです。 夢の続きは誰でも見れるのですが、夢を見ようとしない人には続きどころは始まりすらないのです。

    できないと思うから、できない。
    できると思うから、できる。

    単純なことですが、自分の夢に対して自分が疑いを持っていたなら、叶うはずが無いのです。

    ある自動車工場では生産ライン初期の頃、160人でしていたのですが、社長より「120人でやれないか?」と言われて、当時の工場長は「無理です。」と即答しました。 しかし、社長は一歩も引かずに「いや、やれないようでは他所の会社に勝てない。 このままでは、ジリ貧になってしまう。」

    社長の本気の熱意に動かされた工場長はみんなを集めて、160人体制を120人体制にすると宣言して2年後、40人減でも同じ生産ができるようにしました。 ところがしばらくして再び社長より言明されたのは、「120人を80人でやれないか?」と言うことです。 工場長はやるしかないと心に決めて、再び創意工夫の毎日を過ごすようになりました。

    そして2年後にようやく80人で同じことができるようにした工場長は、社長の元へ報告に行きました。 社長は満足して、「ありがとう。 君達のおかげで会社は何とか生き残れそうだ。 本当にありがとう。」と労をねぎらいました。

    すると、工場長は「社長。 80人体制を40人体制にする為の、プロジェクトの許可をお願いします。」 今度は工場長の方から、更なる効率化の申し出がありました。 そして工場長と現場の人たちは全員が一丸となり更なる効率化を目指し、40人体制も達成しました。

    現在、その会社では同じ作業を「2人」でしています。 会社を設立した時には160人でしていた作業を2人にまで減らせたのは、無理だと言われていたことを次々と打ち破って実現し続けたからです。

    無理だと思えば脳は「無理と言うお願い」を聞き入れてくれて、無理だと言う限界を作ってくれます。 心から思えば夢は叶うと言う、その思いに対して嘘をつくから叶わないだけなのです。

    漫画家になりたいとか、俳優になりたいとか、お店を出したいとか、誰しも夢は色々と持っています。 しかし、その夢を持ち続けることができないから、夢の実現一歩手前であきらめてしまう人が続出して、最後まで思い続けた人だけが夢を叶えてしまうのです。

    私は運勢の良し悪しは、「あるけれども、無い!」と思います。 それは、今日よりも明日~明日よりも明後日と、運勢を変えていい状態を保ち続けて欲しいからです。 少なくとも運の悪い時期が短くて、運の良い時期が長ければ幸せだと思うのです。

    嘘でもいいから「今日はイイことがある!」とか「チャンスが来る!」と、言い続けて欲しいのです。

    嫌なことは先生であり、ダメな時は学びの時間なのです。

    健康体は幸せなことですが、健康しか知らない人は病気の人の苦しみがわからないから、蔑んだ言動になってしまうかもしれません。 しかし、自分が病気になれば健康のありがたさがわかり、なおかつ病気の人に対して優しくできると思うのです。

    表裏一体と言う言葉があるように、いやだと言う出来事は裏返せば「チャンス」と言うことなのです。 病気になるから健康がありがたいと言うように、嫌なことがあるからこそ幸せな状態を再認識できるのです。

    私は勝ち負けに意味は無いと思っているのですが、それはどこの部分で勝ち負けを言うのかだけで、永久に勝ちとか~永久に負けとかではないからです。 人生は山あり谷ありで、一時的には勝ち負けが存在しますが、永久的なものではないからです。

    あなたは無理だと、自分で限界を作っていませんか?

    ヽ(^◇^*)/ デキタヨ~☆

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    ジコチュウ。

    おはようございます。 今日は良い天気なので、朝からすがすがしい気分でブログを更新しております。 コレを読んでいる人がウキウキワクワクした気分で、今日も素敵な一日になるようにお祈りいたしております。

    たまには枠の中から飛び出して、自分のことだけ考えてみるのも良いと思います。 ジコチュウの勧めと言うわけではないのですが、時には自分の夢や希望を優先しても良いと思うのです。

    一般的にも道徳的にも「ジコチュウ(自己中心的)な考え方はダメだ」と言うのは、正論であり間違いではないと思います。 ただし、あくまでも他人に迷惑をかけるという意味での自己中心的な考え方はダメですが、自分を奮い立たせたり前向きにしてくれる自己中心的な考え方と言うのは良いと思うのです。

    それは自分が一番偉いと言うようなプライドが高いジコチュウではなく、モノの見方を変えてみると言う意味なのです。 人には色々と発想する頭脳や知識がありますが、それでもどうしていいかわからないと言う袋小路に入り込んでしまう時もあるのです。

    そんな時には、「もうどうでもいいから、とにかく何でもいいから自分に都合のいいように考えてみる。」 物事が上手く行かない時には、早めに割り切り違う道を行くのも大切なのです。

    合格できなければ、○○大学には行くなと言うこと?
    就職できなければ、○○会社には行くなと言うこと?
    彼と別れたならば、カレとは結婚するなと言うこと?

    自分の希望通りに行かない時は、「あぁ、これはするなと言うことなんだ?」と言うくらい「発想の転換」が必要なのです。

    もしも家を買う&建てる予定があったとして、土地や家を探して銀行からお金を借りて契約寸前まで行ったとします。 そんな時にウキウキしていると、契約1週間前に銀行より「融資が出来なくなった。」と言う連絡がありました。 あなたは「そんなぁ~、それじゃ家が買えないよ~!」と嘆いたり困ったりするかもしれません。

    しかし、これは運命か何かの目に見えない力があなたに、「この家を買うな!」と言ってくれていると考えた方が幸せです。 この家を買ったばかりに何かあるかも知れないところを買わないおかげで防げたのかもしれないのです。

    これぐらい自己中心的に考えた方がポジティブに生きていけるし、自分のことに関して自己中心的なのですから人に迷惑をかけるわけじゃないのです。 これなら何かホンのちょっとのことが起きても、へこたれたりしょげたりしなくなっていくと思います。 そしてそれを自分の未来に活かそうとするのなら、きっと素晴らしい未来へと変換していけると思うのです。

    何も苦しい道を行かなくても楽な道を行けばいいのに、他人に迷惑をかけないジコチュウになれず、イライラしてストレスを溜めて周りに不機嫌を撒き散らすようでは逆効果だと思うのです。

    自分に対してだけ素直になるのではなく、相手や周りの人に対しても素直になるのも良いと思います。 それは相手を認めるということであり、相手の意見をまず肯定する所から始めてみるのもひとつの手です。

    子供の時にはピーマンが嫌いでも、大人になり焼肉を食べに行くようになれば、ピーマンがないと肉ばかり食べられないということにもなります。 それ以外にも調理方法や嗜好の変化により好き嫌いが逆転しているかもしれません。 10年前には大嫌いでも10年という月日の流れが、今度は大好きという風に変化させているかもしれません。

    仮に喫茶店やレストランで注文した品物以外が来たとしても、「あぁ、これを食べる運命かなぁ~?」と闇鍋のごとく楽しんでしまうのもひとつの手です。 その楽しむ心が余裕を作り出して、自分の心の豊かさをより強固なものにしてしまうのです。 そして強い自分を作り上げたら、少々のことでは動じない明るい笑顔に自分を鏡の中に発見できると思うのです。

    そうなるとしめたもので、人と会ったり話をしたりするのが楽しくなります。 人と話をして友好関係を深めて、自分の活動範囲を広げて行くのもいいと思うのです。

    私はプライドや自意識の高さなんか一文の得にもならないと思っていますが、そんな物が自分の成長に役立ったこと&役立つことなんかないからです。 人とまず会って話をしたり、食わず嫌いを治して何でも食べてみるというように、行動しなければ本当の幸せなんか手に入らないと思うのです。

    人に見られたら恥ずかしいとか、人にどう思われるかが気になるとか、その気持ちはよくわかります。 私はいじめられていた時に、人からどう思われているのかで行動を間違えることが多々ありました。 「あぁすれば、よかったのに…。」 悔やんでも悔やみきれないけれど、過去の時間に戻ることは出来ないのです。

    人に見られることや、人にどう思われるかは、「どうでもいいこと。」

    社員旅行の集合写真でもいいし、友達との旅行で撮った写真でもいいのですが、その写真を手に取り一番に捜すのは、誰の姿ですか?

    あなたがまず最初に捜す&見るのは、自分自身のはずです。 まず、自分がどんな顔や姿で映っているかを確認して、それから友達や同僚の姿を見るはずです。

    あなたは考えなくてもいい悩みで、自分を追い込んでいませんか?

    ☆⌒(*^-°)v Thanks!!

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    良い人。

    良い人に出会う為の秘訣とは、「在るようで無い」と言うのが本当のところです。

    世の中には数々の雑誌で恋愛特集が出たり、恋愛ハウツー本が出たりしていますが、実際の中身はバラバラであり、正反対の内容も多い為に迷い始めてしまうのです。 例えば、「メールはすぐに送れ」とか「メールは焦らして送れ」とか、何が正しいのかはわからないと言うのが正解です。

    恋愛とは計算してするものではなく想いで行動するものであり、計算してできるようなものじゃありません。 恋する瞬間と言うのは夢の途中だから楽しくやれるのですが、夢から覚めてしまうと成就しないということです。

    誰でも良い人に出会うチャンスはありますが、それを判らないようでは会っても通り過ぎてしまうものです。 出会いの条件に固定化されたものは在りませんが、なんとなく注意する見抜き方のようなものはあります。

    その見抜き方(要注意部分&危険領域)というほどではないのですが、主なものを少し書いてみたいと思います。

    まず、一番にあげられるのは「その人だけという、独自の世界がある。」が危険です。

    これは本当に危険なのですが、その人だけが持っている独自の世界と言うのは一見するとカッコヨク思えます。 しかし、独自の世界に浸っていると言うのは、「周りが見えていない人」と言うことにもつながります。

    お店や会社を立ちあげて夢を語るのはいいけれど、失敗しても失敗しても無計画で「次こそは!」と言う人や、熱い思いを語るのだけれど自分では何もしていない人などは、何故か?その内容はデタラメなのに口が達者なのですごく思えるのです。

    独自の世界を持っている人とお付き合いするなら、それは世の為人の為になるようなことをしているのか、それとも自分だけのことなのかをキチンと見分ける必要があるのです。

    独自の世界を持っている男性と言うのは、一歩間違えれば空想の中しか生きられない「夢を追い続けて完結しない人」なのです。

    そして次に危険なのは、「目に力がある。」という幻想です。

    これがまた曖昧な基準なのですが、目に力があると言うのはすごく危険です。

    例えば、パチンコやパチスロが大好きな男性は、勝った時には目が輝いているから素敵に見えます。 そして、車が好きで新車を次々と買い換えたり、改造してローンを組みまくっていても車が好きだから目が輝いています。

    しかし、目が輝いていて素敵には見えますが、結婚したら借金が発覚したり~家にお金を入れないなど、トラブルが次々とでてくるのです。 「目に力がある。」なんて幻想に巻き込まれたら、とんでもない人との一生が待っているのですが、それでも目に力があるなんて曖昧なことを信じられますか?

    最後に要注意なのが、「親と仲が良い。」と言う部分です。

    色々な恋愛本には、家族と仲がいい男性は素敵な家庭を築いてくれると書いてありますが、もしもそれが本当ならば「どうして離婚率が高いのですか?」 こう聞きたくなるくらい、今の日本の離婚率は高いのです。

    父親との関係が上司や先生など目上の人との付き合い方の基本になり、母親との関係が彼女や奥様との付き合い方の基本になると言われていますが、これは一方向からだけ見たとんでもなく決め付けた話です。

    真面目に働かない父親を見て育った人は、当然ですが父親を尊敬できません。
    お金や物に執着している母親を見て育った人は、当然ながら母親を尊敬できません。

    確かに生まれてからそばにいる家族と言うのは身近な学びではありますが、その学びとは教師なのか? 反面教師なのか? これにより学びの内容が違うので、両親や家族と仲が良いと言うのが、素敵な男性を見つける手段にはなりえないのです。

    自分の両親と仲が良いと言うのは、奥様の両親は大事にしないと言う裏返しでもあります。 自分の親にだけ優しいのは、本当の優しさとは言えないのです。

    私は両親や学校の先生や先祖などを尊敬できない生活でしたが、借金して夜逃げする親とか~知恵遅れと言って差別した学校の先生、これらの方々を尊敬しろと言うのは少し無理があります。 (先祖や両親や学校の先生を尊敬せずに成長したら、今のような私になったのですが私はダメ男ですか?)

    良い人と言うのは、本当の優しさや自分が生きている喜びを素直に表現して、あなたにも他の人にも愛を示すことが出来る人のことを「良い人」と言うのです。

    あなたは自分の良い人を見極める基準を、キチンと認識していますか?

    ==((( (/* ^^)/ ハロ~~

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