徒然草(岡山・東京・山崎かずみ)

    あなたを元気にしたい、それが私の願いです。

    使命。

    時間と言うのはとても大事なのですが普通に過ごしていると、その貴重なモノのありがたさに気付かないのです。

    少し例を出すと、日本全国各地の県庁(公共施設含む)周辺で「15分」の攻防が起きています。

    それは県庁の昼休みの問題なのですが、昨年の4月より総務省より全国の県庁へある通達が出たのが発端です。 県庁の昼休みは元々45分だったのですが、それに「有給休息時間15分」を加えて合計60分の昼休みだったのです。

    県庁がするならと言うことで、市役所に加えて公共施設なども15分の有給休息時間を廃止して昼休みは45分とするところが増えました。 そうなると時間的に外食が出来なくなり、昼休みは配達弁当や注文した物がすぐに出てくるファーストフードやコンビニに切り替わりました。

    たった15分ですが、その影響が県庁の近隣飲食店の「客足数の激減」と言う形で現れています。 これではやっていけないと言う声が飲食店よりあがりはじめ、それに伴いどうやって昼休みを60分に戻すのかを検討する県庁や施設が出始めました。

    休息時間と言うのは、元々仕事の効率を上げる為に手休めと言う意味があり、人事院規則で規定されております。 (当然休みではあるけれど、賃金は払われています。)

    しかし、人事院は「民間企業にはほとんどない」として、休息時間の廃止を定めた規則に改正しました。 そして総務省も、国家公務員と同等の勤務条件にする考慮が必要と定めた地方公務員法に基づき、全国の地方自治体に通知しました。

    それにより休息時間廃止の動きが一気に広まり、今年中には60%以上の自治体で行われることになりそうでしたが…?

    ナカナカ流れと言うのは一方向には行かない物で、職員が食べに来るのを当てにしている飲食店では経営が成り立たない為、署名活動や陳情により昼休みを60分に戻そうという動きが高まりつつあります。

    そうなると市民の声を聞かないわけにも行かない自治体としては、職員の昼休みを60分に戻して終業を15分遅らそうという案や、法律そのものを変えて昼休み自体を60分にして就業時間は今までどおりと言う労働時間の短縮案など、色々な方向で調整中です。

    ただし、昼休みが45分になっても影響のない飲食店もあるので、そういうお店は魅力があるとか、味がイイとか、午前中に注文を聞いて回るとか、何らかの努力をしているのだと思います。

    15分と言えど日本全国で議論が出てくるくらいだから、されど15分なのです。

    時間と言うのは誰にも公平ですが、それは大事に使う人と無駄に使う人では運命の歩みの差が出てくる為に、時間の不公平さを勘違いしてしまうのです。

    元々人間は日が昇れば起きて~日が沈めば眠るという繰り返しで、時間と言う概念はありませんでした。 しかし、生活と進化を続けていくうちに一日のサイクルを掴み、そして日時計などで時間らしきものを見つけ、寒暖の差などで四季の移り変わりを感じていったのです。

    時間とは元々万物の中でもっとも大事なモノですが、人はその大事さをわからずに時を過ごしてしまいます。 「タイム イズ マネー」と言った実業家がいましたが、それは真実であり誰も過ぎ去った時間をやり直すことは出来ないのです。

    現代の医学の進歩や食糧事情などを考慮して人生が100年としても、その100年と言う時間を健康で生きているだけに終わらすのか、それとも何かを成し遂げて後世に伝えるのかでは、生きてきた充実感や達成感が旅立ちの時に迎える感動の深さを変えてしまうのです。

    どんな人であろうとも赤ちゃんからスタートして10代~20代~中年~、そして最後には老人を経験して亡くなっていきます。 (不慮の事故や、不慮の病気などは除きます。)

    産まれた時には泣いているあなたを見て、周りを取り囲んでいる大人たちがニコニコ笑っています。 あなたがこの世に誕生してきたことを、みんなで喜び祝福してくれています。 ならば、せっかく生まれてきた以上は人間としてなすべきことをなし、自分の使命を感じ取り実行して欲しいのです。

    そして亡くなる時には大勢の人に囲まれている状態で、あなたは笑顔でベッドに横たわり周りを取り囲む人たちは泣いてくれる。 あなたがこの世から去っていくことを惜しんで、嘆き悲しんでくれる人たちがいる。 そういう人生を送れたら、とても気持ちの好い一生だと思うのです。

    あなたは自分の未来において存在を必要としてくれる人を、どれだけ作ることができますか?

    ε=ε=ε=(ノ^∇^)ノ

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    理不尽。

    理不尽とは、「道理を尽くさないこと&道理に合わないこと」と辞書には書いてありますが、お勤めをしていると理不尽なことは日常茶飯事です。

    上司や同僚や部下など立場は違えど、言われなくてもいいはずなのに言われたり、自分がしたことじゃないのに怒られたり、一緒に仕事をしている人が理不尽な場合は精神的に耐え難い事態になります。

    人には守らなければならない生活や守ろうとする生活があるので、「嫌なら辞める。」 この簡単なヒトコトが実行できずに悶々と不満を抱えたり、嫌々と仕事しながらストレスを抱えたりしています。 (ニートにならず一生懸命毎日お仕事に行っている人は、それだけで拍手を送りたいほど素晴らしいと私は思うのです。)

    こういう時には寝て起きたらスッキリしたと言う感じになればいいのですが、人には記憶能力があるので簡単には忘れられないのです。 聖人君子と言うのは、行いが正しいだけでなく「根に持たない。」 これも大事なのです。

    あなたにとって何か嫌なことを言われたり、あなたにとって苦痛となることをされた時、人間は感情があるので怒りに燃えるのは仕方のないことです。 ただし、人には理性と言うのがあり感情の赴くままに行動するわけではありません。

    嫌な上司の理不尽な命令でも聞くからこそ、会社が機能して給料が出て生活して行けると言う現実を、ちゃんと理解しているからこそ人間なのです。

    ところが、「言うは易く、行うは難し。」と言われるように、頭ではわかっていても気持ちの方で割り切れない部分が出てくるのです。 それがストレスと呼ばれるものになり、自分でも気が付かないうちに身体に異常を起こしてしまうのです。

    私は基本的に「許す」と言うのを心に覚えさせていて、何かを言われても反論しないようにしています。 ただし、私も人間ですから愚痴を言いたくなる時もあれば、嫌になる時だってあります。 しかし、1年間に100回くらい頭にきていたのを、1年間に5~6回程度に抑えるのは聖人君子でなくとも可能です。

    昔はすぐに頭にきていましたが、今は「怒るのもあほらしい」&「怒る暇があれば自分を見つめ直そう」としか思わないようにしています。

    これは基本的に人のことをどうこう言う前に、自分の反省をするようにして自分の行動を省みるのです。 何か言われた時には、「相手がそういうことを言うのは、気が付かないうちに相手が嫌に思う何かをしたのかも?」と考えて自分の記憶をたどってみると、意外と面白いかもしれません。 自分が納得いかないと言うのは、実は相手が納得いくと言うことであり、納得が「いく⇔いかない」は同じことなのです。

    恋愛に例えるなら、自分が振られるということは、誰かが彼と付き合うことができるようになると言うこと。 自分は悲しいけれど、誰かは嬉しい。 自分にとっては不都合でも、誰かにとっては都合がいいというのが、理不尽の元となるのです。

    他にも仕事場などで、机の配置の関係などで誰かと同じ場所で仕事をしていたとします。

    そして自分に来客があった時に、ペットボトルを凹ませたり掃除機をかけたりして騒がしくされたとします。 相手がそうくるならと、今度は相手にお客様が来ている時に掃除機をかけたり音をさせたとします。 そうなると相手はあなたに、「お客様が来ている時に掃除機をかけるなんて非常識だ。」と必ず文句を言ってきます。

    これを理不尽だと考えると、相手と喧嘩になりストレスが溜まってきます。

    このような場合にどう考えるのかと言えば、「相手はプライドの高い人だから、仕方がない。」 つまり、相手はこちらを一段低く見て自分の言うことのみ正当性があると考えているから、文句を言ってくることができるのです。 普通の考え方や理性があるなら、最初からお客様がいるのに騒がしくするなんてしないし、文句を言うような事態を引き起こさないのです。

    理不尽だと思う現象や行動を起こす人と言うのは、「話してもわからない人」と言う大原則があります。 話をしてわかるくらいであれば、最初から理不尽な事を言いません。 人の話を聞けないからこそ理不尽な行動ができるのであり、聞けるようなら物分りの良い人となり人と衝突なんかしないのです。

    ここで混同してはいけないのが、「話が難しい人」と言うのは順序よく筋道立てて話せばわかる人のことを言います。 「話がわからない人(理不尽)」と言うのは、自分が納得する(有利を含む)こと以外は認めない人のことを言います。

    世の中の時間の流れは公平であり、その公平である時間を無駄に使うのはもったいないのです。 わからない人に使う時間があれば、自分に使う時間の方が大切なのです。

    あなたは理不尽な人を相手に、真面目に話をしていませんか?

    YA~ \(@ ̄∇ ̄@)/ YA~

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    成功する為に。

    あなたが成功する為に必要なモノとは、なんだろうと考えた時に思い付くモノは何ですか?

    学歴~資金力~アイディアとか、目標や行動などと言う人もいると思いますが、私がこう問われた時に答えるのは、「人」もしくは「縁」と答えると思います。 人との出会いから全てが始まり、人との出会いから何かが生まれるのです。

    例えば、自営業をしている人の中で失敗した人限定で見ても、再び復活できているのは「人を財産」と考えている人がほとんどです。 会社やお店が倒産したからと言って、失うのはお金とか土地建物と言う物質的なものだけです。

    人との縁を大事にして、人との関係をしっかりと重要視しておけば、お金や物なんかはいくらでも増やしていけるのです。 ただ、ここで重要なのは「縁」と言っても「悪縁と良縁」のどちらをあなたが重要視しているかです。

    難しく考えなくても、いいんです。

    悪縁とは、一緒にいると悲しいことや辛いと思える出来事が増えていく人。
    良縁とは、一緒にいると楽しいことや嬉しいと思える出来事が増えていく人。

    単純明快に、「悪縁から遠ざかろうとする気持ち」が大切なのです。

    運命の人とは普通の考えで言うなら結婚する相手であり、異性のことを世間一般では言います。 しかし、運命の人とは本当はひとりではないのです。 仕事上や人生哲学上で影響を与えてくれる人も、運命の人と呼んでも差し支えないと思うのです。

    私がこういう人になれたらと思うのは、「会うだけで良いことがある。」「話すだけでヒントが得られる。」「そこにいるだけで幸せな気分になれる。」 こういう人になれたら、今よりも「人生って素敵だな。」と幸せに感じれる人を増やせるのではと思うのです。

    今の事務所は今まで居た場所とは比較にならないくらい雰囲気が良いと私は思うのですが、それはあくまで私が思うだけで他の人から見れば「暗い&汚い」と感じるかもしれません。 しかし、この事務所に来たら「来る前よりも元気になれた!」と、なってお帰りいただきたいと思うのです。

    話が横にそれましたが、ラッキーパーソンやメンターなど色々な言い方があるでしょうが、自分にとっての運命の人とはいつも重要な局面に入る前にはいるものです。 ただ、それに気が付くかどうかの違いや差があるだけなのです。

    「今までの上司の下では成績がさっぱりだったけれど、今度異動してきた上司の下では成績が見違えるようになった。」 「ある人と知り合いになったら、それをキッカケに友人が増えるようになった。」など、これも運命の人と読んでも差し支えないのです。 それらの出来事や言葉を、自分を変える為の暗示や使命と思える人なら運命が味方をするはずです。

    では、仕事や人生における運命の人とは、どうやって見つけるのかと言えば簡単なことです。 人の運命は人との縁によりできあがるのだから、「人と会う」と言うのが基本なのです。 部屋にひとりで閉じこもっていると、出会いも何も始まりようがないのです。

    運命の人を探す基準としては、「あの人はいつも同じ場所で出会うなぁ~。」とか、「あの人のアドバイスはいつも為になるなぁ~。」などホンの少しでいいから、何かのつながりを発見するのもイイと思います。

    それでも、「思いつかない。」とか「わからない。」などと前に進めないのなら、考え方を少し変えて欲しいと思うのです。

    運命の人とは自分から見ると「他の誰か」ですが、他の誰かから見ると「あなたが運命の人」と言う現実があります。 ならば、あなたが誰かに助言や勇気付けなど相手の心のよりどころになってあげることにより、縁の強さやつながりを実感できると思うのです。

    そうやってひとつづ縁の強さや縁の深め方を学ぶことにより、自分自身が運命の人との関わりを実感できると思うのです。

    それでも何をすればいいかわからないというなら、素直になることで見えないものが見えてきます。 水は上から下へ流れるし、雨が降れば傘をさすし、のどが渇けば水を飲むと言うように、難しく考えずに簡単明瞭でいいんです。

    仕事場においては上司の意見にむやみやたらに反発せずに素直に聞き入れて、「なるほど~!」「そうかな~?」など聞き分けるのもイイことです。 部下や同僚の頼みはなるべく聞き入れて面倒を見るようにして、自分の周りを感謝で一杯にするのも大切なことです。

    あなたは自分の運命の人を探す前に、自分が運命の人になれていますか?

    (。 ̄_ ̄。)ノ~~~ ドォモ~☆

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    座敷童子。

    おはようございます。 今朝も寒くて暖房が効き始めるまでは、事務所の中で震えながらログの更新をすることになりそうです。 今日は月曜なので仕事始めの人も多いと思いますが、元気に明るく素敵な週の始まりとなるはずです。 あなたは素晴らしい未来が待っているのですから、大丈夫です。

    さて、日本昔話も含めて座敷童子と言う精霊的な存在の名前を聞いたことがあると思いますが、基本的に座敷童子は日本全国どこでもいるものです。

    主に岩手県に伝えられるのですが、中でも金田一温泉の■■荘の座敷童子はTVや雑誌などでも取り上げられて有名ですが、ココに予約を入れて座敷童子が出る部屋を取ろうとすると1~2年待ちです。

    このログによく出てくるN市のIさんは、この旅館のことを知って泊まりに行ったことがあるのですが、当然のごとく座敷童子がでる部屋は人気があるので予約は取れませんでした。 しかし、Iさんは別の部屋でもいいからと■■荘へ泊まりに行った所、Iさんが泊まる日にキャンセルが出て急遽その部屋に泊まれることになったそうです。

    この辺が強運なところでもあり、日頃の行いが違うという証明でもあるのですが、N市のIさんに座敷童子が配慮してくれたのかも?

    TVのヤラセや雑誌の宣伝広告は別として、真面目に座敷童子に関してアヤシイ?霊視カウンセラー的な見解です。

    座敷童子とは、赤面垂髪の5~6歳くらいの小童子(童子と童女の両バージョンあり)で、豪商や旧家の奥座敷にいて、その存在が家の趨勢や繁栄にかかわると言われております。 その為、座敷童子を手厚く取り扱い毎日膳を供える家もあるほどです。

    座敷童子は悪戯好きで、夜になって家で寝ている人の布団の上に跨ったり、枕を返したりして遊んでいますが、座敷童子を見た人には幸運が訪れると言われています。 小さな足跡を灰の上や土間などに残したり、夜中に糸車を回す音を立てるとか、奥座敷で御神楽のような音を立てて遊ぶこともあります。

    なお、その姿は家の者以外には見えないとも言われるし、子供には見えても大人には見えないとも言われます。 お狐様や犬神様に類似した性質や構造を持つが、座敷童子の場合は住んでいることを迷惑がらずに神様としてきちんと保護して、畏敬の念を持つという点で若干の違いがあります。

    座敷童子も日本全国で言うと、座敷童~座敷童衆~座敷ぼっこ~蔵ぼっこ~座敷小僧など、色々な呼び名があるようです。 また、遠野物語など色々な本や小説でも存在を記してありますから、まんざら嘘と決め付けるわけには行かないと思います。

    これは知らない人もいるようですが、座敷童子にも色々なタイプがいるのですが、タイプ別に表記してみると…?

    家の土間の方に入るタイプを、こめつきわらし~のたばりこ~うすつきこなどと言います。
    奥座敷にいる色白の最も綺麗な座敷童子を、「ちょうびらこ」と呼んでいます。

    その他にも、災難(火事~洪水~津波)などを知らせる為に、細手とか長手と呼んでいる所もあるようです。

    では、ここから座敷童子の発祥と言うか、悲しい真実もお話したいと思います。

    座敷童子が何で岩手県などの東北の方で神話が語り継がれたかと言えば、中世から昭和初期までの東北地方では○○○○が行われていて○○○を間引いて屋内に○○○風習がありました。 (現代では行われていないし、その事実を知っている人も少なくなりました。)

    それが護法童子や心得童子となり、今日に伝わったものが座敷童子と考えられているようです。 扱いの位としては、東北地方の蚕神、竃神として祭られている「おくまいさま」や「おしらさま」と同様の扱いです。

    注:座敷童子は倉敷の美観地区や大原邸および周辺のお屋敷にもいるのですが、欲に塗れた心では誰にも微笑まないだけなのかもしれません。

    ■■荘(旅館)の話に戻りますが、座敷童子はあの部屋にだけいるのではなく、大浴場や玄関や庭などいたるところに移動しています。 「槐(えんじゅ)の間」にだけいるのではないのですが、たまたま「槐の間」に泊まった人に見たと言う声が多いだけです。

    松下幸之助や本田宗一郎など歴代の見たという人たちに共通点があるのですが、それは座敷童子の方から会いに来たと言う点です。 その当時、槐の間に泊まれるのはお金持ちやある程度出世した人が多く、その中でも世の中に貢献する人が多く見ています。 それは座敷童子がその人に興味を持って会いに来たと言うことであり、その部屋に泊まったから見たというわけではないと思います。

    欲に塗れた心で「会えたら幸運が訪れる。」と言う考えで行っても、出てきてくれるかどうかはわからないのです。

    私の考えとしては、「座敷童子に会いたい」と言うよりは、座敷童子の方が「山崎に会いたい。」と興味を持ってくれる方が嬉しいです。

    また、美観地区にも座敷童子はいるので、会いたければ美観地区のある場所に行けば居ます。 私は商店街時代はヒマだったので、しょっちゅう美観地区に暇つぶしに行っていたので座敷童子を珍しいとは思わないのです。 ただし、東北地方の座敷童子とは少し姿が違うようですし、「気のせいや!」と言われればそうかもしれません。

    興味のある人は、美観地区の地図を持ってきてくれれば出るポイントを何ヶ所かお教えしますが、出てきてくれるかどうかは保障できません。 (多分、大原邸などあの周辺のお屋敷にいる座敷童子だと思うのですが…?)

    あなたは座敷童子が会いたいと思う程の、素敵な魅力を身に付けようと思いますか?

    Σ( ̄ロ ̄lll) 

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    怒ると損。

    今朝は倉敷駅で2月17日分の東京出張の切符を買って、事務所までの道すがら思い出したのですが、私は生まれてから一度もケンタッキーに行ったことも食べたこともありません。 TVなどでケンタッキーフライドチキンの話が出ても実体験がないので、「一度は行ってみたい。」と思っていました。 (ただし、欲しくて欲しくてたまらないわけじゃないので、探してまで買いに行くほどじゃないです。)

    ところが前回の東京出張の時に時間が少しあったので、駅の周辺を歩いていると駅の反対側にケンタッキーを発見したので、2月の東京では買ってみようと思いました。 次回の東京では人生初のケンタッキーが実現するかもしれないので、これが楽しみの一つです。 (カーネルおじさんも、実物を見たのは初めてでした。)

    話は変わり…。 怒らないと言うのができれば、人生において人との衝突が少なくなるのに、やはりイライラしたり腹が立つことってあります。 世間でも隣人トラブルや仕事関係など、事件や事故の原因となることは多々あり、本当に現代はストレス社会だと思います。

    私はもともと自閉症と言う点もあり、すぐに怒ったりふて腐れたり、やる気を失くして手抜きをしたりと言うことの繰り返しでした。 今と言う時点で振り返ると、怒るのは損だし、自分に悪い点があると言うのもわかるのですが、その時には自分が正しいと思い込んでいるのですから不運だったのは仕方がないのです。 (運命が考え方や生き方の修正を命じていたのに、それを無視する行動だったのだと思います。)

    昔は怒ることの連続で情けない考え方や精神でしたが、今の私は怒ると言うのは損だなぁ~と言うのが、ようやく理解できて来ました。 今までは人のせいにしたり~怒りまくったりと自分中心の人生でしたが、怒るのは自分が悪いと考えるようになってからは、怒る回数が減ってきたのです。 (今頃気付くなんて、遅いと言えば遅いのですが…。)

    仮にAさんがBさんと言う人を嫌いだとしても、Bさんを好きな人も居るのですから、嫌いと言う感情はAさんだけのものであり、他の人から見るとそうではないのです。

    怒ると損だと言う例としてあげてみたいのですが、もしもあなたが会社を経営していたとして…?

    A:ある時、会社のPC用に「記録用ディスク5枚組み(3千円也)」を購入しました。
    B:ところが3枚使った所で、4枚目にデータを出し入れできなくなりました。
    C:そこで購入した所に携帯電話で電話を掛け、残り2枚の交換を要求しました。
    D:お店側の言い分も聞かずに「自分は正しい」とばかりに、約45分文句を言いました。
    E:そして部下に命じて記録用ディスクの交換の為、お店に行かせました。
    F:すると、お店で記録用ディスクのテストをすると意外な事実が判明しました。
    G:実は「記録用ディスクは正常」で、会社のPCの読み取り部分が壊れていたのです。

    ここまで読んで、この経営者のミスが多いということに気が付いたかもしれませんが、一番の問題は「怒る」と言う点です。 怒るのは損だと言うのが物理的にも~人として信用の部分でも、色々な面で作用してきます。

    まず、ディスク5枚の価格は3千円ですが、(1枚=600円)×2枚=1200円の為に、携帯電話で45分も文句を言ったのです。 ここで現実問題として携帯電話代が45分間分の料金として発生しています。 次に経営者としての45分と言う時間を、その為に使用しています。 次に部下に命じてお店に行かせると言うことは、往復の交通費と時間に加えて、部下に交換に行かせたと言う労働対価が掛かっています。

    ここまでお金に換算してみると、どれくらいの費用が掛かっているのか、普通に考えれば誰でも理解できることです。

    そしてお店の言い分も聞かずに怒鳴りまくり、自分が正しいと言い張った為にお店側としては、この経営者に対して良い感情は持てません。 やはり人間ですから、お店側の言い分として、「PCのディスク読み取り部分のチェックと清掃」をしていれば、ここまで大事にはならなかったと言う感情が残ります。

    つまり、このお店がこの経営者に対して抱く感情が、そのまま会社としての信用が無くなっていると言う損失だけがあるのです。 こんな経営者だったら、その会社が存続できるかどうかと言えば、いざと言う時に誰も助けないと思います。

    ここまで読んで、「そんな経営者いるの?」と思う人がいるかもしれませんが、あくまで例え話です。 (-^〇^-)

    それに怒ると言うのを続けると、その怒りを忘れさせる為にそれ以上の怒りの対象みたいなことが起こります。 これは私自身もよく経験しているのですが、ある事柄に対していつまでも言い続けて怒っていると、それを言わないようにさせる為の更なる怒りの対象が現れるのです。

    やられたらやり返すと言うのでは、連鎖反応がいつまで経っても収まらず、終わりのない争いを続ける原因にもなってしまいます。 注意したことが仇となり返って人間関係がギクシャクして、会社や学校で険悪な雰囲気になったと言うのもよくあります。

    怒らないようにするのは難しいと言うのはある意味真実であり、「明鏡止水の心境」と言う言葉もあるように、ナカナカ平穏な状態を作り出すのは難しいと思います。 それでも怒らないように努力するのは必要なので、人生とは修行や勉強の連続だと思います。

    あなたは怒ることで、目に見えない部分での損をしていませんか?

    \(゜ロ\)ココハドコ? (/ロ゜)/アタシハダアレ?

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    転ばぬ先の杖。

    今日の倉敷は昨日に引き続き良い天気で、事務所内も明るく光がとてもキレイです。 朝ココへ来てログの更新をしていると、心がすっきり浄化されるような感じなので朝の光が楽しみです。 これもひとえにお客様が私のところへ来てくださるおかげで今のようになれたと、過去を振り返ってみても感謝の念にたえません。 本当にお客様には、心よりお礼を申し上げます。

    私はお客様の心が元気に前向きになれるような、そういう人間になりたいと思いますが未熟者ゆえマダマダ不手際がありますが、今後もよろしくお願い申し上げます。

    さて、「転ばぬ先の杖」と言う言葉があるように、お客様の未来において無用な災難は、できれば避けて欲しいと思います。 今日は一般的な生活をしている人には余り関係のないお話ですが、自分がそういう目に遭ったことがある人には、「あるある」と言う感じの内容になります。

    このログを読んでいるお客様より、時々ですが「何で自分がした借金じゃないのに、払うことになるのか?」 こう聞かれます。

    普通の家庭に育ち~普通に生活して~普通に結婚して~普通に人生を送っていると、借金に遭遇することはありません。 ローンを組むと言っても、家を建てたりマンションを買ったり、後はせいぜい車を買ったりする程度です。 しかし、お金の観念がない人は形のないものにお金を使い、それを悪いことと思わないのが始末の悪い所です。

    私の父親が借金を作るのは、主には以下の3つがあげられます。

    ①,勤めるのが嫌だから自営業を立ち上げて経営難になり、資金繰りの為に借金。
    ②,車を次々と買い替え、毎晩飲み歩いて、お金を湯水のように使いまくり借金。
    ③,骨董品を買い捲り、100万円で買った物を60万円で売ると言う繰り返しで借金。

    こんな状態でも父の父母(私の祖父母)が生きている時には、まだ何とかやっていけていたのですが、祖父母が亡くなり遺産も無くなると借金するしかないのです。

    お金を借りると言っても担保が必要で、私の父は兄弟や親族に内緒で実家を売って、買い戻してもらったことが過去3回あります。 それでも懲りずに4回目をやった為、今度は誰にも相手にされず実家は競売に掛けられて売られてしまいました。 (仏の顔も三度までと言います。)

    私はその時に幼い時の思い出が無くなって悲しいと言うよりも、「これで父も借金できないだろう…。」 ほっとした気持ちになりました。 担保がなければ借金は出来ないので、最近回ってくる父親名義の借用書は小さい金額ばかりです。 (そのうちブラックリストに載り、完全に借りられなくなります。)

    では、何故父親の借金を私が代わりに払う羽目になるのかと言えば、「保証人」と言う制度の為です。 コレはやられたことがある人や金融業界で働く人はすぐにピンと来るでしょうが、普通の家族ならば無縁の話なのでわからないと思います。 (あくまで私の父親の話であり、普通の父親ならこんなことはしません。)

    まず、お金を借りるには銀行なり金融会社なりに借用書と言うのを書かないといけません。 ここには「借り主」と言うのに加えて「保証人」と言うのが必要になります。 (これは借り主が返せない時に、その代わりに払う人と言う意味です。)

    私の場合で言うと、以下のようになります。 借り主が「山崎治」で、保証人が「山崎かずみ」 もしくは 借り主と保証人の名義を逆にした状態で、銀行や金融会社より資金を引っ張ります。

    ここでひとつお断りしておきますが、私が父親の保証人になったことは一切ありませんし、私がお金を借りて父に保証人になってもらったことも一切ありません。 私は今後の人生において「親の世話になる&借金する」と言うことはありえないし、山崎家の歴史上において一番社会に役に立っている自負もあります。

    「じゃあ、なんで借金になるの?」もしくは「じゃあ、なんで借用書に名前が書いてあるの?」 こう思われるでしょうが、コレが「親子&兄弟&夫婦」の怖さなのです。 夫の借金を妻が払うとか、子供の借金を親が払うなんてのも、多分私と同じ目に遭っているのだと思います。

    親子や兄弟や夫婦の場合は、本人の了承がなくても書類審査が通るのです。 借用書を見ると「山崎かずみ」と書いてはありますが、この筆跡はどう見ても「父か母」が書いた筆跡で私の書いた字に似せてはあるけれど違う字です。

    つまり、保証人の欄を母(父)が本人に成りすまして「山崎かずみ」と書きハンコを押せば、それで銀行や金融会社でお金を借りることが出来ます。 本人不在でも、「親子&兄弟&夫婦」の場合は、「あとで本人に証明させるから~。」とか「あとで、本人に電話させるから~」など適当なことを言って、とにかくお金を借りるのです。 そうすれば、本人確認は有耶無耶になってしまうのです。

    このログを読んでいる人も気を付けないといけないのですが、「親子&兄弟&夫婦」の場合は本人に無断でお金を借りることが出来ます。 親子だから住民票も余裕で無断受領できるし、銀行や金融会社も親子&兄弟&夫婦だからすぐにOKを出します。

    書類の偽造を悪いことだと思うなら最初から借金なんかしないし、普通に生きていれば人生において借金することはありません。 借金する場合は、「してはいけないこと」をしていると言う認識が必要です。 私にとって親の存在は、「お金の前には親子の愛情なんか無い」と言う厳しさを教えてくれた先生なのです。 (野菜か?果物か?よくわからない名前の銀行は、父が偽造した書類を何度も何度もよく通してくれたなぁ~と感心します。)

    今日は薀蓄的な内容で申し訳ないのですが、私と同じような目に遭う人を少しでも防げればと思い参考までに書きました。 私のような立場に追い込まれる人は、余りいないと思うので今日の話は面白くなかったかもしれません。 ごめんなさい m(__)m

    あなたは「親子~兄弟~夫婦」だからと言って、油断していませんか?

    (°_°;)ハラハラ(; °_°)

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    基準。

    おはようございます。 今日の倉敷はイイ天気なので、事務所内は光のハーモニーが絶好調です。 ココに移転するのに不安はあったけれど、決断したことは良い方向へ進んでいると思います。

    運命とは決断の連続であり、それが良いか悪いかは時間の経過と共に色濃くなってくるのです。 人生とは100人いれば100通りであり、同じ人生や同じ運命はありません。 しかし、似たような状況や待遇と言うのはあるので、そこで他の誰かと違いを見い出すとかしないと同じような状況で終わってしまいます。

    私は未来における出来事をお話して選択肢や回避方法などを言うことはできますが、怪しげな水晶で念じたり~ナントカパワーで運命を自動的に変えることは出来ません。

    Aと言う道を行けばAと言うことになるので、Bと言う対処方法を取るか~もしくはCと言う前兆を察知して避けるようにしましょうと言うことが多いです。 それは未来を視る無力感のひとつでもあるのですが、どの未来を心地好いと考えるのかは本人次第で変わるということです。

    私が視てXと言う道が良いと思えても、お客様がZと言う道が良いと言うなら止めるわけにはいかないのです。 その先にあるのは本人が納得する道であり、他の誰かが口を挟める結果じゃないのです。

    色々なお客様を拝見させて頂いてると、「良い方へ行く人~変わらぬ人~悪い方へ行く人」と3パターンに分かれます。 この分かれ方を視ていると、人の選択肢とは基準により変わるものだと勉強になります。

    恋愛風に例えるなら、好きと言う気持ちだけを優先していると生活が滅茶苦茶になるかもしれない。 結婚したいと言う気持ちだけを優先すると、愛情の無い冷たい生活を送るかもしれない。 運命の差と言うのは、その人による考え方や理想が基準の差となるのかもしれません。

    周りから見てイイと思えなくても、本人が離れられない以上はイイ恋愛なのです。 結婚生活が周りから見て凄く良いように思えても、本人は地獄の苦しみを味わっているかもしれないし、基準とは人により個人差がものすごくあるモノなのです。

    お客様より相談を受けた時に私なりの基準としては、色濃く視えた方が「選ぶか? もしくは選んだ方が良いか?」 このどちらかなのです。 ところが人は感情の動物なので、感情や思惑の部分が選択肢の邪魔をするのです。

    わかりやすく仕事に例えてみると、営業系でバリバリ働いている時に「笑顔」で日々を過ごしていたとします。 そして事務系のお仕事の時には嫌々働いていて「沈んだ顔」で日々を過ごしていたとします。

    こういう未来が視えたなら進む道としてお勧めするのは「営業系」なのですが、その時に色濃く視えたのが「事務系」なら近未来で事務系のお仕事に就いているのです。 それは運命が選べと命令したモノではなく、自分で選んだ結果がそうなっているのです。

    営業系で働いた方が良いと本人もわかっているのだけれど、親や兄弟や恩師などに逆らえずに事務系に就職したなんてことはたくさんあります。 運命は営業系で働くチャンスをくれても、自分の判断で事務系に就職するなら仕方がないのです。

    これが夢や希望の道を進もうとしていても、近未来を見た時に結果が全然違う場合と言うことです。 仮に本人が東京で働く気があっても、近未来を見ると地元で働いているというのは、周りの意見や状況に流されてしまい決断できなかったということなのです。

    運命はチャンスだけはくれるけど、決断するお手伝いまではしてくれないというのがミソなのです。 重大な局面においてはホンの些細なことがものすごく大きな影響力を持って、運命を右と左に分けてしまうのです。

    その決断をする時に、私のところへ来ていただくと少しはお手伝いできるのかも知れません。 お客様の未来を視た時に、分岐点の前で来てくれたらと思うことがしばしばあります。

    例えるなら、結婚前に来ていただくと結婚をした後の生活状態と、結婚をしなかった時の状態をお話しすることが出来るのです。 最低でも2つの道をお話することが出来たなら、お客様も未来をわかってから行動できるという利点があります。

    仮に結婚前は品行方正でとても真面目な人だったとしても、3年後に仕事を辞めて引きこもり状態になっているかもしれません。 ところが事前にそういう風になるのを聞いていたなら、「よし、こうなったから~次はこうなるな?」 このように次々と対策を講じることが出来るので、未来における決断をすばやく出来ると思うのです。

    未来において発生する出来事を今と言う時間の中で止めることは出来ないけれど、その前兆や前触れを知っていたなら少しは落ち着けると思うのです。

    あなたは未来のことを決断できずに、運命を味方にするのを忘れていませんか?

    ヾ(@⌒ー⌒@)ノ おはよう~☆

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    聴覚。

    耳とはものすごく重要なのですが、意外とそれを大事にしていない人が多いと思います。

    耳が聞こえるからこそできることがあり、しゃべると言うのは耳が聞こえるから普通にしゃべれるのです。 もしも耳が聞こえないと、相手と会話をするのがとても難しくなりますが、それは相手の言うことが聞こえないだけでなく、自分が何を言っているのか聞こえないと脳が正しい発音を認識できずに混乱してしまうのです。

    赤ちゃんが生まれたらすぐに耳の検査をしないといけないのですが、それは耳が聞こえない為に脳の発達が遅れたりするのを防ぐ為です。 これは絶対に必要なことで、赤ちゃんの聴力検査をしない病院は技術的にも能力的にも怪しいです。

    一概に比較は出来ませんが脳が老化&退化して動きが悪くなると、耳から入る情報を理解しにくくなります。 その理解できないという現象のひとつが聴力であり、音楽の趣味などが変わるのはそのひとつです。

    私は脳の老化などを防ぐ意味でも、音楽を聴く時は色々なジャンルを聞くようにして好き嫌いを作らないようにしています。

    以前の事務所では大家さんの意向があり、自由に音楽をかけることが出来ませんでした。 ですから以前の事務所では洋楽ばかり流れていたと思いますが、あれは私の本意ではありません。

    今の事務所は私が聴きたい曲を自由自在に掛けることが出来るので、サザン桑田、浜崎あゆみ、山崎まさよし、大塚愛、EXILE、コブクロ、レミオロメン、KAT-TUNなど、何でもござれ状態です。

    ここで偏見をなくさないといけないのですが、10代の人が熱狂する音楽(J-POPなど)は「10代の人が聞いて心地好い」と言う現実があります。 耳から入る音は心地好いなら「素敵な音楽」として聞こえるのですが、気分が悪い音は「単なる雑音」として認識するのです。

    もしもあなたが30歳として、20歳の人が聞く音楽を気持ち好いと感じて聴けるのなら、それはあなたの脳が20歳と同じ状態を維持できているということなのです。 20歳の人が熱狂できる曲を、同じように受け入れることが出来るのは脳年齢が20歳かもしれません。

    脳と耳の関係は、探っていくと奥深いモノなのです。

    例えば? ある夫婦は自分達の家が欲しくて、静かな山間の村に居を構えようと家を下見に行きました。 住んでいる近隣住民の人の意見を聞いても素晴らしい自然環境でしたが、唯一の不安は家の横を通る小川でした。 絶え間なく流れる小川のせせらぎをどうだろうかと思いつつも、その家を購入しました。 予想通り素晴らしい環境でしたが、入居した時点では小川のせせらぎが少し気になりました。

    その後、何週間か経過して知人が遊びに来て泊まることになりました。 翌日の朝、みんなで朝食を取っていると知人が「あんなに小川が流れているのに、よく眠れるねぇ?」と言うと、「あぁ、そうなの? でも、慣れたらイイ感じの音楽みたいなもんだよ。」 こう答えたのです。

    さて、ここで質問ですが「彼らの聴力は衰えた&変わったのでしょうか?」

    答えは「いいえ」です。 実は脳がその音を生活の一部だと認識したので、音を不快に感じなくなったのです。 ここがポイントで、脳は不快な音はうるさく感じるのですが、好みの音は静かに感じる性質があるのです。

    F1マシンの爆音は興味の無い人にはうるさいだけですが、車好きにはたまらないマシンの鼓動なのです。

    これは勘違いしている人が多いのですが、音や声と言うのは脳が理解するのであって、耳は理解できません。 耳が聞いてから、その音を脳が「快か?不快か?」に聞き分けて認識して、初めて好き嫌いが出てくるのです。

    脳がこの作業を終えないうちは、耳は単なる集音機状態です。

    のべつ幕なしに色々と聞いてしまうので、「聴覚錯乱」という現象が起きはじめます。 今までは好いと思っていた音が不快に聞こえたり、気にならなかった音が気になり始めたりします。 (この現象、スピリチュアルカウンセラーに言わせると霊の仕業とか~神の声となるようですが、そんなことを言うから科学者や世間の人に相手にされないのです。)

    耳は重要なので大切にしないと気付かないうちに老化現象が起こっていて、いつの間にか自分だけの世界に入り込んでしまう危険があるのです。

    あなたは脳の衰えを誤魔化さずに、ちゃんとケアできていますか?

    (°д°;;) ナント!

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    運の良い人。

    運の良い人と交わっていると、知らず知らずのうちに良い運に恵まれるようになります。 今の自分の周りの人はどれぐらい運が良いかを見て、自分の運気レベルの確認をして見るといいかもしれません。 自分の周りに運の悪い人が多ければ運が悪いし、運の良い人が多ければ運が良い。 単純にこう考えても、あながち外れではないのです。

    以前の私の周りには嫌な人が多かったのは、自分自身が嫌な人だったからと納得しています。 しかし、素敵なお客様ばかりだと言い続けた結果、本当に良い人に出会う確率の方が多くなりました。 騙されたと思って「私の周りは良い人ばかりだ。」と言い続けて見るのも、手軽に出来る開運法ではないかと思います。

    私は自分の過去を反省する上に置いて一番悔やんでいるのは、人とのかかわりを持たなかった点です。 自分から声を掛けるとか掛けないとか、そういう問題ではなく「人のせいばかりにして、自分の言うことが通らないと文句を言う。」 こんな自分中心のことばかりで、人に嫌われていたのが悔やまれるのです。

    いじめられていた時代を考えても、それは小学生で終わらせることができたかも知れないし、高校生で終わらせることが出来たかもしれない。 それなのに社会人となり勤める先でも次々と嫌われて、いじめられ続けたのは私に問題があるからです。

    学生時代も含めて、もしかしたら社会人となり勤めていた会社の中に素晴らしい人がいたかもしれない。 かかわりを持たないだけで、ひょっとしたら話せば素敵な人が居たかもしれない。 そういう出会いの可能性を全部無にしてきた過去は取り戻せないし、もったいないことをしたと思えてきます。

    今は出会う人が「ステキだなぁ~。」と思える人が多いのですが、それは自分でもラッキーだと感謝できます。 そういう気持ちを常に持ち続けていれば、運命はもっと早く色々な人に出会わせてくれていたのにと、過去を悔やんでしまう時もあるのです。

    「人との出会いは素晴らしい」 それは本を読んで得る知識よりも、生きた相手から受ける影響の方が自分の可能性を広げるからです。 人の出会いと言うのは意外と限られた世界ですが、それを広げるには自分が誘われる立場にいるか? 誘う立場にいるか? どちらかでしか広がらないのです。 

    ただし、あなたも未来における出会いの可能性を広げることは出来るのですが、それを敏感に感じ取ることできるかどうかなのです。

    例えば、同窓会を企画して自分が率先して幹事をやれば、日常において大変かもしれないけれど、自分が会場を準備して同窓生たちに次々と連絡を取り、いざ始まってみれば疲れはするけど、やり遂げた充実感と旧交を温めるチャンスと両方を手に入れたことになるのです。

    まさに、気苦労が喜びに変化した瞬間を味わえるのです。

    親近感を抱くというのは身近な存在になりえないと無理なのですが、それはホンの少しのキッカケであり大げさなことではないのです。 同じ中学出身と言うことだったり、同じ美容院へ行っていたということだったり、同じ温泉旅館へ言ったことが判明したり、そういう共有する時間が取り持ってくれる人間関係もあるのです。

    暗いよりは、明るい方がいい。
    辛いよりは、楽しい方がいい。
    嫌いよりは、好きな方がいい。

    これは誰しも同じことで、自分が明るい毎日で~楽しく生きられて~好きになってもらえる人生、それを不愉快に思う人は余り居ないのです。

    辛いことや悲しいことがあるのも人生ですが、楽しいことや嬉しいことがあるのも人生です。 人生に運気の波があるのは避けられないのですが、周りに人が集まる状態でいれば運気の波の変化を補うことは出来るはずです。

    人が集まらない人生よりは、人が集まる人生の方が笑顔になれると思うのです。

    辛いことがあったなら、神様の前で思い切り泣けばいいんです。
    しかし、誰か人がいる前では常に笑顔でいてください。

    神様は泣き顔でも受け入れてくれますが、人は笑顔しか受け入れてくれない、そういう冷たい面があるのも人の一面と言う真実なのです。

    人はつい感情を顔に出してしまいがちですが、感情が顔に出やすいと良いことも悪いことも両方が満遍なくやってきます。 しかし、辛くても悲しくても常に笑顔でいて、感情を表情でコントロールできるようにすれば、知らず知らずのうちに楽しいことばかりになると思うのです。

    おかしくなくても笑っていると、「なんかわかんないけど、笑えてきた。」 こういう経験は誰でも一度はあると思いますが、表情で感情を作るのは誰でも出来ることなのです。

    幸運の女神は笑顔が大好きで、楽しく生きている人はもっと楽しくしてあげようと思うのです。

    あなたも自分の周りに、笑顔で人が集まるようにしてみたいと思いませんか?

    ヤアヤア (/・ω・)(/・ω・) "ヽ(´▽`)ノ" ハイハイ~

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    つながり。

    おはようございます。 東京出張の為2日間ログをお休みしましたが、私がいない時に雪などで交通機関に少し影響があったようで、お客様はいかがお過ごしになったのか心配です。

    さて、先日の昼前に倉敷へ戻ってきましたが、東京の方が暖かったので厚着をして行かなくて正解でした。 出る時は少し肌寒い感じがしましたが向こうへ着いてから歩いていると、そうでもなく良い位だったので岡山の方が気温は低かったようです。 (20日の岡山は雪が降ったようですが、私は結局雨にも雪にもあわずにスムーズな出張でした。)

    今年最初の東京出張なので初詣を兼ねて田宮神社へ行きましたが、私は基本的に余り雨にあわないので傘は必要ないことが多いです。 雨が降る時は屋内にいるか~行く先が晴れてくることが多いので、晴れ男とまでは言いませんがそれに近いです。 (案の定、東京へ着いても雨や雪にあわずに済みました。)

    今回も品川で新幹線を降りて山の手線に乗り換えて代々木まで行き、そこで中央本線に乗り換えてJR信濃町駅まで行き下車して、田宮神社へ真っ直ぐに向かいました。

    今回はログを読んで頂いているお客様のお願いも一緒に祈願してもらう予定なので、時間の関係もあり私にしては珍しくタクシーで田宮神社へ直行です。 (前回の出張で話し込んでしまい、おまけに時間を勘違いしていたので、今日は遅刻しないようにと気合を入れていました。)

    ここでひとつ注意点ですが、これを見てお岩稲荷(田宮神社)へ行こうと思った人は「地図」を持って行った方がイイです。

    タクシーの運転手さんにお岩稲荷(田宮神社)と言っても知らない人が多いので、地図を見せるか~もしくは口で説明しないとたどり着けないと思います。 地元でもお岩稲荷の真実を知っている人は余りいないので、お参りしない人や場所を知らないと言う人の方が多いのです。 (左門町交差点を右に入り、最初の角を左と言う方がイイかも?)

    さて、前回ここへ来た時にお岩さんの子孫に会ったのですが、その時にお参りや祈願の仕方を教えてもらいました。 ただし、聞いていても少し気が引けるのですが、それと言うのも田宮神社は賽銭箱に向かって右横に靴を脱ぐ所があるのですが、一応民家なので勝手に人の家に上がるようで「いいんかな~?」と思ってしまいます。

    気を取り直して靴を脱いで通路へ上がり、右へ進むとすぐに左へ曲がり、その先の左側に入り口があるので中へ入りました。 まず、引き戸を開けると部屋が2間あり、入って右手に御神体と言うのか? 色々と祭ってあります。 祭壇やお願い事を置く場所(白い布をかけてあります。)があり、そこへ皆様のお願い事祈願の神とお布施を置いて祈願開始です。 (この辺は長くなるので、内容は省略します。)

    「今日は…。」と言うより、いつも遅刻をしてはいけないのですが早々に済ませて信濃町駅に戻り会場へ向かいました。 前回は時間を間違えるのと話し込んだせいで大幅に遅刻をしてしまい冷や汗モノでしたが、今日はさっさと行動したのに加えて時間をキチンと確認して中央本線から山手線に乗り継いで一路某駅へ…。

    降りてからホテル会議室へ向かう前に、前回東京へ来た時に見つけたラーメン屋さんへ行き食事です。 (いつもは昼食無しでしていたのですが今年から会議室の予約を大幅に増やしている為、長時間会議室に缶詰状態になるので食事をしておかないとキツイかな?)

    私が利用している場所はフロントの前に会議室があるので、手続きしてすぐに準備に掛かれるので時間短縮になり便利で助かります。 また、必ずフロントの人が入り口を見ていてくれるので、精神的にも鑑定に集中できるので助かります。

    この会議室は東京と言うことを考えるとリーズナブルですし、駅から近いということも考えると利用しやすい方だと思います。 ここより良いホテルやオフィスを使用するならば、鑑定料を今の金額で行うことは物理的にも無理です。 ここなら会議室使用料が1時間4千円もあれば充分ですが、ヒルトンやプリンスの会議室を使うなら1時間の使用料が3~4万円となり、とても払える金額ではありません。

    不手際などによりお客様には御迷惑をお掛けするかもしれませんが、利便性や鑑定料を抑えるなどお客様の為にも良い場所だと思います。 (お手数をお掛けするかもしれませんが、御理解と御協力をお願いいたします。)

    私としては窓の外に通る電車の風景もナカナカ良いモノで、結構この場所を気に入っています。 ただし、最近会議室の一部をPCルームに改装したので、一番風景の良い場所は関係者しか入れなくなったので、それが残念と言えば残念です。

    今回は偶然と言うか~不思議だなぁと思うお話をお聞きしたので、御紹介したいと思います。

    ある女性が岡山より東京へ出て就職しましたが、なれない都会での生活に期待と不安が一杯でした。 出勤してもしばらくは先輩や同僚など人間関係や仕事に悪戦苦闘でしたが、ある日の休憩時間に先輩より「あなた、岡山だったよね。 それなら倉敷の…?」と、このHPの話になったそうです。 その女性は、「わたし、そこへ行ったことがあります。」と言う感じで話がつながり、その先輩と打ち解けることをキッカケに次々と職場の人間関係が作れたそうです。

    偶然ではありますがログを読んでいる人が岡山と東京でつながっていたなんて、ログを続けているのも無駄ではなく誰かの役に立っているのかなと少し思えました。 (注:今年の東京出張は最初から大爆笑の出来事や銀座のH・Wの話など、ログには書けない内容がたくさんあるのでオフレコ会や忘年会を開催した時に話したいと思います。)

    今日からログを再開いたしますので、拙い文章ではありますが読むだけで、お客様が笑顔になるような~心が元気になれるような、そういう内容を目指していきたいと思います。

    あなたがこのログを読むことで、少しは心がウキウキ出来ているのでしょうか?

    ☆~ありがとう~☆ ヽ(#^ー゜#)v

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