
おはようございます。 今日も素敵なお客様には良いことが待っているから、どんな素晴らしいことがあるかなと胸を躍らせて下さいね。 あなたがいるからこそ世の中は楽しい、素敵なお客様が居なければ日本が暗くなってしまいます。
私は日本に生まれて良かったと感謝していますが、その贅沢な状態で生まれ育っていることを当たり前だと思うのは間違いです。
今日はある人物の御紹介ですが、明治21年に大阪の道頓堀に生まれた大石よねさんは、11歳で京舞の名取りになって13歳で芸妓への道を目指して、山梅楼の中川万次郎の養女となりました。
ところが明治38年6月21日に恐ろしい惨劇が起こりますが、養父の中川万次郎は妻が男と駆け落ちしたことから酒に溺れて、殺傷事件(逃げた妻の母親・弟・妹、養女にしていた二人の芸妓の計5人を惨殺)を起こしました。
この時に17歳だった大石よねさんも巻き添えを受けて両腕を切断され、顔に切り傷を受けて堀江6人切り事件として日本中を震撼させた事件ですが、よねさんだけは命が助かりました。
狂気の義父に両腕を肩から斬られた17才の乙女が絶望したのは想像に難くなく、ましてや明治の日露戦争の真っ最中の頃ですから、その頃の医学でよくも命が助かったとも言えますが、いずれ結婚も考えていた乙女に取って両腕がない辛さは想像を絶すると思います。
ただ、当時の医療費は高かったけれども事件(堀江の六人斬り)は有名で唯一生き残った娘に、戦場からも義捐金が集まり助けられていたとあります。
そしてよねさんが入院していた病院の婦長さんも素晴らしい言葉を、若かったよねさんに残しています。
魂に響く言葉の数々ですが受け止めたよねさんも凄くて、何度も自殺を考えたのを踏みとどまった言葉の一つだったとは思います。 今の日本に看護婦長(今は看護師長)は多くいますが、これだけの婦長は余りいないかもしれません。
しかも明治時代だから余計に凄いと思いますが、婦長の言葉を要約すると「あなたの命を助けたのは院長や他の力もありましょうが、そればかりではない。 あなたはこれから、なみなみならぬ辛く苦しく悲しい年月がありましょう、人生の荊の険しい山や谷があるでしょう。 しかし、あなたなれば、この辛い使命を負うだけの覚悟が持てると神仏が思し召して、助からぬ命を助けて下さったのです。 私の言いましたことを、いついつまでも忘れずにいてください。 又、この後、何か私に出来る事あらば、いつでもご相談して下さい。」と、こんな言葉で送りだされました。
その後、大石よねさんは事件の被害者として身障者である自身の姿を見せ、桂文団治一座に加わり寄席や高座で小唄や長唄を謡いながら、地方巡業で生計を立てて両親を養う日々が続きます。
しかし、三年ほど経った巡業中のある日のこと、鳥かごの中のカナリヤを見て心を打たれます。 親鳥が雛に口でえさを運んでいる姿をみて、鳥は手がなくても一所懸命に生きていることに気付いて、口に筆をくわえて文字を書くことを習得したのです。
そしてよねさんは芸能界から引退して大阪生玉の持明院叡運僧正に古典を習い、明治45年3月に日本画家の山口艸平と結婚し2児を授かりますが昭和2年に離婚、2児を連れて上京しましたが、昭和6年に大阪の高安に庵を建て尼僧を志し、堀江事件で亡くなった5人の霊を慰め、婦女子の為の収容施設を置き教育に取り組みます。
そして昭和8年に、高野山金剛峰寺にて得度、法名の順教を授かります。 実は大石よねさんの正体はのちの「大石順教尼」で、後年は多くの障害者の光となられた方です。
五体満足の健常者が救いを求めて悩みや不運を話すと、「両腕のない私に何を求めるの? どうしてもと言うなら樹に両腕を後ろ手に縛られて三日間、そのままで暮らしなさい。」と、厳しい人生を過ごして来た大石さんに取って五体満足な人の不幸や不運は甘え、そのように見えていたのだと思います。
ヘレン・ケラー女史をして世界の奇蹟と称賛された言われていますが、ヘレン・ケラーを驚嘆させた日本女性がいたことに、日本人として誇りに思うし学び尊敬しなければと思います。
順教尼の一生は耐え忍ぶことの連続で、順教尼も忍ぶと言う文字が好きで書き遺されています。 死刑になる前には監獄へ面会に行き義父を許し、義父の罪が軽くなるなら何でもしますと言われたのも常人ではできません。
今でも絶望的になるほどの困難や苦痛を精神的にも肉体的に負った、うら若き乙女が壮絶なる人生を過ごしてきたことに、私はぐうの音も出ないと言うか尊敬しかありません。
辛いとか苦しいとか今の日本に生きている以上は贅沢としか言えず、この人を前にして苦しいとかどうとか言えるほどの人生体験は私にはありません。
順教尼は学問を習ったこともなく字を覚えることから始めて、書くことは小鳥に教わったとありますから口を使い文字を書き絵を描いた上に、愛する夫や子供と別れて仏門の道に入られたなんて恐ろしく意志の強い女性です。
名を順教と改めてからは自分と同じように身体に障害を持つ人々の救済に、その生涯を捧げて障害者の心の母となり慈母観音と慕われ、昭和37年には日本人として初めて世界身体障害者芸術協会の会員に選ばれました。
そして昭和43年4月21日に、障害者の救済道場として自らが開創した京都市山科の仏光院において、波乱に満ちた81年の生涯を閉じました。
あなたは大石順教を、御存じですか?
ぉお!!(゚ロ゚屮)屮
予約専用電話:090-4690-4618
予約受付日時:火・水・木の夜8~10時
東日本の方は東京事務所へ、
西日本の方は倉敷事務所へ、
予約をお入れ下さいませ。
鑑定は年中無休で、365日鑑定しています。
霊視カウンセリング 山崎かずみ
倉敷事務所:岡山県倉敷市川西町1-9
東京事務所:東京都港区赤坂9-1-7
私は日本に生まれて良かったと感謝していますが、その贅沢な状態で生まれ育っていることを当たり前だと思うのは間違いです。
今日はある人物の御紹介ですが、明治21年に大阪の道頓堀に生まれた大石よねさんは、11歳で京舞の名取りになって13歳で芸妓への道を目指して、山梅楼の中川万次郎の養女となりました。
ところが明治38年6月21日に恐ろしい惨劇が起こりますが、養父の中川万次郎は妻が男と駆け落ちしたことから酒に溺れて、殺傷事件(逃げた妻の母親・弟・妹、養女にしていた二人の芸妓の計5人を惨殺)を起こしました。
この時に17歳だった大石よねさんも巻き添えを受けて両腕を切断され、顔に切り傷を受けて堀江6人切り事件として日本中を震撼させた事件ですが、よねさんだけは命が助かりました。
狂気の義父に両腕を肩から斬られた17才の乙女が絶望したのは想像に難くなく、ましてや明治の日露戦争の真っ最中の頃ですから、その頃の医学でよくも命が助かったとも言えますが、いずれ結婚も考えていた乙女に取って両腕がない辛さは想像を絶すると思います。
ただ、当時の医療費は高かったけれども事件(堀江の六人斬り)は有名で唯一生き残った娘に、戦場からも義捐金が集まり助けられていたとあります。
そしてよねさんが入院していた病院の婦長さんも素晴らしい言葉を、若かったよねさんに残しています。
魂に響く言葉の数々ですが受け止めたよねさんも凄くて、何度も自殺を考えたのを踏みとどまった言葉の一つだったとは思います。 今の日本に看護婦長(今は看護師長)は多くいますが、これだけの婦長は余りいないかもしれません。
しかも明治時代だから余計に凄いと思いますが、婦長の言葉を要約すると「あなたの命を助けたのは院長や他の力もありましょうが、そればかりではない。 あなたはこれから、なみなみならぬ辛く苦しく悲しい年月がありましょう、人生の荊の険しい山や谷があるでしょう。 しかし、あなたなれば、この辛い使命を負うだけの覚悟が持てると神仏が思し召して、助からぬ命を助けて下さったのです。 私の言いましたことを、いついつまでも忘れずにいてください。 又、この後、何か私に出来る事あらば、いつでもご相談して下さい。」と、こんな言葉で送りだされました。
その後、大石よねさんは事件の被害者として身障者である自身の姿を見せ、桂文団治一座に加わり寄席や高座で小唄や長唄を謡いながら、地方巡業で生計を立てて両親を養う日々が続きます。
しかし、三年ほど経った巡業中のある日のこと、鳥かごの中のカナリヤを見て心を打たれます。 親鳥が雛に口でえさを運んでいる姿をみて、鳥は手がなくても一所懸命に生きていることに気付いて、口に筆をくわえて文字を書くことを習得したのです。
そしてよねさんは芸能界から引退して大阪生玉の持明院叡運僧正に古典を習い、明治45年3月に日本画家の山口艸平と結婚し2児を授かりますが昭和2年に離婚、2児を連れて上京しましたが、昭和6年に大阪の高安に庵を建て尼僧を志し、堀江事件で亡くなった5人の霊を慰め、婦女子の為の収容施設を置き教育に取り組みます。
そして昭和8年に、高野山金剛峰寺にて得度、法名の順教を授かります。 実は大石よねさんの正体はのちの「大石順教尼」で、後年は多くの障害者の光となられた方です。
五体満足の健常者が救いを求めて悩みや不運を話すと、「両腕のない私に何を求めるの? どうしてもと言うなら樹に両腕を後ろ手に縛られて三日間、そのままで暮らしなさい。」と、厳しい人生を過ごして来た大石さんに取って五体満足な人の不幸や不運は甘え、そのように見えていたのだと思います。
ヘレン・ケラー女史をして世界の奇蹟と称賛された言われていますが、ヘレン・ケラーを驚嘆させた日本女性がいたことに、日本人として誇りに思うし学び尊敬しなければと思います。
順教尼の一生は耐え忍ぶことの連続で、順教尼も忍ぶと言う文字が好きで書き遺されています。 死刑になる前には監獄へ面会に行き義父を許し、義父の罪が軽くなるなら何でもしますと言われたのも常人ではできません。
今でも絶望的になるほどの困難や苦痛を精神的にも肉体的に負った、うら若き乙女が壮絶なる人生を過ごしてきたことに、私はぐうの音も出ないと言うか尊敬しかありません。
辛いとか苦しいとか今の日本に生きている以上は贅沢としか言えず、この人を前にして苦しいとかどうとか言えるほどの人生体験は私にはありません。
順教尼は学問を習ったこともなく字を覚えることから始めて、書くことは小鳥に教わったとありますから口を使い文字を書き絵を描いた上に、愛する夫や子供と別れて仏門の道に入られたなんて恐ろしく意志の強い女性です。
名を順教と改めてからは自分と同じように身体に障害を持つ人々の救済に、その生涯を捧げて障害者の心の母となり慈母観音と慕われ、昭和37年には日本人として初めて世界身体障害者芸術協会の会員に選ばれました。
そして昭和43年4月21日に、障害者の救済道場として自らが開創した京都市山科の仏光院において、波乱に満ちた81年の生涯を閉じました。
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霊視カウンセリング 山崎かずみ
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