徒然草(岡山・東京・山崎かずみ)

    あなたを元気にしたい、それが私の願いです。

    杉良太郎。

    おはようございます。 素敵なお客様方の心は美しい、誰かの役に立つ未来があるからこそ、運命は皆様を応援していると思います。 その運命からの後押しを受けて前に進む、それも高いレベルへ向かって進むことが人生を楽しくします。

    さて、広く知られておりますが杉良太郎さんは、かなり手広く支援(寄付・ボランティア)をしておりまして、自分の私財を投げ打って活動されているので、本当に凄いと思います。

    杉良太郎さんは日本の芸能人で、ベトナム文化友好協会理事長など数々の肩書をお持ちですが、杉良太郎さんと言えば数々の時代劇の主演俳優ですきま風は85万枚を超える大ヒットとなった歌手でもあります。

    現在も日本各地でディナーショーを行っているし、流し目の杉様を求める中高年の女性ファンが大勢いらっしゃいます。 15歳の時からボランティア活動に従事しているとの話ですが、だからと言って恵まれた環境で育ったのかと言えば違います。

    幼少期から歌手を目指していた杉様は10代ではカレー屋に奉公して元旦を除く364日はカレーしか食べることのできない3年間でしたし、売れない時代には多額の金品や賄賂などをプロデューサーから要求される理不尽にもめげず、それでも杉様は芸能生活に難しさを感じたことはないと癒える強さがあります。

    杉様が難しさを感じているのは救いを求める人々の立場を真に理解すること、それに対して自分には何ができるのかと言う無力さ、杉様はお金があろうとなかろうと無条件にボランティア活動を続けているので凄い、杉様自身は生まれ持った性格だからと語っていますが真似はできないし素晴らしいです。

    嘘か本当かで言えば嘘っぽいけれど本当の話で、幼少期には物乞いにお金をあげてと母親に懇願したなど逸話に事欠きません。

    杉様を知らない若い世代でも杉様のボランティア活動の真実を知れば、きっと感動すると思います。 最近で言うと下町ロケットに出ていましたが、杉様のことを少しでも知って貰って、それと同時に時代劇への関心も高まるなら杉様も喜ぶと思います。

    杉様は肩書のように日本とベトナム社会主義共和国との親善にも20年間の支援、ハノイ市に教育施設の設置や無償援助に積極的に関わり、ベトナム政府から特別友好大使を委託されました。

    そしてベトナム人の里子は81人ですが、杉様がベトナムの子どもへチョコレートを上げたら、子どもたちは食べないから不思議に思い「美味しいから食べたらいいのに?」と行ったら、子どもたちが「お菓子ではなくお父さんやお母さんが欲しい」と言いました。

    その言葉を聞いて杉様は泣きましたが、しばらく泣いてから「僕が君たちの父親になる」と、即座に4人を養子にしたと言う逸話もあります。

    そして杉様が長く続けている活動としては刑務所への慰問活動があり、半世紀以上に渡って慰問活動をした功績が認められて、2008年には芸能人で初めてとなる緑綬褒章を受賞しました。 慰問活動を通して杉様が感じたことや見てきたことを、刑務所内の改善点として政府に意見を提出するなどもしておられます。

    2011年3月11日に発災した東日本大震災では被災地への支援活動を開始、大量の救援物資を載せた車両12台を手配して炊き出しを自ら行いました。

    1995年の阪神淡路大震災で実家が被災して以降、被災地への支援活動を継続的に行なっておりまして、2004年の新潟県中越地震でも精力的な活動を行なっていますから凄いです。 また、地震で全体の70%近くが不通となった三陸鉄道の復旧支援ヘッドマークのオーナーとなって、2011年9月28日よりマークをつけた列車の運行が開始されました。

    あの時は日本中に絶望が蔓延しておりましたが杉様は、車両12台に水2トン~男女下着類4000枚~歯みがきセット1万セット~入れ歯洗浄剤500個、そしてだるまストーブ21台~石油ストーブ8台~灯油・ガソリンなどを持って被災地へ向かいました。

    杉様は奥様の伍代夏子らと共に車両15台でカレーやサラダなど2万食の食事と、入れ歯洗浄剤などの物資を届けて宮城県内の避難所を細かく廻り、その後も福島県を何度も訪れるなど様々な支援を続けた活動が評価されました。

    震災の時に記者から「売名行為では?」と尋ねられた時の杉様の答えは、「ええ、売名行為ですよ、みなさんもおやりになるといい。」で、まさに男だとも負います。

    以前にもインタビューで、「偽善とか売名と言われることもあると思いますが…」と聞かれた時に、「ああ、偽善で売名ですよ。 偽善の為に今まで数十億を自腹で使ってきたんです。 私のことをそういうふうにおっしゃる方々もぜひ自腹で数十億出して名前を売ったらいいですよ。」と、これが言えるのは杉様くらいです。

    また、寄付したくてもできないと話す方々に向けられた言葉も感動で、杉様は「福祉をやるには確かに時間とお金がかかる。 特にお金がないと見栄えのいい福祉はできません。 でも、お金がない人は時間を寄付すればいい。 お金も時間もない人は、福祉に対する理解を示し、実際に活動をしている人に拍手を送るだけで十分。 それでもう立派な福祉家なんです。 福祉ってそういうもんです。」は涙が出ます。

    もう、素晴らしいとしか言いようがありませんが、私はまだまだ何もできていないので悲しい程に下のレベルで恥ずかしいです。

    なお、杉様が珍しく遺憾の意を表明されているのが、2015年から始まった「法務省矯正支援官」の委嘱式に出席した時のこと、杉様は特別矯正監の肩書きで矯正支援官を指導する立場にあります。

    そこで「2年の中で非常に働いていただいた方と、全く働いていただかなかった方とが分かれましたね。 そこで、私たちは働いてくれる方を優先して委嘱させていただきました。 2年のうちに1回も行っていただいてないのは論外。」と語りました。

    杉様の厳しい言葉は2期目に委嘱されなかった人たちに向けられていたようで、外れたのは浜崎あゆみと貴乃花親方でしたが、法務省曰く「浜崎あゆみ様はそうです。 貴乃花様はお越し頂いたこともございますが・・・。」とのことです。 (刑務所の慰問は制約が多い上にTVや雑誌に取り上げられることがない)

    杉様は慈善活動について売名と言われてもかまわないから継続すべきと主張、それだけにやったふりの人へは何か思うことがあるのかなと思いました。

    あなたは杉良太郎、ご存知でしたか?

    ('-'*)アリガト♪

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    三浦知良。

    おはようございます。 素敵なお客様にお会いできることで幸せを感じますが、誰かに必要とされる人生を歩めたら幸せ、モノやお金ではなく誰かの役に立つ人生とは素晴らしい、本当にありがたいことだと感謝の毎日です。

    さて、Jリーグの横浜FCに三浦知良選手(愛称:キングカズ)がいまして、高校を中退してブラジルに単身で渡航してCAジュベントスに所属しましたが、当時のカズ選手は先生や指導者からプロは無理だと言われ続けていました。

    夢を諦めて日本に帰国も考えたそうですがブラジルで下積みを続けた理由とは、後に本人が語ったところによると公園で現地の貧しい少年達がサッカーをしている様子を見かけ、その少年達の中には裸足の子や片足がない子もいて、ボールも古くて汚いのに楽しそうにボールを追っていました。

    それで「自分には両足も、スパイクも、いいボールもある。 何を俺は贅沢なことを言っているんだ。」と帰国を思いとどまったとの話です。

    そしてサンパウロのサントスFCとプロ契約を結びましたが、サントスFCで出場できたのは1部リーグ2試合のみ、翌年にはマツバラと正式契約を結びレギュラーとして活躍、同年10月にクルーベ・ジ・レガタス・ブラジルに移籍、ここでもレギュラーとして活躍して日本人初のブラジル全国選手権へ出場しました。

    更にユース時代に所属したキンゼ・デ・ジャウーへ移籍、SCコリンチャンス・パウリスタ戦で日本人としてリーグ戦で初得点を記録、格上の人気チーム相手に3-2で勝利の番狂わせ、この試合はブラジル全土にTV中継の為、三浦知良の名前がブラジル全土に響き渡りました。

    そしてブラジルのサッカー専門誌プラカー、年間ポジション別ランキングで左ウイングの第3位に選ばれ、クラブでの活躍によりジャウー市から名誉市民賞を贈られ、そしてコリチーバFCに移籍してパラナ州選手権優勝に貢献しました。

    今の選手と比べて大したことはないと話す記者やファンがいますけれど、海外で活躍する今の選手と比べても見劣りするどころか逆、当時はヨーロッパよりブラジルが強い時代、そんなリーグにいるだけでも今の海外組とはモノが違う、その上でブラジル国内のポジションで左ウイングはトップが集う聖域、そこでポジション別部門3位は相当凄い話です。

    カズ選手がブラジルへ行った1980年代はJリーグも無く、自分で開拓していくしかないし人種差別も凄かった、今の海外組の優遇は過去に開拓してくれた先人のおかげで、今の地位は自分の実力だけではありません。 今の時代にカズは通用しないと知ったらしく言う記者とファンは、今の日本代表が1980年代のブラジルでは通用しないどころか、補欠にすらなれません。

    その三浦知良選手も50代になりましたが2017年には背番号11にちなみ、1月11日11時11分に横浜FCのクラブ公式サイトで契約延長を発表、この年の開幕は誕生日の2月26日で、開幕と同時に50歳だからJリーグ初の50代選手です。

    なお、リーグ戦でゴールを決めた最年長のプロサッカー選手の、ギネス世界記録を持っているのも三浦知良選手です。

    以前にTBSの番組で引退しろと失礼なことを言われた時、「もっと活躍しろと言われているんだと受け取った。 引退しなくていいと言わせてみろと言う思いで言ってくれたと思ってやります。」と大人の返答です。

    記者からも客寄せパンダじゃないですかと質問をされても、「でも、パンダじゃなきゃ人は来ないですから。 僕は客寄せパンダで十分ですよ。 だって普通の熊じゃ客は来ないんだもの。 パンダだから見に来るんだもの。 熊はパンダになれないんだから。」と返しています。

    サッカーはさっぱりわからないので素人の意見ですが、ボールを扱うテクニックは50代でもかなり高いレベルで、日本代表とボールの奪い合いをしても時間限定(2~3分など)ならイーブンだと思います。

    日本国籍の選手でブラジルで成功した唯一の選手で、世界各国のクラブを渡り歩いた開拓者でもあります。 サッカーを日本でメジャーに押し上げた立役者で、若手からストイックなプロ意識はお手本と言われています。

    朝一番にグラウンド入りして若手とは親子ほども違うのに練習は一緒のメニュー、フィジカル&マッサージ&栄養士は個人で雇い徹底した自己管理です。

    サッカー選手としては単純にプレーが凄いと思いますが、日本にプロがなかった時代に高校中退して単身ブラジルに渡りプロとなり、Jリーグ開幕に合わせて帰国後は日本代表として長期間活躍、代表での55得点は歴代2位です。

    Jリーグの発足がないと今の日本サッカーはかなり立ち位置が違った筈で、カズ選手のスター性のおかげで救われた部分が大きく、サッカー人気のすそ野を広げることに貢献できたと思います。

    それに帰国当時からW杯出場を言っていたのに周りは白けた感じ、今ではW杯でも常連と言う日本ですからカズ選手は凄いです。

    それにどうこう言っても50代で現役は素晴らしい、誰よりも練習して体調管理を怠らないなどストイック、批判もありますが今の年齢だからこその高いプロ意識で多くの人から尊敬され、相手チームのサポーターから拍手される時もあります。

    戦力になってないから引退しろとネットで匿名の方々が声高に言いますが、文句があるなら直接キングカズ選手に言えばいいのに、実際に目の前に居たら握手して下さいとか何も言えないまま、そんなことでは日本男児の名が泣くと思います。

    いつの日にか三浦知良選手と普通に連絡したり食事へ行ったり新年会へ来て貰ったり、そういう関係になれたらいいなと思いますが夢のまた夢、人から笑われそうですけど笑われても平気、会いたい人がいる方が人生の張りが出るし楽しみです。

    あなたは三浦知良選手、ご存知でしたか?

    サンキュゥ♪(o ̄∇ ̄)/

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    宗次徳二。

    おはようございます。 人が生きているのは何の為なのか、それは歳を取ると思い始めることの一つでもあり、それを思わないようであればある意味でお気楽に生きて行けますが、死ぬ時に後悔したり死んでから後悔したりと言う人生になる可能性が大です。

    人は悲惨な人生を歩んできた人ほど成功してから、社会貢献などをしたいと思い始めたり実際に社会貢献を始めたりする人が多く、エスカレーターで歩んできた人や恵まれた人生を歩んできた人ほど、自己中心的で人のことなど考えない人生になったりします。

    今日のご紹介する人物(宗次徳二)は生まれた時から両親は不明で、戸籍上は1948年(昭和23年)石川県生まれとされていますが、生後まもなく兵庫県尼崎市の孤児院に預けられて3歳の時に雑貨商だった宗次福松&清子夫婦の養子になりました。

    この養父が競輪やパチンコなどのギャンブル好きで生活が不安定だったので、養父に愛想を尽かした養母は失踪、8歳の時に居場所が判明した養母を頼り名古屋市の四畳半のアパートに家族3人で住むも、養母はすぐに家を出て行きました。

    養父と2人で電気や水道を引くこともできず蝋燭で明かりを灯し、雑草を抜いて食べる困窮した生活を送り、15歳まで生活保護を受けて生活して岡山県玉野市など各地の廃屋を転々として、パチンコ店で零れ玉やシケモク(煙草の吸殻)を集めたりの生活、吸殻を拾わなかったりすると養父から全裸にされ箒で殴られるなどの虐待を受けました。

    15歳の時に養父が胃癌で死去して養母と同居、朝5時半の始発電車に乗り登校前に同級生の父が経営する豆腐屋でアルバイトしながら学費や生活費などを稼ぎ、1967年3月に愛知県立小牧高等学校商業科を卒業しました。

    翌4月に新聞広告を出していた不動産業の八洲開発に応募して入社、1970年2月に大和ハウス工業名古屋支店に転職後に同僚女性の直美と結婚、結婚2年後に独立して1973年に自宅1階に不動産仲介会社の岩倉沿線土地を開業しました。

    不動産業の収入が不安定だったことから妻(直美)と相談、1974年に喫茶店バッカスを名古屋市西区内に開業、オープン初日に手伝いに入った時に開店10分もしないうちに人が集まり、不動産とは違う世界に面白みを感じ喫茶店が天職であると感銘を受け、不動産業からの撤退を決意しました。

    1975年に2号店となる珈琲専門店浮野亭を開業、妻(直美)が作ったカレーが人気を呼びカレー専門店への転身を決断、1978年に「カレーハウスCoCo壱番屋」を創業、西枇杷島町に1号店を出店して10ヶ月後に2店の喫茶店を処分、自転車操業が続いたが新店舗開業などの為に尾西信用金庫から借り入れた100万円のうち20万円は、社会福祉協議会や町役場に匿名で寄付しました。 (この当時、既に寄付を開始。)

    1982年には既に売上が3億円を超えた為、法人組織の株式会社壱番屋を設立し代表取締役社長に就任、1998年には500店出店を機に妻(直美)と社長を交代、自身は代表取締役会長となりました。

    2002年には後継者が育ったことを理由に代表権のない創業者特別顧問に退き、19歳の時にアルバイトとして入社した浜島俊哉副社長を社長に就かせ、宗次徳二自身は役員からも退任し経営から引退しました。

    社交的な妻とは対照的に引退するまで友人を1人も作らず、3~4時間の睡眠時間で仕事に専念、毎朝4時45分に出社して1000通以上のお客様アンケートを読み、店舗の掃除を行なうのが日課で休みは年間15日ほどで、引退後は経営に一切口出しせず後継者に任せていますが、これがなかなかできない一流の経営者です。

    経営の一線を退いてからは2003年に音楽やスポーツの振興、福祉施設やホームレスへの支援などのNPO法人イエロー・エンジェルを設立し理事長に就任、クラシック音楽好きで2007年にはクラシック音楽の普及を目的として、28億円の私財を擲って宗次ホールを建設して2012年1月に名古屋市芸術奨励賞を受賞しました。

    五嶋龍や葉加瀬太郎へのストラディバリウスの貸与、宮本笑里へのドメニコ・モンタニャーナの貸与なども行い、経済的理由で進学できない音楽家志望の児童の支援や、小中学校への吹奏楽器寄付も行っています。

    毎朝4時に起きてホール周辺を掃除、花を植えて昼はスタッフ15人分のまかないを作り、公演前には入場口で客を出迎え一緒にクラシック音楽を堪能するのが日課、2012年4月には経営コンサルティングや講演会等を行う株式会社ライトアップを設立して、代表取締役に就任しました。

    2015年10月にハウス食品が12月1日までに壱番屋の51%の株式を保有、壱番屋を子会社化することを発表、壱番屋の株を23.17%保有している宗次夫妻は保有する株の全てをハウスに売り渡す見込みで譲渡益は約220億円です。

    CoCo壱番屋も経営危機はありましたが、ハンバーガーチェーンや牛丼チェーンが価格破壊を始め大成功していても、宗次会長は「あの商売は2年と持たない」とバッサリ明言して値下げはせず、その後は各社の業績が暴落する中でも堅実に業績を伸ばし続け、ついには株式上場も果たしましたが、その時のインタビューに経営哲学があり今見ても面白いので少し御紹介します。

    「安さを強調」とは安くなければ売れない物を売っている証、安く売る他にアピール出来る魅力が店と商品に無い。

    「条件により値引き」とはあの手この手で条件を付け、クリアすれば値下げをする手法で悪質な業者がよくやり、値引きが前提なのは最初の提示価格が適正価格ではない証。

    「アフターサービスの良さを強調」とは、新しい物を買う時に壊れた時の話をする事自体が不自然、無料と言っておきながら理由を付けて有料にしたり修理不能と買い換えを迫る場合が多い。

    「品質の良さを強調」とは安さ同様に強調しなければ解って頂けない品質の証、良い物は説明しなくても解って頂けるので、アフターサービスの良さと一緒に強調した場合は品質が良いのに修理が必要と矛盾した事を言っている事になる。

    「四字熟語や専門用語を多用」とは、自分の言っている事をお客様に信じ込ませる話術であり、詐欺師や霊媒師が使う話術と同類。

    「DMが何度も来たり電話でのセールスが多い」とは、購入前に何度もある場合は来客数が少ない事(不人気店)の証、購入後にも続く場合はリピーターが少ない証、その店を利用した事を後悔しているお客様が多いと言う証。

    「在庫が無く取り寄せが多い」とは、来客数が少なくいつ売れるか解らないので在庫が持てない、入荷後の連絡先として個人情報を引き出す事も目的、取り扱い品種が多くある様に見せかけているが実際には少ない、そして代金を先払いさせようとする場合は往々にして財務内容が悪い。

    CoCo壱番屋の創業者が岡山県で生活していたことを知る人は少ないけれど、岡山県はかなりの数の有名人や名経営者を生み出しているのに、それを称賛することが少ないのは勿体ない話です。

    最後に北海道で男の子が置き去りにされて行方不明の事件、Twitterにツイートしていますが、東京から帰ってきてグーグルマップで居場所は特定しましたが、正式な依頼が無い限り公表しません。 倉敷の誘拐事件(神戸の事件も含め)でブログに色々と書いて、合っているにも拘らずボロカスに非難されたので、今回は一切公表しませんが見当違いの場所を捜索していると思います。

    あなたは宗次徳二、ご存知でしたか?

    ド―(〃´ノω`〃)―モ!!

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    テキサス親父。

    おはようございます。 昨日は私の誕生日でしたが素敵なお客様方より、プレゼントやメッセージカードなどたくさん頂き、本当にありがとうございました。 個別にお返事できないのは大変心苦しいのですが、この場を借りて皆様にお礼を申し上げたいと思います。 素晴らしいお気持ちを頂き、本当にありがとうございました。 m(__)m

    さて、今日は日本に好意的な外国人のご紹介ですが、中韓を除いて世界の日本への反応は「好き、普通、もしくはよく知らない。」のどれかに該当するだけで、あからさまに「嫌い」とうるさく言うのは中韓だけです。

    では、本題ですが「トニー・マラーノ(1949年2月19日生・コネチカット州出身)」は、アメリカ合衆国の作家&評論家でイタリア系アメリカ人です。

    テキサス州に住んでいることから、通称「テキサス親父(Texas Daddy)」と呼ばれ、結婚と離婚を繰り返すだけでビッグダディと呼ばれる親父と違い、男の中の男と言うべき硬派な生き方をしている親父です。

    生後数ヶ月の頃にニューヨーク市ブルックリン区に引越して30年間ほど過ごし、30歳よりテキサス州に在住しました。 AT&Tの子会社のNew York Telephoneに30年勤めて、2006年の定年退職後より動画サイトを中心に評論活動を行っています。

    ニューヨーク市立大学卒(専攻は歴史学)で、ハンドルネームはPropaganda Buster(プロパガンダ・バスター)のカトリック信者です。 日本のネットユーザーから「テキサス親父」と呼ばれ、その呼び名を本人も気に入り動画の中で自ら「テキサス親父」と称していることもあります。

    2006年頃からYou Tube上でPropaganda Busterの名で動画で意見を発信、You Tubeを知る前は新聞への投書を行っていたが、重大な話題が採用されないことが多くニュースを選択する基準に疑念を抱いていました。

    当初はアメリカの政治についての動画が中心でしたが、2008年にシーシェパードに関して日本を擁護する意見を投稿したところ、有志によって翻訳された字幕を付けてニコニコ動画へ転載されました。

    簡単に活動の紹介ですが、2010年9月15日に産経デジタルZAKZAKとのコラボレーション企画「テキサス親父に訊け!」が始まり、2011年2月にテキサス州知事の推薦でテキサス州海軍協会名誉大将に就任、このテキサス州海軍協会とはテキサス州の歴史や環境保全や、有事の州政府への治安維持協力を目的としたテキサス州が設立した州外郭団体です。

    2011年2月に「テキサス親父日本事務局」を設立、日本のファンへのサービス強化を行っていて、現在は日本事務局の関係者が翻訳を行い動画に字幕を付けて、You Tubeとニコニコ動画に動画をアップロードしています。

    東日本大震災が発生した時は自ら設立の「テキサス親父船団寄金」を通じ、被災地に水や生活用品を届け、2013年5月には米オクラホマ州で発生した竜巻による被害の為の募金活動をするなど、色々なボランティア活動も行なっています。

    ホワイトハウスへの署名活動にも積極的で、「シー・シェパードへの寄付の税金控除を止めさせる為の署名」や、「グレンデール市慰安婦像撤去の為の署名」など、様々な署名活動も行っています。

    2013年12月11日よりホワイトハウスのHPの請願コーナーで、オバマ大統領に慰安婦像撤去を求める請願活動を始め、5日後の12月16日には2万件以上の署名が集まり、期限の1ヶ月後までに所定数の10万筆を達成させました。

    2014年1月11日より夕刊フジで週一回(木)の連載を執筆、2014年6月には韓国のYou Tubeより有害動画指定を受け、韓国でテキサス親父の動画は全て視聴が不可能になりました。 (←都合が悪い物に蓋)

    2011年5月に初来日して和歌山県太地町では、太地町町長や捕鯨業者を応援する講演を行い、同月14日には大阪~翌15日には東京で講演を行い、2012年4月にも大阪と東京で講演会を行い和歌山県太地町を再訪、訪日の際は必ず靖国神社を参拝しています。

    政治的には保守の立場から左翼的傾向の組織や人物について批判を加え、ハンドルネームが示すように各種プロパガンダにおける誤りや矛盾を出典を示しながら反証、世論誘導を批判するスタイルが特徴です。

    日本を擁護する主張が多くシーシェパードやグリーンピースを強く非難、中国共産党を始めとする社会主義・共産主義的反自由主義思想や、左翼的リベラル活動に批判的な評論が多いです。

    テキサス親父曰く、日本が捕鯨非難の標的にされるのは日本人が礼儀正しく丁寧な為と断言、そしてアメリカがトヨタ叩きをした時もアメリカの自動車メーカーとのリコール件数のデータを比較して不当であると非難、善と悪を正しき見極めて日本を擁護している男の中の男です。

    慰●婦問題においても2013年7月にテキサス親父が、米国国立公文書館より正規の手続きで取り寄せた記録文書を調べると、強制連行ではなく正規に雇用されて日本軍兵士よりも高い給料を得ていたことを解明、この公的記録文書はテキサス親父のサイトで閲覧可能、日本の外務省も見習ってHPに公的記録文書を公開するべきです。

    これにより分かるのは最初から日本に非が無いことをアメリカは知っていたにも関わらず、日韓関係が拗れるのを政治的に利用、アジアが一致団結して力が強大になるのは困る思惑があったのかもしれません。 本来ならお互い仲良くして共に発展と思いますが、今更無理なのでお互い関わらない国交断絶がベストです。

    2010年4月1日にテレビ朝日のワイドスクランブルが、マラーノ(テキサス親父)は過去に反日的な言動を行っていたと報じましたが、マラーノはテレビ朝日の報道を明確に否定、吉田調書など捏造を得意とする会社よりマラーノの言うことが正しいとしか思えません。

    テキサス親父の趣味はカメラいじり&にカメラ収集&写真撮影で、キヤノンやニコンのカメラや東芝のパソコンなど、日本製品を愛用している愉快で豪快なナイスガイです。

    あなたはテキサス親父と言う、豪快な侍をご存知でしたか?

    (゚∇^d) ハ~イ!!

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    日本の社長。

    おはようございます。 素敵なお客様が活き活きとする為には日本の経済が安定することも大切、個人には関係ないように思えても社会情勢が安定していると世の中は潤いますが、その為にも日本の社長はドンと構えて日本を成長かつ、安定させる道を進まなければなりません。

    ところが日本の経営者は臨機応変が苦手で、世襲や保守継続など帰ることを余り望みませんし、護送船団や呉越同舟の如く同じでいることや同じ方法であることを望みます。

    あれほどチャイナリスクが言われているのに「他所がするから」と、知的所有権など存在しない中国へ工場を作り日本の技術を盗まれ放題で痛い目に遭い続け、それによる損失は「日本人の給与を抑える」ことで吸収するなんて、日本の経営者はアホなのかと思えます。

    実は海外でモノを安く売って国内では高く売る、そうやって儲かりもしない海外戦略を止められない見栄張り企業は日本には数多くあり、中韓から撤退すれば売り上げは減るけれど純利益が上がる、それをそろそろ白状した方が未来の為だと思います。

    ここから紹介する「SAP(紙おむつ向け高吸水性樹脂)」の世界最大手の日本触媒は、姫路工場に生産の7割を集中して抜群の効率性を実現していました。 その姫路工場が爆発事故を起こして2年程経ちますが、事故前には隣接する木材港を埋め立て姫路の集積度を更に高める計画でした。

    この事故で埋め立て計画は消えましたが日本触媒は成長戦略を再起動して、新たな設備投資計画の中でどう再建していくのか、その辺の考え方が日本触媒を栄えさせるのだと感心する戦略で、この会社の社長は「池田全徳(まさのり)」と言う方です。

    日本触媒は事故後に姫路の復旧を最優先として新規計画は凍結、アクリル酸プラントも再稼働させ次の拡大策を起動する条件が整えました。 当初はBCP(事業継続計画)の観点から姫路は現状時か削減のようでしたが、今後のSAPの競争環境を考えると、新しい実証プラントはマザー工場の姫路が一番との考えです。

    それに事故を起こした後で姫路市長にお詫びに行くと、「事故に対しては厳しい措置を取ることになると思うが、姫路からは出て行かないで下さい」と、姫路市長も日本触媒を支援する方針だったのはさすがで、日本は恩になった人を叩きすぎでもあるし掌を返しすぎでもあります。

    ただし、企業のリスク管理としては当然ですが「姫路に集中しないで欲しい」と言われると、これ以上の姫路への一点集中は安定供給を考えるとできません。 今後は新興国の紙おむつ需要が本格化する上に先進国では高齢者向けの需要が増え、SAPは中長期的に年率5~7%の成長が見込める優良な商品です。

    すると今の生産能力では2018年半ばには商品が足りなくなるので、池田社長はどう考えているのかと言えば新規工場を作ることで対応します。 ただし、他の企業と違うのは候補地が「ベルギーのアントワープ・川崎&千葉・ヒューストン」の3つです。

    これが普通の企業なら中国へ大工場を作り増産体制となるのでしょうが、池田社長の考えとしては「中国の市場なんてどうでもいい」で、「日本で作りたい・日本を空洞化させたらいかん。」と力強い言葉です。

    そして「海外で建設すれば人の問題が大変、日本ならマザー工場の姫路の人間を送ればいい。 川崎や千葉のコンビナートでは石油化学企業の撤退が相次ぎ土地が空く。 コンビナートの中だから、蒸気や水、発電設備などのユーティリティが整っているし、川崎なら、既存の自社工場と一体運営できるメリットもある。」と考えておられます。

    日本触媒も中国へ工場があるにはあるのですが中国のSAP工場の増設は中止、池田社長は中国は地元メーカーが競って工場を建設し安売り競争に走っているから、そういう所で投資しても回収できない。 韓国も同じで中国には知的所有権上のリスクもある。 当社が03年、中国・張家港に初めて工場を作った時も私は反対だった。」とのことです。

    池田社長ははっきりと「中国の市場なんてどうでもいい。 捨てていますから。」と言い切り、更に続けて「SAPもアクリル酸もいずれ中国は自給自足するようになるでしょうが、中国が外へ出て来るようなことがあったら、当社はきちんと応戦する。」とのです。

    そして池田社長は、「日本の皆さんは中国を当てにするからいけない。 中国はたかだか13億人。 世界には50億人の市場があるんですから。」と心強い経営者で、中国市場を当てにしているダメダメ企業は爪の垢を煎じて飲むべきです。

    また池田社長は厳しいところは厳しく、「サボっているヤツの給料は上げん」と言い、「皆が誇れる会社」を目指しています。 誇れる会社とは「安全で安心して働ける会社・汗を流した人が報われる会社」だと定義、これは社長自らの発案で特に事故後に色々な社員の意見も聞いたようです。

    経営の基本姿勢はできるだけわかりやすい言葉にした方が良いとの方針で、社長に就任する前から誇りを持てない会社はダメだと考えておられたようで、安全とは事故も労災もない会社であり、他社がよくやるリストラもしない方針で終身雇用を保証しているから、「安心して働ける」となるとの考えです。

    ただし、「サボっているヤツの給料は上げんぞ=汗を流した人が報われる会社」で、もちろんですが赤字を垂れ流していたら胸を張って働いているとは言えないので、きちんと利益を出すことが「誇れる会社」の基本条件と話されています。

    今の日本企業で池田社長くらいはっきりと方針を示されると社員も安心しますが、中韓に攻められ青色吐息のシャープやパナソニックのような会社で働くと、未来が不安になるのは当たり前です。

    日本の経営者は「社員が幸せ・顧客が幸せ・会社が幸せ」と、3方が得する形にしなければだめなのです。

    あなたは日本の社長、見直しましたか?

    ヾ(o´∀`o)ノワァーィ♪

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    西村勝三。

    おはようございます。 素敵なお客様がしている仕事は目の前のことのみならず、その向こう側には多くの人の役に立っていることがあります。 ついつい、目の前のことだけ考えがちですが、それでも人は人と関わることでしか生きていけないので、目の前の私利私欲で動くと失敗します。

    給料が多い少ないと言うのは誰もが考えることですが、給料が多いと言うのは仕事が大変(責任・知識・技術など)だから、給料が少ないと言うのは同じく大変じゃないから、そういう見方もあることを冷静に考えていくと給料の多い少ないも、少しは見方が変わるかもしれません。

    私は県北時代に工場で働いている時は基本給が約6万円、それに残業が70~80時間と夜勤手当や月2回の休日出勤がついて、手取りが10万円くらいでしたが県北では安定企業として地元に君臨しています。

    その後に転職して建設現場で働いていたのですが、その時は日給が3000円ですから30日フルに働いて約9万円、これが県北の給与水準で低くは無いので県北へお嫁に行くと、県南しか知らない人は大変に思うかもしれません。

    しかし、建設現場を辞めてから目の見えない人のお世話(病院と買い物)をアルバイトでした時、「山崎さん、こんなことしていてはダメ。 あなたには、もっと他にすることがある~。」と、こんな感じのことを言われてから今に至り人生が変わりました。

    このように人はお金だけを追い求めて転職すると間違いなく失敗しますが、使命や生きがいを求めて転職すると「仕事=喜び=やりがい」と言う感じになってきて、いつの間にか楽しいことをしている筈なのにお金が稼げるようになったと言うこともあります。

    それに関して日本人を便利にしつつファッションも兼ね備えた生活にした一人を、今日は御紹介したいと思います。 日本では明治初期の発明に急速な文明開化していく社会を感じさせる発明品が多くみられ、その一つが「洋靴(革靴やブーツなど)」で文明開化を表す一つです。

    洋靴の製造は明治3年3月旧佐倉藩士の「西村勝三(1836―1907)」が、築地に伊勢勝造靴場を開いたことが始まりです。 西村が洋靴の製造を始めたのは、兵部大輔(行政機関)の大村益次郎に命じられた為と言われます。

    明治初年に近代的軍隊の創出に取り組んでいた大村は軍隊用に洋靴を輸入、ところが日本人にはサイズが大きすぎて合わなかったので、西村に日本人の足に合う洋靴の製造を依頼しました。

    西村は築地の工場とともに佐倉(現・千葉県佐倉市)に、士族授産の靴工場「相済社」を開き、佐倉藩士を伝習生として靴の製造を行いました。 相済社は明治30年代に解散しますが伝習生の一人、大塚岩次郎は学んだ製造技術を生かして大塚製靴(現・大塚製靴株式会社)を興しました。

    一方で伊勢勝造靴場は明治17年に「佐倉」から名前をとって桜組製靴と改称し、明治35年に日本製靴株式会社(現・リーガル・コーポレーション)になり、軍靴の製造からスタートした洋靴も次第に種類が増えて、多様なタイプが販売されるようになりました。

    なお、「株式会社リーガルコーポレーション」とは、紳士や婦人など各種靴の製造と販売と修理を行う日本企業で、通称は自社のブランドでもあるリーガルの方が知名度もく、「日本製靴株式会社(にほんせいか)」の方は誰も知らなかったと思います。

    歴史をさかのぼりますと1870年(明治3年)に、日本発の製靴会社「伊勢勝造靴場」を設立した西村勝三が中心となり、1902年(明治35年)1月21日に現在の東京都中央区銀座に「日本製靴株式会社」を設立、これが創業とされています。

    そして内訳を見ると、大倉組皮革製造所(大倉喜八郎)、桜組(西村勝三)、藤田組皮革製作所(藤田伝三郎)、福島合名および東京製皮、それぞれの製靴部門を各社から切り離して統合した会社です。

    翌1903年(明治36年)2月には本店を現在の東京都足立区千住橋戸町に移転、同所に本社兼工場を新設して同年5月には軍靴の生産・販売を開始、帝国陸軍を顧客に下士官兵用の官給品たる編上靴や長靴を主に納めてました。

    この西村勝三の略歴ですが佐野藩で砲術助教を勤めたが脱藩して横浜で修業、そして江戸で伊勢勝商店を開業、戊辰戦争では大総督府御用達として武器売買で巨万の富を得て、伊勢勝造靴工場を設立して軍靴を製造、甲申事変で経営を軌道に乗せて近代的製革の先駆者になりました。

    元々は佐倉藩の士魂を磨いた「成徳書院」の武道場があったのですが、その武道場を改造して製靴の業を教えたのが西村茂樹と勝三の兄弟で、大塚岩次郎(大塚製靴創始者)も業を習った一人です。

    なお、勝三は断髪令に先立つこと2年も早くちょんまげではなく現代の髪型にしており、この決意に感動して高見順が「日本の靴」を著したほどで、当時はちょんまげを切るのはかなりの勇気がいった時代です。

    その後の勝三の躍進は目覚しく、皮革は「日本皮革株式会社」で靴は「日本製靴株式会社」として今のリーガルがあります。

    勝三は他にも正田利右衛門から製鉛法の研究を託されて、それが耐火煉瓦の研究となり明治8年「伊勢勝白煉瓦製造所」に結実、その後は「品川白煉瓦株式会社」となっています。

    つまり、日本人が今のように多種多様な靴を履けるようになった先駆者が西村勝三で、ガス~ガラス~靴下~洋服等の事業も手がけているので、当時も今も業界の先達と仰がれています。

    あなたは西村勝三を、ご存知ですか?

    (ΦωΦ+)ホホゥ….

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    杉原千畝。

    おはようございます。 今日は長くなりそうなので前ふり無しで始めますが、東洋のシンドラーと呼ばれた外交官を紹介したいと思いますが、今の私利私欲に塗れて自分のことしか考えない霞ヶ関の官僚と全く違い、自分はどうなってもいいと多くの人の命を救った日本人がいたのです。

    それは「杉原千畝(すぎはらちうね)」で、第二次世界大戦中に日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアのカウナスと言う都市で、ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人にビザを発給して、彼らの亡命を手助けしたことで知られている偉大なる人物です。 (以後敬称略)

    杉原千畝がリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理に任命されたのは昭和14年で、多くのユダヤ人を救い「東洋のシンドラー」と呼ばれることになった場所です。

    ちなみに「東洋のシンドラー」の「シンドラー」とは何のことか、これも人の名前で「オスカー・シンドラー」と言うドイツ人の実業家で、第二次世界大戦末期に多くのユダヤ人の命を救ったことで知られる人物です。

    シンドラーはドイツ占領下のポーランドで自らが経営していた軍需工場に、労働者としてユダヤ人を雇い入れて身柄を保護することで1200人のユダヤ人の命を救い、シンドラーがユダヤ人労働者の保護を申請する為に作成したリストこそ、映画の題名にもなった「シンドラーのリスト」と呼ばれているます。

    この映画は大きな反響を呼びシンドラーのことを更に多くの人の知るところとなり、このシンドラーの行いに重ね合わせて杉原千畝は、「東洋のシンドラー」と呼ばれるようになったのです。

    杉原が在カウナス日本領事館領事代理となった頃、ユダヤ人に対するナチス・ドイツの迫害が激しくなり、この状況下ではドイツ占領下のポーランドなどナチス・ドイツの影響の強い地域から、逃れてきたユダヤ人をどうするかが国際的な問題となりました。

    日本も例外ではなく松岡外務大臣が在サンフランシスコ総領事にあて、昭和15年7月26日に出した電報によると、ヨーロッパから日本経由でアメリカに渡るユダヤ人難民が、この月の13日横浜発の鎌倉丸に13名、22日発の氷川丸に77名、引き続き多数に上るであろうと述べられています。

    このように日本にも多くのユダヤ人が逃れて来ていましたが、その多くは日本を通過して他国に避難していきましたが、日本ではユダヤ人に限らず全ての外国人について、避難先の国の入国許可を得ていない者には通過ビザを発給しないと決めていました。

    しかし、それだけでは対処しきれない問題が出ていたことが、内務省警保局長から外務省に宛てた文書から分かりますが、ヨーロッパからの避難民の中には避難先の国で入国許可を取ることができると偽り、日本の通過ビザを得て来日しても実際には行き先がなく、それを理由に日本にとどまろうとする者がいるとあります。

    また、日本までの乗船券しか持っておらず避難先の国に行く費用もなく、取り締まりに困っているとも述べられていますが、添えられている表を見るとユダヤ人が含まれていて、通過査証月日及官庁の欄に「同年七月十六日 在カウナス帝国領事代理 杉原千畝」とあり、杉原がビザを発給したことが分かります。

    昭和15年7月16日には杉原によりユダヤ人へのビザ発給は既に行われていましたが、これは決して順調ではなく7月28日に杉原より外務省に宛てて出された電報で、その末尾には日本通過ビザの発給を求めて、連日100名ほどのユダヤ人が領事館に詰め掛けているとあります。

    実はビザ発給を求めて領事館にやって来るユダヤ人の大半は、規則に従えばビザの発給が認められない人々で、その規則とは昭和13年10月7日に外務大臣から在外公館に宛てて発せられたモノで、日本通過ビザの発給が認められるユダヤ人の資格は、「避難先の国の入国許可を得ている」や「避難先の国までの旅費を持っている」などでした。

    日本としては規則に従い資格を持たないユダヤ人への、ビザ発給の許可を出すことは最後までありません。 それでも杉原は独自の判断で発給を続け、その発給された日本通過ビザにより日本に渡ったユダヤ人の多くは、非難先の入国許可を得ていないので、結果として日本で足止めとならざるを得ない人々でした。

    しかし、命の危険が迫るヨーロッパから脱出させることができ、それは彼らの命を救ったことにほかならず、ソ連への併合にともない杉原のいたリトアニアでは各国の在外公館が相次いで閉鎖、日本領事館も閉鎖することを求められ杉原も退去命令が出ましたが、最後まで杉原はビザの発給を続けました。

    この行動は日本の外交官としては「訓令違反」で国に帰れば銃殺かもしれない、それを承知でビザを発給することを人々に告げ、杉原は外交官としての職務よりも人としての道を選択しました。

    目前で死の恐怖に曝されている人間の命を救う以上に尊いことはない、六千人のユダヤ人の命を救った杉原は昭和二十二年の終戦間もない日本に帰国、ところが外務省の態度は思いの外に厳しいもので、何と詳しい理由も告げられないまま解雇、外務省は現在でも首切りの理由を説明していません。

    要するに杉原の勇気ある行動が「自分だけ良いかっこしやがって」と許せない、そんな男の嫉妬が外務省に渦巻いていたと考える方が自然です。 その杉原は外務省を首になった後は様々な職を転々として長い失意の時を過ごした後、語学力を生かし企業の海外駐在員として働きました。

    しかし、救われた人々は恩人「Tiune Sugihara(チウネスギハラ)」を忘れず、昭和60年にイスラエルは「諸国民の中の正義の人賞」を杉原に贈ることを決定、イスラエルは杉原の勇気を最大限に讃えエレサレムの丘に顕影碑まで建立、この時に杉原は八十五歳となっていました。

    こうして杉原は日本の外交官から世界の「人道の人、チウネスギハラ」となりましたが、日本の外務省はますます男の嫉妬の炎を燃やして杉原の存在を公的に無視、とうとう名誉回復がなされぬまま杉原は鎌倉の自宅で波乱に満ちた生涯を閉じましたが、これが「日本のシンドラー」と言われる杉原千畝の物語です。

    そして2000年10月10日に「杉原千畝を讃える顕影プレートの除幕式」が、都内外交資料館で行われたので外務省も渋々ながら功績を認めたようで、その時の外務大臣が故杉原氏と遺族に対し「外務省とご家族との間にご無礼があった」と語り、初めて外務省の非礼を認め正式に謝罪をしました。

    ただし、外務省の姑息なところは白川英樹氏のノーベル賞受賞に合わせて発表、それにより素晴らしい出来事がノーベル賞の陰に隠れて全く記事にされず、ほとんど注目されなかったのは残念で、外務省(官僚たち)はここまで卑怯者揃いとは呆れました。

    あなたは杉原千畝を、ご存知でしたか?

    オォォ♪((*゚゚∀゚゚*))

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